なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2025年1月

弓道稽古始め

梓弓 春{張る}立つ今朝の心もて
      年のひととせ 過ぐしてしかる  加茂すえたか

1月5日恒例の弓道 剣道 柔道 空手の四武道新春稽古始めが、市総合体育館剣道場で合同開会式が行われました。水野市長を含め3人の来賓挨拶のあと、今年の演武は空手連盟が担当し、形 組み手 板割り、などが披露されました。

その後、各団体はそれぞれの会場に分かれて行われました。私が所属する弓道会{会長・山岸光隆6段教士}は、体育館内にある弓道場「澄心館」で、高校・一般50名ほどの多数の参加を得て盛会裏に開催されました。

この弓道場は、昭和60年7月26日総合体育館完成と共に竣工しました。道場名は当時の滑川市長宮崎進策氏が命名され、揮毫された看板は道場内に掲げてあります。まず、最初に山岸会長が年頭の挨拶。
次いで、私からは「一年の計は元旦にあり」目標を持つことは大事であるが、最近大谷翔平選手や将棋の藤井聡太さんを持ち出し夢を持つ事の重要性を論じる人が多いですが、私は、まず「志」を持たねばならない。夢は「志」の先にあるものです。

広辞苑で「夢」を紐解くと、「睡眠中に持つ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される」とある。これに対し「志」とは「心がその方向に向かう」「成し遂げようとする目標を心に決める」とある。明治の初期札幌農学校の先生だったクラーク博士は米国に帰る時「ボーイズビ・アンビシャス」、「少年よ大志を抱け」と有名な言葉を残した。
「夢を持て」とは言わなかったのを見ても分かるように、志のない人が夢だけを見ると幻覚に終わる。
このようなことを話し挨拶としました。

その後、山岸会長の一手{2本}の矢渡しが行われ、緊張の張り詰めた射場に弦音が響き渡りました。そして、参加者全員が一手を引き、新年を祝い心を新たにしました。
次いで、白扇落とし、射割り、風船割りなど、正月でなければ経験出来ない楽しい企画もありました。

尚、白扇や射割りの板には前会長の高橋芳邦さんが丹精を込めて弓道に関する言葉を揮毫して、的中者にはその意味を解説して贈呈された。

私も若かりし頃の金的や射割りの板を今でも持っていますが、今回の的中者も良き思い出になったと思う。

山岸会長は閉会の挨拶の中で、的までの距離28m、的の大きさ直経36㎝、半径18㎝、男性の矢尺の平均90㎝、これから判断して、矢が離れる寸前狙いが的の中心にあっても、離れる瞬間6㎜ずれただけで、的中心から18㎝ずれるという。

つまり28mの距離で30倍のずれが生じる。故に矢が離れる瞬間狙いが的の中心にあっても、6mm以上ずれると外れるということである。その為には、矢が離れた瞬間でも、左手{押手}の親指と右手{弓掛}の掛け口が的と一直線になった離れ方が的中率が上がり、そこに留意して練習するように説明されたのには、さすが教士6段の説得力のある話で、お正月相応しい稽古始めでした。

写真は、矢渡しの山岸会長。稽古始めに臨む会員。「澄心館」の看板。

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初 詣

新しき 年の始めの初春の
      今日降る雪の いやしけ吉事  大伴家持

1月1日午前11時、大岩山日石寺{上市町大岩163}に初詣した。
日石寺では、元旦の午前1時、午前11時、午後2時の3回護摩祈禱が行われる。

我が家では、家から近距離でもあり、初詣は日石寺が恒例で今年は好天にも恵まれたこともあり11時に行ったところ、境内は結構な人出で賑わっていた。
日石寺は真言密教の大本山として知られ、神亀2年{725}行基菩薩が大岩川の岩に不動明王を刻んだことが起源と伝えられ、今年はそれから1300年の記念の年だそうです。
高さ3,46mの本尊不動明王像へは四体が凝固岩に手彫りで彫り出され、中部地方の最高傑作として、高い評価を受けており、国指定重要文化財となっている。

ただ、残念なことに、昭和42年7月23日風呂のボイラーの加熱で、入母屋作りの覆いなどが焼失したことです。当日、消防の放水によって磨崖仏に水がかかると、ひび割れを起こすことから、関係者が必死になって放水しないように身体を張って阻止した話はよく聞きました。
その後、信者の方々の支援によって立派に再建された。全国の摩崖仏は露天であるため風化が激しいが、日石寺の摩崖仏は室町時代以前から覆いで覆われていたため、不動明王像の勇姿が今日まで伝えられているのは、全国的に見て珍しいことであると言う。

また、境内には6本滝があり、1月20日の大寒の入りの滝に打たれる寒修行の風景はテレビで全国放送されている。三重塔もあるが、江戸時代に着工されたが、途中工事が中断される今日に至り、未完の塔と言われている。いつ頃まで工事が行われていたのか、前述した火災で資料が焼失した為不明という。家内安全、交通安全等を祈願したお札を購入して帰宅した。

参考まで。
摩崖仏とは、石仏の一種で、自然の岩壁や露岩、あるいは転石に造立された仏や明王像の総称。
不動明王とは、密教の信仰対象で、大日如来の化身とされる仏教の尊格。五大明王の一つで、仏法を守護し、人々の災いや迷いから救ってくれる仏。不動明王の姿は、煩悩にまみれた救いがたい者こそ救うため、また仏道の妨げになるよこしまな心を断つため、勇ましいいで立ちををしている。

写真は、日石寺本堂前。本堂内の護摩祈禱。寒修行の行われる6本滝。

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謹 賀 新 年

新年は まず我が身の意気を 新たにす   安岡正篤

令和6年は既に地平線下に沈み、ここに新しい年令和7年の幕が上がりました。
干支も「甲辰」から「乙巳」に引き継がれ、月日の流れは休むことなく、新しい時を刻み始めました。昨年のお正月三が日は、元旦、能登半島地震、2日羽田空港滑走路での航空機衝突炎上事故、3日北九州市小倉北地区での大規模火災事故。まさに記憶にも、記録にも残る出来事から始まり、パリ5輪・パラリンピックのメダルラッシュ、秋の衆議院議員選挙での自民、公明連立与党の過半数割れ、そして年末恒例の漢字一字は「金」でした。
理由はオリンピックでのメダル獲得の「光の金」と政治の裏金問題や金目当ての闇バイト強盗事件などの「影の金」そして「佐渡島の金山」の世界遺産登録などが理由に挙げられた。

それでは今年はどんな年になるだろうか。そこで「干支」について少し述べる。

「干支」とはご存知の通り「十干十二支」を略した呼び名で、「十干」と「十二支」を組み合わせて60通りの年号を作り出す古代中国で生まれた歴法です。それ故、同じ「干支」は60年に一度回ってくることから、還暦、本卦帰り、或は華甲とも言われる。
十干は「甲、乙 ,丙、丁、戊、己、庚, 辛, 壬、癸」の10種類、十二支は「子、丑、寅, 卯、辰、巳、午、未、申、酉、戊、亥、」の12種類があり、順番に組合せ令和7年は「乙巳」{きのとのみ}で上位60通りの42番目で、次の「乙巳」は60年後の2085年です。

「十干」は、古代中国殷の時代に10日を一旬として構成するそれぞれの日に名前を付けたことで始まったといわれ、その後、万物はすべて「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、すべての物事は「火」「水」「木」「金」「土」の5つの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。

「十干」は前述の通りの総称で、元は1から10までを数える為の言葉だった。
「十二支」には、よく動物の名が充てられるが、これは中国の王允{おういん}という人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたという。つまり動物の意味は後から付け足された。
例えば、子を鼠にしたのは繫殖力の高い子宝の象徴、子孫繫栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり, 重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは、勇猛果敢な動物でありその勇ましさから虎が充てられたなどである。
日本には、6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。

幕末維新の戦いを「戊辰戦争」慶応4年{1868}と言う。つまり「戊」つちのえ「辰」の干支の年であり、甲子園球場の名前も「甲」きのえ「子」ね、の干支の年で大正13年{1924}完成したことによる。また、現在でも我々は契約書などに「甲は乙に対して」などの表現に、何の抵抗もなく使用しているし、12時を正午と言い、その前を午前、その後を午後というなど我々の生活の中に溶け込んでいる例はいくらでもある。

さて、今年の干支「乙巳」{きのとのみ}の「乙」は十干の2番目「軋{きしむ}]を意味します。陰陽五行説では木の影のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いです。柔軟性や協調性を象徴し、周囲との調和を保ちながら自身の目標に向かって進んでいく力を表しているという。

「巳」は十二支の6番目で、蛇を表します。蛇には一般的にネガティブなイメージもありますが、古来より豊穣や金運を司る神様として祀られることもあり、神聖な生き物として認識されてきました。逞しい生命力があり、脱皮をするたびに表面の傷が治癒していくことから、医療、治療、再生のシンボルともされています。また、運気を上げる縁起物としては定番となっており、蛇の登場する夢を見ると吉兆とされていたり、蛇皮の財布や、蛇の抜け殻を財布に入れて持ち歩くと金運が上がるとも言われています。

巳年生まれの人は蛇のように辛抱強く、粘り強い性格を持つとされています。また、知恵や洞察力に優れているとも言われています。
また、この年は、多くの人にとって成長と結実の時期となる可能性が高いです。「乙」は未だ発展途上の状態を表し、「巳」は植物が最大限まで成長した状態を意味します。この組み合わせはこれまでの努力や準備が実を結び始める時期を示唆しています。

年内には、早い人では具体的な成果が現れ始め、中には大きな成果を手にする人もいるでしょう。しかし、すべての人が同じペースで結果を得られるわけではありません。成長の速度は人それぞれであり、中には時間がかかる人もいます。そのため、令和7年は辛抱強さが試される年にもなります。焦らず粘り強く取り組む姿勢が重要です。自分のペースを保ちながら着実に前進することで、最終的には望む結果に近づくことができる。

参考まで。
60年前、昭和40年{1965}は、前年に開催された東京オリンピックの余韻が残る中、経済発展が加速しました。
120年前、明治38年{1905}は、日本とロシアの間で日露戦争終結のポーツマス条約が結ばれ、日本の勝利が確定した。
1380年前、大化元年{645}は、乙巳の変 大化の改新。中大兄皇子、藤原鎌足が中心になって蘇我入鹿暗殺に始まる一連の政治改革。

さて、当たるも八卦、当たらぬも八卦である。しかし、干支や八卦を信じない人でも、年賀状は殆ど干支を使用するから不思議なことである。
願わくは、昨年より今年は、より良き年になりますように。

写真は、我が家の小さな門松。昨年末清水寺・森清範貫主から届いた干支「蛇珠」の色紙。我が家の正月の床の間、右寄り、薬神農、松鶴蝦齢、天神様。

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