なかや一博 ブログ

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海舟記念館

3月25日{火}―26日{水}全弓連理事会出席のため上京の折、勝海舟記念館を訪ねた。山手線五反田駅で東急池上線乗り換え、洗足池駅下車徒歩6分位の所に記念館がある。

ご存知のように、明治元年{ 1868}幕府は鳥羽伏見の戦いで破れ、徳川慶喜は官軍との交渉の代表に勝を任じた。官軍の参謀西郷隆盛と会見するため官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴く。その際、通りかかった洗足池の深山の趣きある自然に感嘆し池畔の茶屋で休息したことが縁となり、、農学者津田仙{津田塾大学創始者・梅子の父}の仲立ちで土地を求めた。
勝は、赤坂氷川に家があったが、明治24年{1891}茅葺の農家風の別邸を建て自ら「洗足軒」と名付けました。ただ残念なことに戦後間もなく焼失した。

勝は、この地で次のような歌を詠んでいます。

    池のもとに 月影清き今宵しも 
            うき世の塵の 跡だにもなし 

勝は、明治32年{1899}1月21日77歳で亡くなりましたが、生前「洗足軒」の背後の丘に墓所を作り、遺言によりここに葬られました。
石塔には「海舟」とだけ刻まれ、徳川慶喜筆と伝えられている。当初は海舟一人の墓所でしたが、明治38年{1905}妻民子が死去し青山墓地に葬られたが、のちに改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。

それにしても、文政6年{1823}1月30日に生まれ、明治元年{1868}までの45年間は階級制度の厳しい封建社会に身を置き、明治元年から死去する明治32年{1899}1月21日まで31年間は富国強兵、近代国家建設に邁進する。

このように社会が一変する体験は、徳川慶喜も同様である。彼は、天保8年{1837}9月19日生まれで、明治元年までは、歴史の表舞台で、そして明治元年から死去する77歳の大正2年{1913}11月22日までの45年間は歴史の表舞台から消え隠遁生活を送る。

このように維新を境に、薩摩、長州、土佐、肥前の天下となる。しかし新政府を運営するには有為な人材が必要なため,かっての幕臣も登用する。勝もその一人で維新後参議兼海軍郷などを務めたのち、明治20年{1887}5月賞勲局より子爵に叙せられる。

この時、勝は、
    今までは 並{なみ}の身{からだ}と思ひしが
               五尺に足らぬ ししゃくなりとは

という嘲弄的な狂歌を吟じている。

しかし、勝は明治21年枢密院顧問官。明治22年12月勲一等瑞宝章を賜り、のち勲一等旭日大綬章を授けられ、正二位に叙せられた。
これに福沢諭吉が異を唱えた。明治25年{1897}1月末「瘦我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。これは、この頃外務大臣を務め子爵となった榎本武揚にも向けられた。当初黙殺されたので、2月5日再び諭吉は督促状を出した。これが世に明るみになったのは、勝、亡き後、明治34年{1901}諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたことからその内容が判明した。

諭吉は、「かって幕臣であった勝が敵対した官軍つまり明治政府に仕え、名利をを貪っているとして勝を弾劾する。これが有名な「瘦我慢の説」である。
これに対し、勝は{中略・・・「行蔵我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候、各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候{中略}・・・。」

つまり、批評は人の自由、行蔵は我に存すの意である。榎本はどの様に応えたかは不明である。もう一点有名な話は、勝は明治に入り座談会等で話したことが、海舟座談、氷川清話、海舟余波などとして残っている。

その中で、氷川清話の中の「古今の人物について」で、勝は坂本龍馬について「竜馬がかって俺に、「先生はしばしば西郷の人物を称せられるから拙者も行って会ってくるから添え書きくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには「なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」

激動の幕末維新を生き抜き、西郷と徳川の名誉回復に尽力し奇しくも徳川慶喜と同じ77歳の生涯であった。記念館を見学後、勝夫妻の墓所をお参りしたが、いまだに香華とお花が供えてあった。
勝の言葉に「清濁併せ吞んで、なお清波を漂わす、汝、海の如き男たれ」がある。政治には清濁があるとは思うが、余りにも濁が目立ちすぎる昨今の様な気がする。午後、皇居三の丸尚蔵館で―百花ひらく―花々をめぐる美―を鑑賞した。

写真は、記念館前。海舟夫妻の墓所。

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高橋正樹氏叙勲祝賀会

星流れ 海に入りしや 蛍烏賊  山下徳樹

滑川のほたるいかミュ-ジアムでは3月20日からほたるいかの発光のショ-が始まるなど、ホタルイカ漁も最盛期に入ってきました。
そんな中、3月23日{日}前・高岡市長・高橋正樹氏の旭日中綬章受賞記念祝賀会が、高岡商工ビル2階「大ホール」で200人余の多数のご参加を得て、盛大に開催されました。会場では高橋氏の幼少時代から今日までの活躍がビデオで紹介されていました。

まず最初に発起人を代表して塩谷雄一高岡商工会議所会頭が挨拶。新田八朗知事、橘慶一郎内閣官房副長官・衆院議員.。堂故茂参議院文教科学委員長。角田悠紀高岡市長がそれぞれの立場で地方自治一筋に歩んでこられた功績を称える祝辞を述べられました。

次に風邪で欠席した3人のお孫さんからの可愛いビデオメッセージ披露され、会場は和やかな雰囲気に包まれました。次いで多数の祝電の中から、時間の関係で前・富山県知事石井隆一氏の電文のみ披露され、来賓紹介に移りました。
次に元・市秘書課職員で高橋氏が初登庁した際に出迎えた女性と親戚の女性から花束の贈呈がありました。ここで本人の謝辞があり、今日までの関係各位のご支援、ご指導のお陰での受章であることを力説された謝辞でありました。

尚、乾杯に入る前に、本日のメニューの「前菜」について料理長より説明がありました。
それによると高橋氏は総務省時代、熊本、宮崎、新潟各県に出向されました。その土地の一品を今回の「前菜」に活用していることを説明されましたので、配布されたカラーの「前菜」のメニューはイラスト入りで、奥様の説明書きがありますので、それをご紹介します。

前菜 ―旅路を越えて ふるさと回帰―
「赴任した土地と高岡の思い出を、前菜一皿に盛り込みました。その土地の名産,郷土料理は地域に溶け込む重要アイテムです。転勤した先々で、地元の方に郷土料理を教えてもらうのはステキな楽しみでした。それらは今や我が家の定番料理。富山は海、山の食材の宝庫です。高岡でも魅力的な定番料理がたくさん増えました。ちょっと旅気分で味わってくださいませ。
高橋陽子

と奥様が記しておられました。

内容は
①―宮崎の味わい―伝統のぬた芋
・・・・和えるときには角がとれてとろみが増します 宮崎の里芋で作る郷土料理です

②―熊本の恵み―赤牛ローストビーフ
・・・阿蘇の大草原でおいしい野草をたくさん食べて育つブランドて牛さっぱりとヘルシー

③―越後の香り―サーモンコンフィ
・・・青海苔クリーム添え・新潟名物の鮭わっぱをイメージ、青のりはわっぱに付き物

④―加賀前田の逸品―どじょう蒲焼き
・・・加賀藩名物、富山、石川のスタミナ源

⑤―松楓特製、桜鱒と昆布の押し寿司、いくらの彩り
・・・寿司と言えば富山、やっぱり鱒寿司でしょう、昆布を挟んで鱒寿司の新境地に挑戦しました

⑥―富山の春の贈り物―ホタルイカと菜の花の酒粕和え
・・・きゅうりの粕和えは高岡の夏の定番です、菜の花で春を告げる逸品に

⑦―黒豚の旨味たっぷり
・・・高岡風コロッケ 豆やひじきを入れてパワーアップ松楓のオリジナル

この説明の後、かって高橋氏の後援会長であった川村人志同商議所前会頭の乾杯の発声で宴に入りました。私も、いろんな祝賀会に出席しましたが、奥様の心のこもったおもてなしは初めてで、ほのぼのとした夫婦関係を表しているようで、思わず手を付けずそのまま持ち帰りたくなるような前菜でした。
料理の事ばかり書きましたが、高橋御夫妻のような、和気あいあいと和やかな雰囲気の素敵な祝賀会でした。

高橋氏は高岡高校から,東大法学部卒業後自治省に入省。新潟県副知事など歴任後本省に戻り、平成20年7月総務省大臣官房審議官で退官。
平成21年7月ー令和3年7月まで3期12年高岡市長を務められました。

この様なエリートですが、私のような者にも何ら偉ぶることもなく、親しくお付き合いを頂いていることは本当に有難いことです。

写真は、挨拶すると高橋氏。高橋夫妻と石澤義文氏。心のこもった前菜のイラスト。奥様の文章。
            
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滑川・富山北部両校薬業科特別講演

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

3月3日{月}午前9時50分ー10時40分滑川高校薬業科1年生34名、3月10日{月}午前10時50分ー11時40分富山北部高校薬業科・くすり・バイオ科2年生78名に対し「富山のくすり」について話しました。
これは、後継者育成事業の一環として、富山県の重要な産業である「富山のくすり」について理解を深め、認識を新たにしてもらう意味から製薬メーカーと配置側とが1年交代で行っているものです。

最初に、令和5年{1月ー12月}の医薬品国内生産金額は10兆332億円、この内、富山県内での生産額は約6221億1千万円で全国4位。
また配置用医薬品の総生産額は令和元年調査から集計方法が見直されたため実態の把握が困難になっているが、過去の実績からして、全国の配置薬の生産額の約50%が富山県で生産され、現在全国で約1万人の配置員がいること。
そして高校に薬業科があるのも富山県ぐらいである事を話し、だから、「富山」と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」と言われる所以を説明し、本題に入り、概ね次の点について話しました。

①富山売薬の歴史
 富山売薬発祥の起源とされる元禄3年{1690}「2代富山藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」。備前の医師・万代常閑と「反魂丹」。薬種商・松井屋源右衛門。諸国への行商を広めた八重埼屋源六。「先用後利」の商法と立山山岳信仰配札檀那廻り。

②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。
 特に薩摩藩と昆布、北前船。

③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容。

④明治に入り
 漢方薬排斥、洋薬礼讃、売薬取締規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。

⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。
 明治30年富山市へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、これが富山北部高校薬業科の前身であり、明治40年県立に移管され、薬剤師など製薬メーカーへの人の育成そして売薬行商人養成機関としての位置付けを確保していく。明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となる。これが、昭和24年富山学薬学部となった。この間昭和10年滑川町立薬学校設立。
これが現在の滑川高校薬業科であり、それらの歴史。

⑥明治以降、薬業人が金融機関や電力会社などを設立し、富山県の近代化や産業の育成に大きな貢献をした事。

これらのことを説明し、この素地があるから今日の「富山のくすり」があることを話しました。
また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか。それは薬箱が家の中にあって24時間営業し、必要な時に何時でも使える便利さ。しかも使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にする売薬独特の商法と同時に、①顧客との信用・信頼 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理 {例えば掛場帳}の重要性を売薬さんたちは300年も前から身につけていたことです。

詳細は紙面の関係上割愛しますが、いづれにしても、真面目にやればこれほど良い仕事はない。数年前北部高校から、配置薬業に従事した先輩もいたし、在学中に登録販売者の資格も取得した人もいた。
特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いており、最近増加していることも話し配置薬業のPRをしてきました。

ただ、残念なことは滑川高校薬業科34名に「売薬さん」「置きくすり」を知っているか。の私の質問に全員知らない。滑川在住者は4人でした。
また、北部高校78名の生徒に同じ質問をしたところ17-18名でした。せめて薬業科ですから授業の中で富山の売薬に関して、多少触れてほしいものです。また、県内でのPR不足を改めて感じました。

写真は講義中の風景。

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福寿大学市民教養講座

春は名のみの 風の寒さや
       谷の鶯 歌は思えど・・・・早春賦より

3月7日は早春賦の歌を思い出すような肌寒い朝でしたが、我が家の小さな裏庭には「ふきのとう」が芽吹き「三寒四温」確実に春の足音が聞こえてくる季節の中、7日午後1時30分より3時まで滑川市民交流プラザで「絶望から生まれた希望」と題し、講演会が滑川市中央公民館主催で開催されました。今回の講師は遠方広島市よりお迎えした加藤りつこさんです。

平成7年{1995}1月17日 午前5時46分 M7,6  震度7の大地震が発生しました。
ご存知、阪神淡路大震災です。この震災で6434名の多数の犠牲者が出ました。その中に、神戸大学在学中の39人の学生も尊い命を落としました。その39名の追悼特集を2月1日付け読売新聞全国版で「地震につぶされた夢」と題し、顔写真と共に関係者のコメントを添え報道した。

卒業間近の4年生の中で、銀行員や新聞社にすでに就職が内定していた人もいれば、祖国を担う留学生もいた。そして、今回の講師である加藤さんの一人息子の貴光君もいた。読売新聞の貴光君に関する記事は次の通りである。

「法学部2年加藤貴光さん{21}{広島市} は西宮市のマンションで圧死した。同居していた単身赴任の父宗良さんはたまたま実家に帰っていて無事だった。国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。
荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んでいって手伝うようなやさしい子でした」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。母はそれをいつも免許証入れにはさんでいた。遺体安置所で、その手紙を読み返した母は、涙を抑えることができなかった。」とある。

先般、滑川高校の卒業生192名に手紙の全文を生徒に聞かせ、それをブログで発信しその中に手紙の全文を掲載しましたが、あえてもう1度記します。

「親愛なる母上様」
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。

そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい「旅」をすることになるでしょう。疲れてやすむこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の限り翔び続けます。

こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。
決してあなたはひとりではないですから・・・・。

それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。

翼のはえた「うし」より

これが貴光君の手紙の全文である。
私はこの文を読んだ時、思わず胸の熱くなる思いを感じ、すぐこの記事をコピーした。私が19歳の時、果たしてこの様な心境になっていただろうか。「人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること、肉親や他人への感謝の気持ち、将来への確固たる志」など正直言って恥ずかしながら無かったと思う。

しかし、この時を機会に、このことの大切さを改めて知らされた思いでした。同時にこの様な素直で立派な青年に育てられた両親の育て方にも関心を持ったものです。その後、私が公職に身を置く立場になった平成14年から8年間、成人式で貴光君の手紙を女性の司会者に朗読して頂き、成人者と同年代の貴光君の思いと、前述した私の19歳の時の思いとを比較しながら、20歳の成人者にこの手紙から、「何かを学んでほしい」と話しました。

会場の女性からすすり泣きが聞こえたのを、今でも憶えています。その後、1月17日が来ると、ふと貴光君を思い出しますが、「去る者、日々に疎し」徐々に記憶の枠外に行きつつあった令和5年{2023}1月21日午前4時前たまたまトイレに起きた時、何気なくNHKラジオ深夜放送にスイッチを入れ4時から5分間のニュースのあと、何と貴光君の母りつこさんが、我が子を亡くし、未来への道を見失った時から、希望を再び取り戻すまでを50分余りにわたりインタビューされた放送を聞いたのです。

お会いしたことも、話をしたこともない加藤さんが私の眼前に現れたのです。その番組を制作したのはNHK神戸放送局とのことでしたから、朝8時30分NTT104番号案内で聞き、早速神戸放送局へ電話をして加藤さんの住所等聞きましたが個人情報保護の立場から教えてもらえませんでした。当然です。
そこで私の意を加藤さんに伝えてもらうことで了としました。その後、加藤さんからお電話があり、私が始めて手紙を読んでからお会いしたことも、話したこともない私の点と加藤さんという点が28年の歳月を得て、線となって結ばれた瞬間でした。

その線上で「著者・加藤りつこ」の「希望ふたたび」{ 阪神淡路大震災で逝った息子のただ1通の手紙から}を頂きました。その中に貴光君の誕生から幼児期。小学校から中学校。高校から大学。慟哭の始まり・・・阪神淡路大震災。絶望から希望へ。など多岐にわたる内容の中に、貴光君の誕生から大学まで、年代別の育児方針、子育ての環境整備、成長していく過程に於ける、親子の間の取り方等詳細に綴られており、お会いしたことはありませんでしたが好青年として成長された訳が解るような気がしました。

そんなことで、水野滑川市長や上田教育長に話をしたところ、震災から30年の節目の今回の講演会になりました。
点と点が28年の歳月を得て線になり、その線が2年延長され、今回80名ほどの参加者の面となったと思います。そんなことから開演前に私から一言その経緯について話しました。1時間余りの講演でしたが、会場では目頭を抑える人や、終了後何人もの人から主催者の方に「良かった」と声を掛けられたと聞き、中に入った私も安堵するやら、色々教えられる講演でした。
それにしても、もしあの時トイレに立たなかったら、ラジオのスイッチを入れなかったら、と思うと縁の不思議さを感じます。

写真は、①平成7年2月1日の読売新聞 ②当日のパンプレット ③水野市長を市長室へ表敬訪問、上田教育長同席 ④加藤りつこ著・希望ふたたび ⑤講演の加藤さん。

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第77回滑川高校卒業式

網しぼり きらめきつくす 蛍烏賊  高島学人

2月には2度の寒波に見舞われた県内も、3月1日は県内各地で3月下旬から4月中旬並みの暖かさとなり、日中の最高気温は富山で15,4度となった。
まさに陽光燦燦として大地を覆い、青空広がる中、残雪輝く立山連峰を眺めると、やっぱり富山はいいなー、改めてそう思う。
そして3月1日は待ちに待った富山湾に春を告げるホタルイカ漁解禁日である。昨年の初日は106㎏で豊漁の年であったが、今年の水揚げ量18㎏と少なかった。しかし、海水温が上昇すれば漁獲は増える見込みで、今後に期待したい。

さて、その3月1日滑川高校 {校長・金田幸徳}第77回卒業式が多数の保護者出席のもと、前日の同窓会入会式に次いで挙行された。
式は有賀副校長の開式の辞で始まり、全員で国歌「君が代」斉唱、次いで金田校長より、普通科77名、薬業科38名、商業科40名、海洋科37名、計192名に卒業証書が授与された。

引き続き校長は式辞の中で{要旨}次の3点が述べられました。
①進んで学ぶ姿勢。
 今後は教えてもらうには限界がある。自ら目標を設定し学ぶことの重要性。

②しなやかな感性。
 不安、困難、挑戦、失敗、挫折はつきもの。
 そこから立ち直る。感謝、共感心、拍手、讃える心を持つ。

③人を支える存在。
 人生の主人公は一人一人。自分を大きくする節目節目の選択を任せてはいけない。
 一人一人に良さがある。自分の可能性を信じ、他人に愛情を注ぐ大切さ

を話されました。

最後に、スティーブ・ジョブズの言葉を引用し「未来を見て 点を結ぶことは 出来ない 過去を振り返って点を結ぶだけだ だからいつか どうにかして 点が結ばれると信じなければならない」
やはり、教育者としてのお祝いと激励の良い式辞だったと思います。

祝電披露のあと「蛍の光」がテープで流れる中、在校生代表が進みて送辞「1年生に入学したときは先輩の姿は眩しく映った。その後、部活、作品展、生徒会活動、地域との交流イベントなど、多くの指導に対し感謝の言葉や、先輩が築いた良き伝統を更に発展させる決意を述べた」

これに対し、「仰げば尊し」がテープで流れる中、答辞として卒業生代表がステージ上の校長に向かって、かけがえのない3年間を振り返りった。
遠足、体育大会、様々な活動を通じ他の人とかかわることに慣れてきた。2年生の時、2泊3日の研修旅行の思い出や重要な部活動などは、中心的な役割を先輩から引き継ぎ、期待と不安で一杯であったが、多くの学校行事を終え、その達成感に浸った時、やはり、適切なご指導をいただいた先生への感謝の言葉であった。

校歌斉唱のあと、卒業生は昨年同様「RADWIMPS」の「正解」のメロディーと大きな拍手に送られて退場し、厳粛な中滞りなく終了した。
それにしても、「RADWIMPS」も「正解」の曲も私は知りません。また、卒業生の女子90名の内名前に「子」が付いている人は2名でした。私の年齢と時の流れを感じざるを得ません。
又、昨年も申し上げましたが、国歌「君が代」や「校歌」はピアノ伴奏で全員が斉唱しますが、「蛍の光」や「仰げば尊し」はテープで流すから、ほとんどの生徒は歌わない。しかし今年は僅かではあったが口ずさむ生徒がいた。昨年よりは前進である。

私は、2曲ともピアノ伴奏で、「蛍の光」は在校生が「仰げば尊し」は卒業生が全員で斉唱すべきと思う。両曲の歌詞が素晴らしい。「蛍の光 窓の雪」古代中国の「晋」の学者「車胤」が 貧しくて灯油が買えないため蛍を集めてその光で書を読んだ という故事からきている。
正に校歌2題目の歌詞「思え車胤を 青春の」である。

また、「仰げば尊し わが師の恩」は卒業生代表の答辞の中での師への感謝の言葉と一致する。これを全員が斉唱することで一人一人の胸に刻み込まれるのではないだろうか。
もう一つ、昨年も書いたが昨年の調査では、県内の県立高校39校、私立高校10校がある。この中で「蛍の光」を歌っているのは、本校含め僅か6校である。「仰げば尊し」は県立では本校だけで、私立では1校である。以前歌っていた学校もコロナ禍で歌えなくなり、そのまま今日に至っているという。

このままでは、この2曲は消えゆくのではなかろうか。高校は、教え育てる教育の場である。自らの意志で学び習うのが学習の場である。「伝承なきところ モラルなし」という言葉がある。一度途絶えたら中々元には戻らないことを思うと、滑川高校の良き伝統としてこの2曲は歌い続けて欲しいものである。
また、卒業証書授与の時、担任の先生が生徒一人一人の名前を読み上げるが、全員座ったまま聞いているだけである。証書を代表して貰う方のみ返事をするのである。私は、返事をして起立をし、直ちに座る。それ位あっても良いと思う。
これらのことは、私個人の意見として、学校側には、伝えました。

いづれにしても、過ぎし日の学生時代を懐かしみ、卒業生に幸多きことを念じ校舎を後にしました。
写真は、式辞と卒業証書授与する金田校長。
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