なかや一博 ブログ

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外交史料館

日本列島の広い範囲で夏日が観測された5月14日、全弓連理事会で上京の折、外務省外交史料館を見学した。
これは「外交資料の保存管理および公開の業務を行い、内外の研究者等に正確な資料を提供するとともに「日本外交文章」の編纂・刊行の業務を行い、わが国外交に関する国民の理解に資するため、1971年{昭和46}年4月、外務省の一施設として開館しました。

そして、2024{令和6年}4月、外交史料館に隣接する麻布台1-5-3麻布台ヒルズ森JPタワー5階に展示室を移転し、従来の展示内容をさらに発展させて、本展示室を開設しました。日本が国際社会へと踏み出していった幕末から21世紀に至るまでの日本の外交活動の歩みを、外交資料を通して知っていただくとともに、外交活動への理解を深めるきっかけとしていただければ幸いです。{外交史料館常設展示解説のはしがきより一部抜粋} 現在約11万5千点が収蔵されている。

滑川市博物館と規模・展示内容の違いがありますが、目的や役割は同じと思います。また、企画展として「吉田茂展」が開催されていました。
さて、我が国は1953{嘉永6年}米国のペリーが来日し日本に開国を迫りました。その翌年1854{嘉永7年}3月3日「日米和親条約]が結ばれ鎖国政策は転換期を迎えた。

続いて1855{安政元年}伊豆下田に来航したロシア側全権代表プチャーチンと日本側全権・筒井政憲等の間に日魯通好条約結ばれた。当時択捉島とウルップ島の間に自然に成立していた日本とロシアの国境を確認し、樺太島には国境を設けずに、これまで通り両国民の混住の地とすると定めた。この日が2月7日であり、ロシアとの正式な条約で日本固有の領土として確定した。

その後、オランダ・イギリス・フランスなどとも不平等ながらも条約を結ぶ。いわゆる安政の5か国条約である。1875{明治8}年5月7日榎本武揚、ゴルチャコフ両全権が、サンクトペテルブルクで、樺太島をロシア領、千島列島を日本領と確定する「樺太千島交換条約」を調印、批准書を交換する。

また、1905{明治38}年9月5日露戦争後の「日魯講和条約」{ポーツマス条約}が日本側全権小村寿太郎とロシア側全権ウィッテにより調印された。これにより樺太の北緯50度以南が日本に譲渡されました。その後、1941{昭和16}年4月13日、モスクワにおいて松岡洋右外相とモロトフ外務人民委員が「日ソ中立条約」を調印。内容は両国の友好関係の維持、相互不可侵、締約国の一方が第3国による軍事行動の対象になった時、他方は中立を維持することなどを規定した。

しかし、1941{昭和20}年8月9日、一方的に破棄し満州へそして8月18日北方四島に侵攻、不法に占拠し今日に至っている。国と国とが条約で交わした約束事を実に簡単に破ってしまう。
幕府が強固な基盤の時は鎖国の鎖は効力を発揮するが、国内が「佐幕だ攘夷だ勤王だ公武合体」だと内輪もめし、国力が弱体化している時は、強者によっていとも簡単に鎖国の鎖は切られてしまう。「日ソ中立条約」もしかりである。

1951{昭和26}年のサンフランシスコ講和条約でも、日本の領土に関し、第2条、第3条で朝鮮、台湾、千島列島に対する権原等の放棄は言っているが、日本の固有領土である北方四島は含まれていない。それ故、戦後2月7日を北方領土の日として返還運動を行っている。

さて、日ソ関係に字数をかけすぎたが明治政府は多くの国々と外交関係を構築していく。
1871{明治4}年、岩倉具視を特命全権大使とする総勢100名以上の使節団を欧米へ派遣。1871{明治4}日本と清国との間で日清修好条規を結ぶ。1876{明治9}朝鮮との間で日朝修好条規を結び、欧米諸国と同様にアジアの国々とも条約に基づく外交関係を構築する。
1888{明治22}年11月30日、日墨{メキシコ}修好通商条約調印。1894{明治27}年7月16日、日英通商航海条約調印。日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部を達成した。1911{明治44}年2月21日調印。本条約等の締結により、日本は関税自主権の完全回復に成功し、幕末以来の重要課題であった不平等条約の改正を達成した。

米国トランプ関税に悩む昨今の日本と幕末から50年余り領事裁判権と関税自主権の問題にに奔走する明治の政治家の名前が交錯した。

「吉田茂展」
私から吉田茂について述べるのはおこがましいので、パンフレットと展示資料の解説から抜粋して記します。
「吉田茂は、戦前期に外交官としてのキャリアを歩み、戦後は首相としてサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結するなど、現在に至る日本の外交路線決定に重要な役割を果たしたことが知られています。

日本外交史上の業績はもちろんのこと、その人物像も注目され、様々な方面からの様々な評価があります。「ワンマン宰相」や「バカヤロー解散」といった、辛辣ながらユーモラスな言葉で評された個性は、吉田の魅力を反映したものといえるかもしれません。

「吉田茂を語るエピソード」
①裕福な育ちの「若さま」
自由民権運動家竹内綱の5男として生まれた吉田は、横浜の貿易商吉田健三の養子となり、健三の死去によって11歳にして莫大な財産を相続しました。義母からは「若さま」と呼ばれて大事にそだてられました。外務省入省当時は白馬に乗って通勤していたという話が伝わっています。

②ユーモラスに描かれた「ワンマン宰相」
強烈な個性をもち、ワンマン宰相とも呼ばれた吉田は、総理在任中、新聞の風刺漫画の格好の題材となりました。カッパのイラストで知られる漫画家の清水崑は吉田本人とも親交があり、吉田の姿をユーモラスに描きました。

③吉田を支えた人脈
明治の元勲、大久保利通の息子で内大臣を長く務めた牧野伸顕の娘と結婚したことは、戦前の吉田が政治的に活躍する際の大きな助けとなりました。戦後は自らの政治基盤を支えるために、官僚だった池田勇人や佐藤栄作などを政界に誘い入れ、後の日本を背負う政治家に育てました。

④皇室への敬意
吉田は、「皇室を尊崇するのが人倫の義であり、社会秩序の基礎である」と考えていました。米寿のお祝いとして昭和天皇から鳩杖が下賜されました。

{パンプレット、吉田茂を語るエピソードより}

吉田邸2階応接間にあった衝立 {縦・横2m程}
吉田が尊敬していた人々の書翰が貼付されている。政局、時勢論から個人的な依頼、礼状、まで幅広く、吉田の人物交流が分かる、表面・西園寺公望・山本権兵衛・原敬・鈴木貫太郎・若槻礼次郎・-牧野伸顕・犬養毅・竹内綱{吉田の実父}・池田成彬{元蔵相}
裏面・岡田啓介・幣原喜重郎・鈴木貫太郎・犬養毅・米内光政・牧野伸顕・古島一雄{元犬養毅の側近}

吉田は、自分が尊敬していた人々の書翰を収集して、この衝立に貼り、よく眺めていたという。

また、サンフランシスコ平和条約受託演説で読み上げた原稿は、当初英文であったが、急遽日本語に書き換え、演説15分程前に出来上がったという。全長は、30m近くあり、外国人記者から、{トイレットペーパーのようだ}と評されたという。

ここに紹介したのは展示資料のごくごく一部であるが、幕末から戦後の沖縄返還協定署名本書や田中角栄総理が北京を訪問し周恩来国務院総理らと国交正常化に関する協議を行い、日中共同声明の署名書原本までの多くの条約・批准書、調印書、認証謄本、議定書、共同宣言署名本書等の貴重な資料に加え、関税自主権、領事裁判権など不平等条約の改正に奔走した先人たちの営為のあとを回顧するよい機会であった。

特に私は関心を持ったのは、1855年・安政元年2月7日調印の「日魯通好条約」。
1875年・明治8年5月7日調印の「樺太千島交換条約」。
1905年・明治38年9月5日調印の日露講和条約{ポーツマス条約}。
1941年・昭和16年4月13日調印の「日ソ中立条約」。
1956年・昭和31年10月19日署名の「日ソ共同宣言」など「日魯」「日ソ」と結んだ条約や宣言に興味を持った。

吉田茂は1964年・昭和39年大勲位菊花大綬章を授与され、1967年・昭和42年10月20日89歳で死去。戦後初の国葬が執り行われました。

写真は、パンプレット。吉田茂について。日魯通好条約。サンフランシスコ講和条約原稿。書翰が貼付された縦・横2mの大きな衝立。

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没後70年・北方の詩人 高島高

富山県を代表する詩人であり医師であった高島高{本名・高嶋高1910ー1955}の没後70年を迎え、企画展が4月4日{土}–5月11日{日}まで市博物館で開催されました。
今回は、高嶋家よりお借りした資料や博物館所有など計3200点以上の中から、280点余りが展示されました。

さて、高島高は明治43年7月1日滑川市西町{現・加島町3区}で医師・高嶋地作・静枝の二男として生まれる。現在地の加島町2区には、昭和6年新築移転す。旧制魚津中学2年の時、母の死に会う。旧制魚津中学在学中から詩作を始め、日本大学文科に進むも、父の願いを受け入れ日大を中退し、昭和医学専門学校{現・昭和大学}に入学し昭和11年卒業した。詩作は早く同8年、萩原朔太郎、北川冬彦らの詩選コンクールに当選し、以後北川冬彦に師事し、同人として詩壇入りした。

昭和13年詩集「北方の詩」を刊行のあと帰郷して医業に従うかたわら詩作を続け第二集「山脈地帯」を出す。18年応召、軍医として、フイリピン、シンガポール、タイを転戦した。21年復員し23年「文学組織」「北方」を創刊。25年「北の貌」を上梓した。

そして、自宅の一室を「北方荘」と名付け立山を主題とした山岳詩を発表するなど活躍したが、昭和30年5月12日44歳の若さで病没した。本展では高嶋家に残る関連資料、滑川町の俳諧結社「風月会」でも活躍した父・地作に関する資料を通じて,高嶋家と詩人・文人たちとの交友と高島高の生涯の展示であったが、パネルや写真を多く用い私のような素人にも分かりやすく展示してありました。

高島高先生が44歳で亡くなられた昭和30年は私は8歳である。町内が同じで、しかも近所であり医院の前庭でよく遊んだ。先生が往診に利用されたのは人力車であった。車庫は現在更地であるが加島町2区公民館斜め向かいであった。
先生亡き後、昭和30年代半ばまで車庫に人力車があったと思う。私の母が、私が幼き頃、人力車を見るとそれに乗りたいと言って母を困らせたという。また、私が3歳の頃高熱を発し、往診に来て頂いた時手遅れになっていたら大変なことになっていたという。

この2件正直言って私の記憶にない。しかし、人力車の先生の姿は憶えている。高先生亡きあとは、先生の弟さんの学先生が医院を継承された。学先生の長女の方と私は同級生であり、その弟さんも医師となり、大学病院や公的病院で活躍されよく存じ上げている。令和3年12月富山市立図書館で開催された高島高シンポジウムで久しぶりにお二方とお会いした。また、今回の企画展の開会式でも、また、最終日の5月11日にもお会いし、しばし思い出話に花が咲いた。

私は以前から、博物館とは利を生む施設でなく、それぞれの地域の民俗や文化・考古学・芸術・歴史的出来事等の歴史を正しく事実として後世に伝えていく為に、資料収集やそれを保管し、機会を通し市民に公開する為の施設と思う。

それと常々思うことだが、滑川市が生んだ偉人はたくさんいる高島高先生もその一人であろう。椎名道三、岩城庄之丈、中川幸子、高階哲夫を始め数多くおられる。確かに、「光り輝く滑川の人物ものがたり」として平成24年3月市教育委員会より小冊子として発行されているが、偉人伝シリーズとし今回のように企画されても良いのではなかろうか。

また、例えば電気争議や小作争議そして米騒動など滑川で発生した大きな出来事など{但し、米騒動は発生から100年などで企画展あり}繰り返し機会を作り、伝えてゆく必要があると思う。俳聖芭蕉が奥の細道紀行の折、滑川で宿泊したことさえ、知っている市民が少ないことを残念に思う。

「伝承なきところ モラルなし」

高島高の詩碑が市内に2基ある。昭和40年5月12日、没10年の命日に
行田公園内に北川冬彦揮毫による「続・北方の詩」の一節から

剣岳が見え
立山が見え
一つの思惟のように
風が走る

平成10年{1998}9月18日有金野球場と本丸球場の間のポケットパークに建立された「力」の詩碑

「力」
肉体をつらぬく焔がある
この焔をこめて燃え上がった生命{いのち}があるというのだ
ぶつかれ!

尚、今回の企画展に併せて、滑川書道連盟の皆さんによる「高島高―心に響く詩の書展」と題し21点の力作も出品され、企画展に花を添えた。

写真は、現在の高嶋医院。行田公園内の詩碑。有金球場の詩碑「力」。学先生のご長男と。

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15周年記念祝賀会

散る花や すでにおのれも 下り坂 一茶

5月9日{金}富山県工業課程高校同窓会連絡協議会{会長・宮本光明}が、富山市内パレブラン高志会館で10時半より総会、11時半より昼食を兼ねた祝賀会が、新田知事、武田県議会議長、水野滑川市長等、多数の来賓と関係者等100名余を迎え盛大に開催されました。
祝賀会は、宮本会長の挨拶に次いで、前述した3名が来賓を代表しそれぞれの立場で祝辞を述べられました。乾杯は県工業教育振興会の村田氏が行い、和やかに懇親会に入りました。

さて、この協議会は34校の県立高校の中で、工業課程が設置されているのは、砺波工業、高岡工芸、富山工業、富山北部{薬業科}、滑川{薬業科},魚津工業、桜井{土木科}、の同窓会で結成された連絡協議会です。主な目的は、ものつくり県を標榜する富山県において、その工業分野へ有為な人材を輩出し、工業県としての名声を高めると共に、時として関係機関に提言を行うことなどである。

事業として春の総会、秋は例会として、7校持ち回りで学校の施設や設備等の見学と市内企業見学を行い,企業家と意見懇談会など開催している。
昨年秋は滑川高校が担当し、学校施設として、海洋深層水を使用してサクラマスの養殖をしている実習棟や創立100年を記念して建設した「滑川高校歴史資料館」などを見学後市内の「スギノマシン」を視察し役員と懇談した。設立以来10年が経った令和2年に記念事業が計画されたが、ご存知のコロナ禍で延期となり今回の15周年記念となりました。

ところで昨今、少子化の影響で、高校再編・教育改革が叫ばれ、「新時代とやまハイスクール構想検討会議」{会長・新田八朗知事}の初会合も開かれ、2038年度までに新設する大規模校の設置方針や、28年度ごろを目途とする直近の再編統合を巡る本格的な検討会もスタートしました。

県教委の基本方針は、38年度までに3期に分けて再編統合を進め、現在の全日制34校を20-22校程度に集約するほか、校舎を新築する1学年320人以上の大規模校を設けることを盛り込んだ。この様な中で総会が開催され、やはりこの問題が話題になった。

宮本会長は、検討会が始まったばかりであり今後注視してゆきたいと述べられたが、関心の高さが現われた総会であった。
尚、祝賀会は私の一発締めで閉会となった。
写真は、冒頭の挨拶する宮本会長。祝辞の新田知事、水野滑川市長。閉会の一発締めの私

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令和7年薬神神社春季例大祭

恒例の薬神神社例大祭 {主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}は雲一つない好天に恵まれた5月8日午前9時より挙行された。
ここ数回は荒天で雪嶋神社社務所の中から、薬神神社に向かっての遥拝参拝でしたが、やはり青空の下で木々に囲まれた中での参拝は格別です。

最初に青年部の若宮君の進行で、横川宮司による祝詞奏上に次いで、石倉会長、顧問の私を含め薬業関係者に続き、水野市長、竹原市議会議長、大門県議、杉田市商工会議所専務理事等順次玉串奉奠を行い、商売繫盛、交通安全等を祈願しました。

石倉会長は挨拶の中で、正月以来体調を崩し、先日回商の折、お得意様に体調の変化を話し、いつまで来れるかわからない。と話したところ、お得意様から是非頑張って引き続き来てもらいたいと強く要請された話をされました。
これを聞いた石倉会長は、自分を必要とする人がいる限り、頑張ろうと思った。と述べ業界の話も交え共に頑張ろうと士気を鼓舞されました。

私は、この話を捉え、これが配置薬業の原点である。お得意様との信頼関係は、配置員が数年ごとに代わる販社には出来ない一人帳主の強みである。業界は厳しい状況にあるが我々だけが厳しいのではない。米国トランプ大統領の関税問題で厳しい状況にある企業も多くある事を考えると、ピンチをチャンスと捉える機会でもある。だからここは踏ん張りどころ。物事を前向きに捉えることの重要性を話しました。

来賓の水野市長は自分の父は売薬だったこと。そのあとを弟が引き継いで島根県を回商していることを話し、滑川市の伝統産業である配置薬業を絶やしてはならない。その為にも市として出来る限り支援していくなど、力強い言葉を頂きました。
他の来賓の方々からも、それぞれの立場で、薬業に理解を示す挨拶でした。

約1時間余りの厳粛な例大祭でしたが、お盆での再会を楽しみに終了し散会しました。

写真は、玉串奉奠の私と挨拶する石倉会長。

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令和7年琵琶春季演奏会

桜花爛漫から百花繚乱へ季節は移り、抜けるような空の青さに心地よい風が吹く5月5日、錦秋流琵琶富山支部 {支部長・嶺瑛水、後援会長・中屋一博}の春季演奏会が滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧・宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。
会場の土間には十数匹の「こいのぼり」が吊るされ、室内には五月人形が沢山飾られ「こどもの日」に相応しい雰囲気でした。

私は、挨拶の中で「端午の節句」と「こいのぼり」と「5月5日」について多少触れました。
1年間に「節句」が5回あるが 節句とは、中国の暦法と日本の風土や農耕の生活習慣が融合したもので、季節の変わり目に邪気を払い、五穀豊穣や無病息災を祈る行事として江戸時代に入り庶民の生活にも浸透し根付いてきた。

①1月7日 人日{じんじつ}の節句。
 春の七草を食べて一年の無病息災を願う。

②3月3日 桃の節句。
 ひな祭り。女の子の健やかな成長と幸せを願いお祝いする。

③5月5日 端午の節句。
 しょうぶ節句とも言われ、男の子の成長を願う。こいのぼりを飾ったり粽{ちまき}を食べたりする。

④7月7日 七夕の節句。
 織姫と彦星が1年に1度だけ天の川を渡って会える日、とされ芸事や技芸の上達を祈る日でもあり、短冊に願い事を書いて笹飾りする。

⑤9月9日 重陽の節句。
 奇数が重なる日は縁起が良いとされ、特に最大の奇数である9が重なる9月9日は、不老長寿を願う日とされている。9が重なる日を重陽と呼ぶ。

「端午の節句」と「こいのぼり」の関係。
「昔、中国黄河の上流に竜門という滝があって、鯉はこの滝を登りきると、そのまま大空に舞い上がって竜に変化する。」という、中国の伝説に基づいたもので、それにあやかり男児の立身出世を願って鯉のぼりが立てられるようになった。
しかし、近年生活様式の変化で、屋外での鯉のぼり立ては難しくなり、室内での五月人形や武者人形等に変化したもので、元々は鯉のぼりであった。

文献によれば、「鯉のぼり」が飾られたのは江戸時代になってからで、男の子の出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。
明治に入り木綿製が現われ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの製品が出た。丈夫で軽く量産が出来る。1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと評判になり以降5匹も増えて第二次ベビーブームの70年代は史上最も多く泳いだという。

そこで「鯉のぼり」の歌が2曲ある事を話した。
「鯉のぼり」・・・大正2年
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を
 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり・・・

「こいのぼり」・・・昭和6年
①屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
 小さい緋鯉は子供たち  おもしろそうに泳いでる

大正2年の「鯉のぼり」は少し難しく、甍と言っても分かる子供はそう居ない。そこで昭和6年新たに作られたという。

もう1点「背くらべ」の歌{大正8年}がある。
①柱のきずは おととしの 5月5日の 背くらべ
 粽{ちまき}たべたべ 兄さんが 計ってくれた 背のたけ
 きのうくらべりゃ 何のこと やっと羽織の 紐のたけ

この歌も、端午の節句に身長を計る。やはり男の子の成長を願う歌であろう。
昭和6年の「こいのぼり」の歌は95年前の歌にもかかわらず今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに代わる歌もない。

大正元年に「茶摘み」や「春の小川」同2年「早春賦」同3年「故郷」「朧月夜」などの名曲は、100年経っても色あせることなく歌い継がれている。つまり、単に古いから,或は戦前のものだから、でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の「鯉のぼり」が時代の変化に対応して、五月人形のように形を変えて残ってゆくものなどあるが、私は、琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も是非とも残してゆきたい分野と思う。

取り分け琵琶で奏でる演奏曲目は、殆ど歴史的故事に因んだものばかりである。親子のの愛情や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会であった。

今回友情出演として南砺市井波から、薩摩琵琶 正派の2名の方もお迎えし、演奏会を盛り上げて頂いた。
①演目・・屋島の誉 演奏者・伊藤紫紺
②演目・・ひめゆりの塔 演奏者・島田進水
③演目・・火の玉文覚 演奏者・薩摩琵琶・正派 竹下嶺光
④演目・・俱利伽羅峠 演奏者・薩摩琵琶・正派 馬川透流
⑤演目・・重衡 演奏者・有澤結水
⑥演目・・山科の別れ 演奏者・高堂瓏水 
⑦演目・・ぶんぶく茶釜 演奏者・嶺瑛水

以上7名の演奏者が約1時間40分にわたり琵琶独特の哀調を帯びた音色を響かせた。GWの中ご来場された約50名程の方々には満足感を感じてもらえた演奏会であったと思います。

写真は、挨拶する私、トリを務めた嶺支部長。

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