なかや一博 ブログ

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亥子の会

3月28日午後3時、,滑川市中川原・パノラマレストラン光彩で、昭和22年{亥年生まれ}と昭和23年{子年生まれ}の有志で結成する第7回「亥子の会」が、スローガンを―みんな元気で 喜寿から米寿へ―を掲げ懇親会を開催しました。
前日の県内のお天気は28℃と夏日の暑さでしたが、当日は最高気温が12℃と小雨降る花冷えする寒さでした。

15名の参加者でしたが、大阪・京都の遠方より2名が来滑し花を添えてくれました。稲場大二君の進行で始まり、最初に私が挨拶し、昨年より10名ほど参加者が減ったが、毎年参加していた方が1名亡くなったこと。
また体調不調で今回参加できないが来年は是非参加するとという人が5名であることを話しました。

しかし、その反面、今回久し振りに2名の参加者もいることを紹介しました。また我々は健康問題が話題にでる年代になったことを自覚して、健康に留意しスローガンに掲げたように、みんな元気で取り敢えず、米寿まで長寿で長命な人生を楽しもうと話しました。
そのためにも物事を前向きに捉え今日の集いが楽しい思い出になるよう念じ挨拶としました。

また、大阪から馳せ参じてくれた関西滑川会会長の千先久矩君が、やはり同級生とは良いものである。再会するのを楽しみにしてきた。来年も是非続けて欲しいと話し、乾杯は中川勲君が行い和やかに懇親会に入りました。
懇親会直前に写した集合写真は、懇親会中に酒も飲まず、コンビニへUSBを持ち込み写真にして全員に配布してくれた稲場大二君に感謝しましたが、余りにもスピーディーな対応に驚きの声が上がっていました。

閉会の辞は近堂昭夫君の力強い言葉で2時間30分余りの宴に幕を閉じました。
別れを惜しみ、握手をもつて再会を約し、散会となりました。

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知人・友人との懇談会

25日夕、友人と懇談会を2度行った。最初は、経産省OBで富山県出身者の間宮叔夫氏。都合で5時30分からお会いしました。
氏は石破首相と懇意なことから,請われて内閣官房参与の肩書で活躍中です。和服の似合う方で、今では知らない人は居ない位有名になっているそうです。それ故、悪いことは出来ないと高笑い。
じっくりと話ができないまま6時30分多忙な彼と別れ、別の部屋で別の知人と懇談会を開催。

メンバーは、かって経済産業省より県の商工労働部長などに出向し、県政進展に尽力された方々で、現役では藤木経産省経済産業政策局長を含め3名。
OBでは佐藤全国中小企業団体中央会専務理事含め2名、これに特別参加として、上田英俊衆議院議員と堂故茂参議院文教科学委員長に首都圏本部からと私と9名で懇談会を開きました。

全員、旧知な仲ゆえ話題も多岐にわたりましたが、やはり国会の動きが中心でした。少数与党の苦労やら、政治とカネ、高額療養費、10万円商品券、予算通過後には強力な物価対策を講じる」発言や、米国の25%のトランプ関税、そして関西万博など実に話題は豊富で時のたつのも忘れ、話に花が咲きました。

翌日は、本市出身の小善国交省総合政策統括審議官に訪ね、午後全弓連理事会に出席し帰宅しました。

写真は、和服姿の間宮参与と。藤木局長、上田衆議院議員、堂故参議院議員と共に。国交省で小善審議官と。

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海舟記念館

3月25日{火}―26日{水}全弓連理事会出席のため上京の折、勝海舟記念館を訪ねた。山手線五反田駅で東急池上線乗り換え、洗足池駅下車徒歩6分位の所に記念館がある。

ご存知のように、明治元年{ 1868}幕府は鳥羽伏見の戦いで破れ、徳川慶喜は官軍との交渉の代表に勝を任じた。官軍の参謀西郷隆盛と会見するため官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴く。その際、通りかかった洗足池の深山の趣きある自然に感嘆し池畔の茶屋で休息したことが縁となり、、農学者津田仙{津田塾大学創始者・梅子の父}の仲立ちで土地を求めた。
勝は、赤坂氷川に家があったが、明治24年{1891}茅葺の農家風の別邸を建て自ら「洗足軒」と名付けました。ただ残念なことに戦後間もなく焼失した。

勝は、この地で次のような歌を詠んでいます。

    池のもとに 月影清き今宵しも 
            うき世の塵の 跡だにもなし 

勝は、明治32年{1899}1月21日77歳で亡くなりましたが、生前「洗足軒」の背後の丘に墓所を作り、遺言によりここに葬られました。
石塔には「海舟」とだけ刻まれ、徳川慶喜筆と伝えられている。当初は海舟一人の墓所でしたが、明治38年{1905}妻民子が死去し青山墓地に葬られたが、のちに改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。

それにしても、文政6年{1823}1月30日に生まれ、明治元年{1868}までの45年間は階級制度の厳しい封建社会に身を置き、明治元年から死去する明治32年{1899}1月21日まで31年間は富国強兵、近代国家建設に邁進する。

このように社会が一変する体験は、徳川慶喜も同様である。彼は、天保8年{1837}9月19日生まれで、明治元年までは、歴史の表舞台で、そして明治元年から死去する77歳の大正2年{1913}11月22日までの45年間は歴史の表舞台から消え隠遁生活を送る。

このように維新を境に、薩摩、長州、土佐、肥前の天下となる。しかし新政府を運営するには有為な人材が必要なため,かっての幕臣も登用する。勝もその一人で維新後参議兼海軍郷などを務めたのち、明治20年{1887}5月賞勲局より子爵に叙せられる。

この時、勝は、
    今までは 並{なみ}の身{からだ}と思ひしが
               五尺に足らぬ ししゃくなりとは

という嘲弄的な狂歌を吟じている。

しかし、勝は明治21年枢密院顧問官。明治22年12月勲一等瑞宝章を賜り、のち勲一等旭日大綬章を授けられ、正二位に叙せられた。
これに福沢諭吉が異を唱えた。明治25年{1897}1月末「瘦我慢の説」と題した草稿を送り返書を求めた。これは、この頃外務大臣を務め子爵となった榎本武揚にも向けられた。当初黙殺されたので、2月5日再び諭吉は督促状を出した。これが世に明るみになったのは、勝、亡き後、明治34年{1901}諭吉が主宰していた「時事新報」で公表されたことからその内容が判明した。

諭吉は、「かって幕臣であった勝が敵対した官軍つまり明治政府に仕え、名利をを貪っているとして勝を弾劾する。これが有名な「瘦我慢の説」である。
これに対し、勝は{中略・・・「行蔵我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず、我に関せずと存じ候、各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候{中略}・・・。」

つまり、批評は人の自由、行蔵は我に存すの意である。榎本はどの様に応えたかは不明である。もう一点有名な話は、勝は明治に入り座談会等で話したことが、海舟座談、氷川清話、海舟余波などとして残っている。

その中で、氷川清話の中の「古今の人物について」で、勝は坂本龍馬について「竜馬がかって俺に、「先生はしばしば西郷の人物を称せられるから拙者も行って会ってくるから添え書きくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには「なるほど西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く、もし馬鹿なら、大きな馬鹿で、利口なら、大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。」

激動の幕末維新を生き抜き、西郷と徳川の名誉回復に尽力し奇しくも徳川慶喜と同じ77歳の生涯であった。記念館を見学後、勝夫妻の墓所をお参りしたが、いまだに香華とお花が供えてあった。
勝の言葉に「清濁併せ吞んで、なお清波を漂わす、汝、海の如き男たれ」がある。政治には清濁があるとは思うが、余りにも濁が目立ちすぎる昨今の様な気がする。午後、皇居三の丸尚蔵館で―百花ひらく―花々をめぐる美―を鑑賞した。

写真は、記念館前。海舟夫妻の墓所。

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高橋正樹氏叙勲祝賀会

星流れ 海に入りしや 蛍烏賊  山下徳樹

滑川のほたるいかミュ-ジアムでは3月20日からほたるいかの発光のショ-が始まるなど、ホタルイカ漁も最盛期に入ってきました。
そんな中、3月23日{日}前・高岡市長・高橋正樹氏の旭日中綬章受賞記念祝賀会が、高岡商工ビル2階「大ホール」で200人余の多数のご参加を得て、盛大に開催されました。会場では高橋氏の幼少時代から今日までの活躍がビデオで紹介されていました。

まず最初に発起人を代表して塩谷雄一高岡商工会議所会頭が挨拶。新田八朗知事、橘慶一郎内閣官房副長官・衆院議員.。堂故茂参議院文教科学委員長。角田悠紀高岡市長がそれぞれの立場で地方自治一筋に歩んでこられた功績を称える祝辞を述べられました。

次に風邪で欠席した3人のお孫さんからの可愛いビデオメッセージ披露され、会場は和やかな雰囲気に包まれました。次いで多数の祝電の中から、時間の関係で前・富山県知事石井隆一氏の電文のみ披露され、来賓紹介に移りました。
次に元・市秘書課職員で高橋氏が初登庁した際に出迎えた女性と親戚の女性から花束の贈呈がありました。ここで本人の謝辞があり、今日までの関係各位のご支援、ご指導のお陰での受章であることを力説された謝辞でありました。

尚、乾杯に入る前に、本日のメニューの「前菜」について料理長より説明がありました。
それによると高橋氏は総務省時代、熊本、宮崎、新潟各県に出向されました。その土地の一品を今回の「前菜」に活用していることを説明されましたので、配布されたカラーの「前菜」のメニューはイラスト入りで、奥様の説明書きがありますので、それをご紹介します。

前菜 ―旅路を越えて ふるさと回帰―
「赴任した土地と高岡の思い出を、前菜一皿に盛り込みました。その土地の名産,郷土料理は地域に溶け込む重要アイテムです。転勤した先々で、地元の方に郷土料理を教えてもらうのはステキな楽しみでした。それらは今や我が家の定番料理。富山は海、山の食材の宝庫です。高岡でも魅力的な定番料理がたくさん増えました。ちょっと旅気分で味わってくださいませ。
高橋陽子

と奥様が記しておられました。

内容は
①―宮崎の味わい―伝統のぬた芋
・・・・和えるときには角がとれてとろみが増します 宮崎の里芋で作る郷土料理です

②―熊本の恵み―赤牛ローストビーフ
・・・阿蘇の大草原でおいしい野草をたくさん食べて育つブランドて牛さっぱりとヘルシー

③―越後の香り―サーモンコンフィ
・・・青海苔クリーム添え・新潟名物の鮭わっぱをイメージ、青のりはわっぱに付き物

④―加賀前田の逸品―どじょう蒲焼き
・・・加賀藩名物、富山、石川のスタミナ源

⑤―松楓特製、桜鱒と昆布の押し寿司、いくらの彩り
・・・寿司と言えば富山、やっぱり鱒寿司でしょう、昆布を挟んで鱒寿司の新境地に挑戦しました

⑥―富山の春の贈り物―ホタルイカと菜の花の酒粕和え
・・・きゅうりの粕和えは高岡の夏の定番です、菜の花で春を告げる逸品に

⑦―黒豚の旨味たっぷり
・・・高岡風コロッケ 豆やひじきを入れてパワーアップ松楓のオリジナル

この説明の後、かって高橋氏の後援会長であった川村人志同商議所前会頭の乾杯の発声で宴に入りました。私も、いろんな祝賀会に出席しましたが、奥様の心のこもったおもてなしは初めてで、ほのぼのとした夫婦関係を表しているようで、思わず手を付けずそのまま持ち帰りたくなるような前菜でした。
料理の事ばかり書きましたが、高橋御夫妻のような、和気あいあいと和やかな雰囲気の素敵な祝賀会でした。

高橋氏は高岡高校から,東大法学部卒業後自治省に入省。新潟県副知事など歴任後本省に戻り、平成20年7月総務省大臣官房審議官で退官。
平成21年7月ー令和3年7月まで3期12年高岡市長を務められました。

この様なエリートですが、私のような者にも何ら偉ぶることもなく、親しくお付き合いを頂いていることは本当に有難いことです。

写真は、挨拶すると高橋氏。高橋夫妻と石澤義文氏。心のこもった前菜のイラスト。奥様の文章。
            
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滑川・富山北部両校薬業科特別講演

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

3月3日{月}午前9時50分ー10時40分滑川高校薬業科1年生34名、3月10日{月}午前10時50分ー11時40分富山北部高校薬業科・くすり・バイオ科2年生78名に対し「富山のくすり」について話しました。
これは、後継者育成事業の一環として、富山県の重要な産業である「富山のくすり」について理解を深め、認識を新たにしてもらう意味から製薬メーカーと配置側とが1年交代で行っているものです。

最初に、令和5年{1月ー12月}の医薬品国内生産金額は10兆332億円、この内、富山県内での生産額は約6221億1千万円で全国4位。
また配置用医薬品の総生産額は令和元年調査から集計方法が見直されたため実態の把握が困難になっているが、過去の実績からして、全国の配置薬の生産額の約50%が富山県で生産され、現在全国で約1万人の配置員がいること。
そして高校に薬業科があるのも富山県ぐらいである事を話し、だから、「富山」と言えば「くすり」、「くすり」と言えば「富山」と言われる所以を説明し、本題に入り、概ね次の点について話しました。

①富山売薬の歴史
 富山売薬発祥の起源とされる元禄3年{1690}「2代富山藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」。備前の医師・万代常閑と「反魂丹」。薬種商・松井屋源右衛門。諸国への行商を広めた八重埼屋源六。「先用後利」の商法と立山山岳信仰配札檀那廻り。

②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。
 特に薩摩藩と昆布、北前船。

③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容。

④明治に入り
 漢方薬排斥、洋薬礼讃、売薬取締規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。

⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」を設立。
 明治30年富山市へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、これが富山北部高校薬業科の前身であり、明治40年県立に移管され、薬剤師など製薬メーカーへの人の育成そして売薬行商人養成機関としての位置付けを確保していく。明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となる。これが、昭和24年富山学薬学部となった。この間昭和10年滑川町立薬学校設立。
これが現在の滑川高校薬業科であり、それらの歴史。

⑥明治以降、薬業人が金融機関や電力会社などを設立し、富山県の近代化や産業の育成に大きな貢献をした事。

これらのことを説明し、この素地があるから今日の「富山のくすり」があることを話しました。
また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか。それは薬箱が家の中にあって24時間営業し、必要な時に何時でも使える便利さ。しかも使用しなければ代金の支払いは発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にする売薬独特の商法と同時に、①顧客との信用・信頼 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理 {例えば掛場帳}の重要性を売薬さんたちは300年も前から身につけていたことです。

詳細は紙面の関係上割愛しますが、いづれにしても、真面目にやればこれほど良い仕事はない。数年前北部高校から、配置薬業に従事した先輩もいたし、在学中に登録販売者の資格も取得した人もいた。
特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いており、最近増加していることも話し配置薬業のPRをしてきました。

ただ、残念なことは滑川高校薬業科34名に「売薬さん」「置きくすり」を知っているか。の私の質問に全員知らない。滑川在住者は4人でした。
また、北部高校78名の生徒に同じ質問をしたところ17-18名でした。せめて薬業科ですから授業の中で富山の売薬に関して、多少触れてほしいものです。また、県内でのPR不足を改めて感じました。

写真は講義中の風景。

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