なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2026年1月1日

謹賀新年

手のつかぬ 月日ゆたかや 初暦   古屋信子

令和7年は既に地平線下に沈み ここに令和8年の幕が上がりました。
干支は「乙巳」から「丙午」{ひのえ・うま} に引き継がれ月日は休むことなく新しい時を刻み始めました。さて、昨年1年を振り返ると多くの出来事がありました。

政界では、なんと言っても7月の参院選で自公連立政権は惨敗し、衆参両院で過半数割れとなった。その結果石破首相は退陣し、自民党総裁選を制した高市早苗氏が日本で初の女性首相が誕生した。しかし、予想もしなかった公明党が26年続いた自公連立を離脱。直後、自民は日本維新の会と連立を組む。正に政界は一寸先は闇である。

また、トランプ関税に振り回される中、令和の米騒動と言われる米価やエネルギーなど含め、あらゆる分野での物価高に国民は悲鳴を上げた。また、青森東方沖地震では、M8、八戸では震度6強を観測するなど地震、火災、竜巻などが多発した。
そして年末恒例の清水寺での今年の漢字一文字では、全国各地で多数の死傷者を出した「熊」が選ばれた。特に今年の熊はアーバンベアー{都市型クマ}と呼ばれ、市街地周辺の山林で暮らし、街中に出没する熊が多かった。これを人災と指摘する声もある。最後に高市発言で日中関係が悪化した事など、これ以外にあげれば枚挙にいとまがない。

さて今年はどんな年になるだろうか。

そこで「干支」を見る。「干支」と「十二支」は同じ意味だと思っている方が多いようだが、令和8年の干支は、本来の干支でいうと丙午{ひのえ・うま}が今年の「干支」である。いわゆる「十干」と「十二支」を組み合わせ、それが60通りの年号を作り出す古代中国で生まれた歴法である.ゆえに次回の「丙午」は60年後の2086年である。当然私はこの世にいない。

「十干」は古代中国殷の時代に10日を一旬として構成するそれぞれの日に名前を付けたことから始まったと言われ、その後万物は全て「陰」と「陽」の二つの要素に分けられる「陰陽説」と、全ての物事は「木」「火」「土」「金」「水」の5ッの要素からとする「五行説」が結び付き、それぞれの意味を表すようになった。

「十干」とは①甲②乙③丙④丁⑤戌⑥己⑦庚⑧辛⑨壬➉癸の総称で、元は1から10までを数えるための言葉だった。「十二支」は元々時刻の呼び方であった。一日24時間を12で割り、各時間のユニットを2時間とした。
現在干支に使われている漢字はご存知の通り①子②丑③寅④卯⑤辰⑥巳⑦午⑧未⑨申➉酉⑪戌⑫亥である。

「子」は一番最初に来ますから、1日が始まる夜中の0時のことです。そこから数えると午は7番目だから、昼の12時頃になる。つまり、「午の刻」は1日を半分に分ける時間帯にあるので、その前が「午前」その後が「午後」と言われる所以である。また、十二支にはよく動物の名が充てられる。

これは中国の王允{おういん}と言う人が、十二支を民衆に浸透させるために動物にして文献に書いたとされる。つまり動物の意味は後から付け足しされた。例えば、子を鼠にしたのは繫殖力の高い子宝の象徴、子孫繫栄。丑を牛にしたのは、生活のパートナーであり、畑を耕したり、重い荷物を運んだりする。寅を虎にしたのは勇猛果敢な動物であり、その勇ましさから虎が充てられた等々である。日本には6世紀半ば欽明天皇の頃伝わったと言われている。それでは今年は干支から判断すればどんな年か。

丙は「炎のように燃え広がる火」午は「古くから人間とともに生きてきた動物で、俊足で、独立心が強く人も助けてくれる存在」と共に「真夏の火」を意味し,火の力が重なる干支とされ、勢いの強さや激しさ、情熱と行動力を象徴する「干支」と云われてきました。丙の「火」と午の「火」の組み合わせから、強いエネルギーとされ、激しい力で逆境を乗り越えていく「力」の「干支」と言われます。

しかし、60年前の昭和41年{1966}の丙午の年には迷信の影響で出生数が大きく減ったことで知られています。その迷信とは「八百屋お七」の逸話です。
事の起こりは江戸時代。「江戸のある八百屋に「お七」という娘がいましたが、天和3年{1683年}1月にお七の家の付近で火災が発生し、お七の家も焼けてしまいました。そのため、一家は近くのお寺に避難し、そこでしばらく暮らすことになりました。

お寺には、生田庄之介という寺子姓がいましたが、その若者とお七は、恋仲になりました。けれども、そのうちにお七の家が建て直されたため、一家は寺を出て家に戻りました。その時、お七はまだ15歳。結婚する年齢でもなく、お七と庄之介は離れ離れになってしまいました。この時からお七の苦悩が始まりました。

お七は何とかしてまた庄之介に会いたいと思い、あることを思いつきました。それは2人が出会えたのは元の家が焼けたからなので、また家が焼ければ、庄之介に会えるのではと考え、自宅に放火してしまったのです。幸いこの火事はすぐに消し止められましたが、お七は放火罪でつかまり、火あぶりの刑に処せられました。このように不幸な人生を送った八百屋お七が「丙午」の生まれだったことから、丙午生まれの女性は縁起が悪い。と考えられるようになりました。

但しこれは迷信で、実際に丙午の年に生まれた人が運の悪い人生を送っているというデータはありません。この逸話や「干支」など、信じる、信じないは、人それぞれ。「当たるも八卦 当らぬも八卦」ですが、今年は良き年であるよう願うものです。

写真は、①今年の年賀状。②平成2年{1990}午年の時、年賀状に使った写真。③昨年末、清水寺より戴いた貫主・森清範氏揮毫の干支の色紙「老・馬・智」。

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