なかや一博 ブログ

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初冬の清水寺を訪ねて

12月1日(木)~2日(金)滑川音羽の会{会長、中屋一博}主催による初冬の古都と清水寺仏名会{ぶつみょうえ}に参列することを目的に、1日午前7時30分17名の参加で滑川を出発しました。
会として何度か清水寺へは訪問はしているものの今年は森貫主さんのアドバイスで,法名会(毎年12月1日~3日午後4時)とライトアップに合わせ企画しました。途中、石山寺に立ち寄り、特別拝観の33年に1度の御開扉である、本尊、如意輪観世音菩薩の秘仏を見学しました。

次いで清水寺へ。出迎えて下さったのは大西英玄執事補です。彼は10月9日のなめりかわマラソンに参加しハーフを完走した人で、英語も堪能な優秀な青年僧侶です。
彼の案内で清水寺迎賓館で小休憩、仏足跡で願を掛け、次いで名勝、清水寺成就院の見学、そして4時から「仏名会」です。仏名会とは三世の諸仏の仏名を唱えてその年の罪障を懺悔し消滅を祈る法会、約40分程の読経でした。
5時30分いよいよライトアップ。これは鐘楼の鐘の音を合図に境内一斉に点燈されるものですが、光栄にもその第1打を私が撞かしていただいた。その後、参加者全員が2人1組で鐘を撞きました。その後、本堂から音羽の滝へ下り霊水を飲み、ライトアップされた境内を散策しました。紅葉はすでに盛りを過ぎていたがライトアップはライトアップなりの趣や美がありました。

夕食は「THE SODOH」でした。ここは西の栖鳳、東の大観と言われ近代日本画の先覚者と謳われ、昭和12年第1回文化勲章を受章した竹内栖鳳が晩年13年間を過ごした所です。かっては各界の著名人が集まる文化芸術交流の場として幅広く活用されていたとのことですが、栖鳳没後は公開されることもなくひっそりと時を刻み続けていました。それが、現代のゲストを最大限にもてなす空間として平成15年に誕生しました。
ここには、ご多忙の中、清水寺貫主森清範先生と執事補大西英玄さんにもご同席を願いイタリア料理に舌鼓を打ち2時間余り、有意義な時を過ごしました。

次いで、向かいの高台寺もライトアップしているということで見学しました。
御存じの高台寺は豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北の政所{ねね}が慶長11年{1606年}開創した寺です。
ここは、プロジェクション・マッピングの技法を駆使し庭に映し出される映像は幻想的でした。また、池に映る逆さ風景も見事でした。

2日は京都市美術館で開催中の若冲展を鑑賞しました。群鶏図や百犬図など、どれをとっても見応えのあるものばかりでした。江戸時代の画家と言えば、狩野探幽や尾形光琳、円山応挙や池大雅、喜多川歌麿や葛飾北斎といった名前が思い浮かぶが、それらの巨匠をさしおいて若冲が時代を代表する画家だと云います。若冲―享保元年{1716年}京都生まれ 寛政12年{1800}逝去、享年85歳。

引き続き、京都御所、京都鉄道博物館などを見学し、午後8時滑川に安着、解散しました。
一泊二泊の短い旅であったが、中味の濃い充実した旅でした。
特に、私にとって感激したことは清水寺貫主森清範先生の御配慮により、仏名会の中で、亡き母の回向をして頂いた上、供物まで頂戴したことです。帰宅早々、仏壇にお供えし母に報告をしましたが、きっと母も喜んでいることと思います。
いずれにしても、今年もあとわずか。「一日も、おろそかならず、古暦」虚子
   
平成28年12月  中屋一博

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<ライトアップを告げる鐘楼の第一打>

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<森清範貫主とともにTHE SODOHでの夕食会>

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<高台寺のプロジェクションマッピング>

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<京都御所柴震殿前にて>



役の行者(えんのぎょうじゃ)像、御開帳

11月7日曹洞宗、五智山、独勝寺{滑川市加島町}にて第10代長谷川喜十郎{明治10年1877年―昭和10年1935年}作役の行者像御開帳法要が執り行われました。越中の左甚五郎と称された第10代長谷川喜十郎を一躍有名にしたのは、日光東照宮模型製作です。

最初の製作は、明治45年{1923}富山市で開催される一府8県連合共進会への出展が目的で、八尾町の松本駒次郎氏からの依頼であった。初作の模型は、本殿、五重の塔、陽明門、の3点で製作は1年かけて行われました。展示は好評で展示後は全国各地を巡回したが大正7年5月博多で焼失しました。

2作目は大正4年2月24日開会のサンフランシスコ展覧会に日本政府の出陳として東照宮経由で製作が要請されました。この時、模型製造工10名と共に東照宮内の「赤倉」に泊りこんで、僅か3ヵ月程で製作したといわれています。その後、出品作品は、大正14年{1925}東京大学工学部へ寄贈されましたが、昭和35年{1960}日光東照宮に返還され、その模型は今日まで、日光東照宮宝物館に展示されています。ただ、博覧会に出品された20分の1の模型であるといいます。

3作目は仙台市の資産家、浜田長蔵氏の依頼によるもので、5年の歳月をかけ大正15年{1926}ようやく全容が完成しました。この作品は昭和2年{1927}東京の国技館での「日光博」に出品され80万人が見学に訪れました。展覧会は京都、大阪、奈良でも開催され、大好評を博しました。模型は、28棟、部品は五十万点からなり、眠り猫の実寸彫刻もありました。正に、当時の新聞は「越中の左甚五郎」と報じました。
しかし、この模型が完成した6年後には長蔵が10年後には喜十郎が相次いで亡くなり、巨大な模型はその後時代の荒波に翻弄されます。
昭和62年{1987}3月愛知県岡崎市で開催された、葵・博覧会の資料によると、戦後アメリカに渡ったのはこの模型です。アメリカでは昭和28年{1953}サンフランシスコ貿易博を皮切りに全米各地を回り、二ユ―ヨーク世界博{昭和39年―昭和40年}で展示されました。全米各地での人気は高く,譲渡を迫る米国人の手を逃れ、昭和49年には日系米国人の手によってハワイ、ホノルルで永らく大切に保存されていました。

昭和60年に市制70周年を迎え、徳川家康公の生誕地である岡崎市の目に留まり、いつの日か日本へ里帰りさせたいと願っていた日系米国人との思惑が一致し、晴れて日本の地を踏むことになります。
当初は、岡崎市で保管する計画であったが、諸般の事情で平成7年から高山市の桜山八幡宮が所蔵し現在展示されている。この模型が高山市にくるまでの間、9億円近くで売買されたという話も伝わっています。

一方、地元滑川市において、昭和5年{1930}4度目の模型製作が企画された。有志の手によって資金を調達しながら製作が進められ1年後に10点が完成したが、資金の調達が困難となり製作が中止され全容は完成しませんでした。
現在では、残念ながらその所在すら分からなくなっています。ただ、その日光東照宮の模型の一つが滑川市博物館にあります。それは、大正6年に製作に着手して10基製作したうちの一つであり、滑川市に現存する唯一のものです。

長谷川家の当主は、現在第13代目であるが作品は10代を含め近隣に結構残っています。
平成26年1月―3月滑川市制60周年記念事業として、長谷川喜十郎とその弟子たち展が開催された。しかし、今回独勝寺で御開帳された厨子の中の「役の行者」と前鬼、後鬼の3体は新発見のものでした。
ご住職の話によれば、今年に入りお寺の仏様を整理中に「役の行者」の背中に「大正時代喜十郎謹作」と記し又、赤字で寄進者の氏名が記されているのを見て、市博物館に調査を依頼したところ、第10代長谷川喜十郎の作品に間違いないことが分かり今回の御開帳に繋がったとのことでした。

尚、「役の行者」像は近隣ではほとんど見かけないとのことでした。法要が終わったあと、住職に質問したのは
①独勝寺に寄進された訳は
②何故「役の役者」なのか
③寄進月日を特定せず、漠然と大正時代としたのは何故か
④寄進者名から手掛りは
⑤像の材質は
等であったが残念ながら今後の調査に待たねばならないとのことでした。

そこで、私の推測だが、富山売薬のルーツは立山修験者と言われる。片や大和{奈良}売薬の始祖はやはり修験者である「役の行者」と言われています。彼は葛城山で修業し黄柏のエキスから製造したのが「陀羅尼助」{だらにすけ}で、これが大和売薬のルーツと言われています。
そこで、独勝寺の関係者である売薬さんが「役の行者」の由来を知った時、神農像なら珍しくないが、同じ薬業の始祖である「役の行者」像を長谷川喜十郎に製作を依頼したのではないかと思います。
参考まで歴代喜重郎作の神農像は何体も存在しています。
いずれにしても、「越中の左甚五郎」と謳われた第10代長谷川喜十郎の作品が今頃発見されるとは驚きです。こう考えると、まだまだお宝が眠っているような気がします。

住職の話では次回の御開帳は来年とのことであったが、出来るだけ多くの機会を作り、一人でも大勢の方々に見学できる機会があれば良いと思います。

第10代長谷川喜十郎に関する記述は「長谷川喜十郎とその弟子たち展図録より一部引用」

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     <御開帳法要 独勝寺にて>     <厨子の中の役の行者と鬼2体>



「先用後利」と「先義而後利者栄」

◆五輪、震災復興から見る「利他の精神」
 リオオリンピック・パラリンピックが盛会裡に終了、閉幕した。当初心配されたテロ対策、施設の完成日時、交通事情など多少の問題点があったとしても、概ね成功に終わり、関心は4年後の東京オリンピック・パラリンピックに移った。
 それにしてもリオオリンピック・パラリンピックでの日本勢の活躍は素晴らしかった。オリンピックでは金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル21個、パラリンピックは金こそなかったが、銀10個、銅14個である。特に金12個のうち、富山県から2人の金メダリストが出た。レスリング女子48㎏級の登坂絵莉選手と、柔道女子70㎏級の田知本遥選手だ。2人揃っての金は県のスポーツ史上初の快挙であった。
 とりわけ我々が感動したのは、メダリストのほぼ全員が口にした「感謝」という言葉である。これが日本人選手の活躍を一層、美しく感じさせる要因になったように思う。
 「支えてくれた人に」「応援してくれた人に」「一緒に戦ったチームメイトに」「テレビの向こうにいる人たちに」感謝しているとの発言は、日本人独特のものであり、これこそが日本人の美徳であると指摘する人もいる。陸上競技100m走等で金メダリストになったボルト選手のガッツポーズとは対照的である。
 また東日本大震災から5年以上経過した今日でも、警察官や消防団員による遺体捜索が行われている。果たして世界中で、こんな国があるだろうか。それはどんな仕事も、あるいは目標も1人では成し遂げられない。常に周囲と協力し感謝する。この精神こそ日本人の誇りであり、正に「利他の精神」である。すなわち、「先用後利」の精神でもある。

◆先用後利の商売哲学 売薬の専売特許に非ず
 さて、この「先用後利」の商法を論じる時、芦峅寺衆徒の話が出る。以下、北日本新聞社刊「先用後利」(1979年発刊、1997年8月20日改訂版発刊)より抜粋。
 衆徒らは功徳を絵にした立山曼荼羅を掲げ、お礼を配った。同時に経帷子やくすりを信者に預けた。山岳密教、立山信仰の布教活動として中世から全国的に行われていた。
 宗徒らが与えたくすりは熊胆である。ヨモギの煮汁に芦峅寺地区にある樹皮、キハダを加えて煮て作ったものである。このほか高山植物のミヤマリンドウを三効薬と称して気付けぐすりに使ったという。
 衆徒はこれらを携えて布教に歩いた。そして檀那帳を作って住所、氏名、品物を書き留めておいた。翌年、また同じ信者の家を訪れて信仰を説く。村人たちが「あの越中立山の修験者が来られた」と続々集まってきた。
 この時、経帷子はもちろん、針の代金ももらった。「初穂ハ壱年送り二御座候」。総て代金は1年送りであった。また、越中売薬の「先用後利」との類似点はもう1つある。
 「檀那帳」は衆徒の活動基盤でもあった。各坊家の配札場は代々その坊家に世襲独占されていたが、江戸時代には檀那帳として売買の対象にもなった。(北日本新聞社発刊「先用後利」より)
 つまり、配札場とは売薬で言う回商地域であり、檀那帳は懸場帳で、「初穂ハ壱年送り二御座候」は使用した分のみ集金する「先用後利」の商法である。
 このように「先用後利」の商業哲学は、単に売薬の専売特許ではなく、中世から売薬以外にも存在した商法であり、それらと関連性があると以前から指摘されていた通りである。
 そこで今回私が提起するのは「先用後利」の4文字が誰によって、いつ頃語られるようになったのか? それは造語なのか? あるいは出典は? また富山売薬の祖である富山藩2代目藩主・前田正甫公の言葉なのか? これらは、ほとんど語られたことはなかったと思う。
 私自身、いろいろな薬業に関する書籍を読んでもよく分からなかった。そこで利他の精神と先用後利と重ね合せて考え、この点について私見を述べてみたいと思う。

◆荀子の〝七言〟をヒントに誕生か
 江戸時代、商才に長けた者が大きくなり、豪商となった人々で、現代でもその名が残る三井、住友、鴻池などがいる。例えば豪商三井が商いの心得として記した中に「女、童、盲人も買に参候ても」の言葉がある。つまり、誰でも客ですぞ、と言うこと。そして「現金、そらねなしに商売致し始」とある。これが三井の前身である呉服商・越後屋が大成功を収めた商法の「現金掛け値なし」の看板文句なのである。
 このように豪商たちは競って商業哲学を標榜し始めた。その中に現在の東京、京都などにある大丸の創始者・下村彦右衛門(元禄元年〈1688年〉~寛延元年〈1748年〉、京都・伏見生まれ)がいる。享保2年(1717年)に29歳で伏見に大丸の前身呉服店「大文字屋」を開店。創業20年の元文2年(1737年)を節目に京都、名古屋、大阪の全店で座右の銘とする言葉を発し、これを掛け軸にして掲げさせ、以後、事業の理念とした。
 「先義而後利者栄」である。中国・戦国時代の荀子の栄辱編からの七言で「義を先に、利を後にする者は栄える」という意味である。
 
 結論から言うと、この荀子の七言にヒントを得て「先用後利」の言葉が生まれたのではないかと思う。
 では、誰がいつ頃言ったのか? 正甫公か? 正甫公は宝永3年(1706年)に亡くなっている。下村彦右衛門の言葉は元文2年(1737年)であるから、正甫公はすでにいない。
 ズバリ、富山藩5代目藩主・前田利幸公(享保14年〈1728年〉~宝暦12年〈1762年〉、三十四歳没)と思う。17歳で藩主となった彼は藩主就任早
々、藩財政の再建に思いをめぐらしていた。以下、遠藤和子著「薬売り成功の知恵」(1994年12月発刊)より。
 利幸にはよき理解者がいた。叔父・前田利寛である。彼は富山売薬発祥のきっかけを作った2代目藩主・正甫公の8男である。父がこの世を去った時は3歳であった。しかし、利幸にすれば頼りになる叔父であり、尊敬できる指導者であった。藩政のことを相談しては指導助言を受けていたと考えられる。利幸は幾つもの売薬施策を出した中で反対意見もあったが、「反魂丹役金の取り立てを当年より停止することを申し渡す」(宝暦3年〈1753年〉)。これも利寛のアドバイスと言う。
 この触れに売薬商人たちは躍り上がって喜んだ。仕事に勢いがついた。売薬仕事に従事する者が増えた。また農村部でも宝暦4年、5年と2年続きの凶作、飢饉が重なると、農閑期に売薬商人の連れ人となって働き者が増えた。
 一方、利幸は参勤で江戸に出ると、売薬商人受け入れ工作に励んだ。登城すれば諸大名の詰間を回る。また、江戸家老を諸藩の屋敷に派遣して頼み込ん だ。このようにして新しく許可を得た藩は、商人たちの働きも含めて32藩。振り売り行商圏も合わせると全国一円に広がった。販路は大きく躍進した。これによって売薬に従事する商人の数は一挙に1,000人を超えた。
 
 ついで宝暦9年(1759年)に反魂丹取締役として、長(おさ)町人又七郎を任命。反魂丹商売切手の発行権を与える。宝暦10年(1760年)2月に「反魂丹商人心得方」について申し渡す。反魂丹切手とは、富山藩から旅先藩に宛てた売薬許可状で、身分証明書に当たる。旅先藩でこれを示せば、容易に信用してもらえる。それだけ富山藩では「反魂丹売薬の名を汚さぬようにと旅先での行いを戒める心得状を出したのであろう。(以上遠藤和子著より抜粋引用)
 また、宝暦6年(1756年)3月に富山藩は「反魂丹役所」の名において富山売薬商人の上縮(うわしまり)元締役に旅先における触留を出すなど、藩が全面的に乗り出し、信用の維持に努める権威の格付けに一役買っている。これと同時に、この頃に当然、反魂丹売薬の商売哲学を考えたと思う。
 下村彦右衛門の七言が京都、名古屋、大阪の全店で掛け軸に掲げられたのは元文2年(1737年)である。宝暦10年(1760年)は、この七言が世に出て20年以上過ぎている。この頃、売薬行商圏も全国一円に広がり、従事者1,400人~1,500人とある。当然、それなりの人々の目に入ったであろうし、帰藩した折、この七言が上司に伝えられたと思う。
 「先義而後利者栄」。やはり、この言葉にヒントを得て「先用後利」が生まれたのではないかと思う。残念ながら利幸は宝暦12年(1762年)に34歳の若さで亡くなった。藩の財政再建にはならなかったが、領内は安定し、富山城下は繁栄し「さても見事よ、富山の町は、二階造りの白壁よ」と、信濃路のひな歌まで歌われたと言う。利幸以降、代々の藩主も保護奨励し文久年間には2,200人の売薬行商人を数え、年間売上20万両、藩財政の一翼を担ったと言う。
 参考までに売薬行商人数は宝暦年間(1751年~1763年)1,400人~1,500人で、この頃、全国的販売網が出来上がったと言われる。文久年間(1861年~1863年)2,200人、慶応元年(1865年)2,221人、明治4年(1871年)8,000人。明治4年の人数は、廃藩置県等々で武士が失業したためだと考えられる。

◆正直律義で慈愛深く
 ここで下村彦右衛門の遺訓を記しておく。
 「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりがもっともいけない。いかに才知にすぐれていても、不義理な人間は役立たない。ましてや主人たるものは、正直律義で、慈愛深くなければ多くの人の上に立てない」
 この言葉が飾り物でなかったことを証明したのが、創業から120年後、天保8年の大塩平八郎の乱である。
 「大丸は義商なり」天保の大飢饉の時、平八郎はこの飢饉を見かねて救済策を奉行所に進言するが受け入れられず、ついに決起する。豪商達多数が襲われるが、その中で大丸が難を逃れる。「大丸は義商なり、犯すことなかれ」と叫んだと言われる。

 ※なお、この文は、10月に家庭薬新聞および薬日新聞に寄稿したものです。



関東滑川高校同窓会総会

9月3日{土}上記総会及び懇親会がシンフォニー・クルーズ。
東京ベイ、クルージングレストランで(11時50分~14時)約90名が参加し盛会裡に開催されました。開催は2年に1度です。

総会に先立ち、同会顧問であり、日本レスリング協会会長福田富昭氏〔第14回卒〕よりリオ・オリンピックの報告や、2020年東京オリンピック招致の裏話など有意義な話しがありました。
又、本校卒業生で日大3年生の村上英士朗君がウエイト・リフティングで活躍していることも紹介され本人のご挨拶もあり、東京オリンピックでの活躍に期待があつまりました。
当日は欠席でしたが、プロ野球ロッテ球団で活躍中の石川渉投手なども話題になりました。このように同窓生が各界で活躍されることは本校の名誉であり誇りであります。

次いで、小幡哲夫会長{第7回卒}の挨拶や澤井校長、そして同窓会長として私も一言ご挨拶を申しあげました。
東京湾のクルージングを楽しむと言うより、故郷や母校の話で持ち切りになり、アッと言う間の2時間でした。年齢や学んだ学科が違っても同窓生という三文字で心が一つになります。やはり母校とは有難いものです。最後に校歌を全員で合唱し別れを惜しみました。

私は、その後友人と約束の、話題の築地市場を見学し、大宮で別の友人5人と台湾料理に舌つつみを打ち、大宮発21時30分富山着23時16分で帰宅しました。あわただしい2日間でしたが、それなりに有意義な日々であったと思います。

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<リオオリンピックの報告をする福田富昭氏>

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<会長 小幡哲夫氏と村上英士朗さん>



上京

9月2日{金}久し振りの上京を機に、厚生労働省の二川一男事務次官を訪問しました。
前回お会いしたのは、医政局長の時だったから約1年ぶりでした。
氏の出生地は滑川市であり、祖父は医薬品配置販売業。母方の実家も同様です。そんな縁で話に花が咲き、時の立つのを忘れ、長逗留をしました。

次いで、総務省事務次官、佐藤文俊氏を訪ねました。氏は昭和50年代富山県財政課長として県に赴任されていました。前回お会いしたのは、5月末。まだ総務審議官であったがその直後次官就任の内示が新聞で発表されました。
約3ヵ月ぶりの再会でしたが、両氏とも事務方のトップであるが実に気さくな方々で、更なるご活躍を期待し別れました。

その夜は、厚生労働省より富山県に出向していた6名の方々と歓談しました。1人は審議官、他の人々も企画官など其々の立場で活躍しておられます。富山での思い出を始めとして、業界の諸問題についても意見交換をしました。

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<厚生労働省事務次官二川一男氏(次官室にて)>

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<総務省総務事務次官佐藤文俊氏(次官室にて)>

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<厚生労働省の審議官&企画官などの皆さん(富山県赤坂会館にて)>