なかや一博 ブログ

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東京滑川会

5月28日、第59回東京滑川会(会長、上田芳夫氏)総会、懇親会が大手町サンケイプラザで100余名の多数のご参加を得て盛会裡に開催されました。1年ぶりの再会ゆえ、同級生のこと、故郷のことなどを含め色んなことが話題となり時の過ぎるのも忘れ、話に花が咲きました。

余興では、本市上小泉出身松井マリさんの「ここは長崎月夜坂」の披露や、お笑いの世界に身を投じた北野出身常田功さん(ロッテ石川渉選手と同級生)の紹介や富山県人婦人会と会員の皆さんによる「越中おわら節」それに「ほたるいか音頭」などが踊られました。

最後に前会長山田郁子さんの万歳で名残を惜しみつつ散会しました。会員の方々はやはり剣、立山の雄姿を見ると故郷に帰って来たことを実感するし、どこか元気、勇気を与えてくれる。と幾人かの人がはなされていた。

『国巡り、山々見れば、ふるさとの、越の立山たぐい稀なり』 (山田孝雄、富山市名誉市民)

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<山田郁子前会長による万歳三唱>



滑川―秋田―東京

【5月26日】
午前10時開催された[一社]秋田県医薬品配置協会総会、及び名誉会長故吉村登喜男氏、協会副会長故馬場秀知氏を偲ぶ会出席のため5月25日滑川を出発しました。実は、秋田市で午前10時から開催される会議には当日出発しては間に合いません。
6時19分北陸新幹線かがやきに乗って大宮で秋田新幹線こまちに乗り換えても秋田着は午後12時30分。故に前泊せざるを得ないのです。
25日午前6時38分滑川発あいの風鉄道泊行き。泊着7時12分。泊発7時15分えちごトキメキ鉄道直江津行き。8時26分着。直江津発8時31分JR信越線快速新潟行き。新潟着10時33分。ここで2時間の待ち合わせ。これが長い。12時33分新潟発特急いなほ秋田行き。16時04分秋田着。実に、9時間20分余りでした。

かって大阪―青森間には特急「白鳥」や寝台特急「日本海」が2本。急行「しらゆき」加えて寝台特急「トワエライト・エクスプレス」まであったことを思うと今昔の感ひとしおです。北陸新幹線開業後不便になった最たる例でしょう。
26日総会に出席。私の持ち時間の範囲でお話をさせて頂いた後、お二人の偲ぶ会が開催されました。動の吉村氏と静の馬場氏と対象的な性格でしたが、このお二人によって、協会が発展したのは事実であり、二人をほぼ同時に失ったことは、大きな損失で有ります。
私としても懇意にしていただけに唯唯残念でなりません。

「散る桜、残る、桜も散る桜」

【5月27日】
7時15分秋田新幹線で東京へ。上野東京国立博物館で①「守り抜かれたシルクロードの秘宝黄金のアフガニスタン」と②天正遣欧少年使節伊東マンショの肖像展を見学しました。
①は御存じの通り、1979年ソ連の軍事介入に前後して国内情勢が不安定になり、アフガニスタン国立博物館の収蔵品の数々は略奪や焼失の危機にさらされ、避難を余儀なくされました。
そして、襲撃を危惧した博物館の館員たちが1989年決死の行動に出て、秘宝の数々を秘密裏にある場所へ運び出しました。
その後、ついに1993年ロケット弾の砲弾により、博物館の屋根が吹き飛ぶなど大きな被害を受けました。そして多くは失われたと誰もが考えていたのですが、2004年博物館の館員たちが秘宝を隠していたのは大統領府にある中央銀行の地下金庫の中でした。

文化財の破壊を繰り返していたタリバン政権が崩壊。アフガニスタンの秘宝は10数年間の眠りから再び目を覚まし、このたび、その一部が世界10ヵ国を巡回し日本にもやってきたものでした。
「自らの文化が生き続ける限り、その国は生きながらえる。」
これは、アフガニスタン国立博物館に掲げられている標語だそうです。自国の文化を尊ぶことの重要性を語りかけているようです。
又、平山郁夫画伯が提唱し、日本で「文化財難民」として保護された「アフガニスタン流失文化財」全102件の内15件も出品されていました。そして、これを機に「流失文化財」がアフガニスタン政府に返還されることが決まったそうです。バーミヤンの大石仏がタリバンに破壊された時、全世界に大きな衝撃を与えましたが、出品された数々の作品は実に素晴らしい物ばかりでした。館員たちの勇気ある行動を称えたいと思います。

我が国でも応仁の乱を始めとしての内乱や、第二次大戦での空襲によって貴重な建物や文化財が破壊や焼失しました。又、明治維新の廃仏毀釈によって寺院が荒廃し仏像を始め、数々の文化財が海外に流失しました。今、尚、ボストン美術館を始め世界に日本文化の粋を集めた作品が散逸しています。当時の岡倉天心の努力が思い出されます。

次いで、この度発見された伊東マンショの肖像を見ました。
天正10年「1582」2月九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節団が長崎を出航し、中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、輝かしいルネサンス期のイタリアの地を踏みます。フイレンツェ、ローマ、ブェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、8年後の天正18年「1590」4人そろって帰国しました。これ等のことはすでに知られていたことですが、明治6年「1873」岩倉具視を中心とする岩倉使節団がブェネツィアを訪問した際には、仙台藩主伊達正宗が慶長18年「1613」に派遣した支倉常長の文書とともに天正遣欧使節の文書に出会い、その存在が日本で再び知られることになりました。唯、この肖像画の存在は文献でのみ確認されていたものが、平成26年「2014」発見され今回公開されたものです。

現代で言うならば、まだ小学生の13歳―14歳の年代の少年が帰国後にヨーロッパでの見聞を普及することも含め大きな目的をもって命がけで使命を果たそうとしている姿に心を打たれます。この姿は、1400年程前10代の若者が律令制度や仏教や大陸の文化を日本に持ち帰ろうとした遣隋使や遣唐使。荒海の東シナ海で命を落とした若者。科挙の試験に合格しながら現地で亡くなった優秀な若者たち。数年前、西安で墓誌が発見された井真成もその一人でしょう。又、再三の帰国願いがやっと叶えられたが船が難破し安南「現在のベトナム」に標着しそこで最後を迎えた阿倍仲麻呂等が居ます。ただ、彼らに共通していることは、私利私欲はなく純粋に祖国の繁栄という情熱の塊であったと言うことです。

現在の官僚もこの時の青年の志に想いを馳せるべきでなかろうかと思いました。
博物館見学後、総務省を訪ね佐藤総務審議官としばし懇談しました。やはり熊本地震での各自治体からの人員派遣などの対応に多忙を極められていました。

夜は富山県赤坂会館で佐藤氏を含め友人等と久し振りに懇談の機会を持ち、様々な意見を交わすことができたので大変有意義な時間を過ごせました。彼らは其々の分野で活躍をしていますが、伊東マンショの話もしながらエールを送り、更なる活躍を期待し散会しました。

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<国立博物館にて「黄金のアフガニスタン展」と「伊藤マンショの肖像展」を鑑賞>

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<左)佐藤総務審議官と総務審議官室にて>
<右)佐藤総務審議官、高部元消防庁長官、江畑元県総務部長、出口元県総務部長、平沢赤坂会館支配人と富山県赤坂会館にて>



薬神神社春の例大祭

5月8日は薬神神社恒例の春の例大祭です。1月8日は歳旦祭で1年の商売繁盛の祈願が主であるのに対し、5月8日はこれに加え、物故会員の合祀も兼ねて行うものです。当日午前9時、雲一つない青空のもと、旦尾宮司によって厳粛に執り行われました。
唯、1月はお正月でもあり出席者も多かったですが、今回は少なかったのが、一抹の寂しさを感じざるを得ませんでした。

しかし、明るい話題もありました。5月7日「県民ふるさとの日」記念式典が、富山市の県教育文化会館で行われ、地域への誇りや愛着を育む活動に取り組む5団体に石井県知事より「県民ふるさと大賞」が贈られました。その、5団体の1つに富山県薬業連合会も栄に浴しました。これは県が2013年、置県130年を機に、置県の日である5月9日を「県民ふるさとの日」と制定し2014年から記念式典を行っているものです。
いずれにしても、地域貢献が認められての受賞ですから喜ばしいことです。

又、4月28日県薬業連合会{中井敏郎会長}は『富山のくすり{配置薬業}』に係る関連文化財群の日本遺産への認定に関する要望書を石井知事に提出しました。

県医薬品産業のルーツである配置薬業は日本人が有する「人と人との信頼関係」に基づく「先用後利」の精神で、江戸時代から日本人の日常生活に根付いてきた日本独特の保健医療システムであると位置付け、セルフメデケ―ションを推進し、健康寿命の延伸を図る観点から大きな役割を果たす。とした上で、県内の「富山のくすり」に関する幅広い文化財が一体として日本遺産に認定されるよう要望したものです。

この、日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化や伝統を語るストーリーを認定するものです。業界内では機運が高まってきていますが、県や市町村単位の申請となるため、配置薬のメッカ・富山が申請へ動き出したものです。日本遺産の認定によって、配置薬業の存在を国内外に戦略的に発信することで、配置薬業と地域の活性化が図られることを願うものです。

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富山薬連「県民ふるさと大賞」受賞 富山薬連「富山のくすり」の日本遺産認定への協力を知事に要望



日本海開き

5月2日(月)午後1時から、県立滑川高校海洋科生徒による「日本海開き」が高月海岸で行われました。
これは、1951年(昭和26年)当時の水産高校、その後の海洋高校、そして、滑川高校と統合した今日でも伝統行事として引き継がれてきています。

当日の気温は26度前後、海水温17度とまずまずのお天気の中、1学年40人、3学年120人余りの生徒は、学年ごとに円陣を組み気勢を上げ、澤井友義校長の太鼓の合図で一斉に海に飛び込みました。中には20メートル先の消波ブロック近くのブイまで泳ぐ生徒や波打ち際で水を掛け合ったりする生徒もいました。
又、海から上がった生徒の中には、寒さに震え焚火で暖をとる風景もみられました。

いずれにしても、県内の高校でも海洋科ならではの名物行事であり、これからも末長く引き継がれていってほしいものです。

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桜 満開

見渡せば、春日の野辺にかすみ立ち、咲きにほへるは、桜花かも。(万葉集より)

我が家の裏庭に、樹齢15年程の染井吉野と枝垂れ桜があります。
今年は、やはり平年より早く4月3日満開になりました。しかも、今年はウソの被害もなく花弁の色も鮮やか。ところで桜と言えば古来より山桜を指していたと言いいます。和歌などに歌われる桜は殆ど山桜であり、それが、江戸末期江戸市中への花木の供給地であった「染井」で江戸彼岸桜と大島桜との交配で生まれたのが「染井吉野」。吉野の桜と間違わないように、染井の地名を冠したと言われています。

以前、静岡県三島にある遺伝子研究所を知人の紹介で訪ねたことがあります。ここには、自然交配もあれば人工交配も合わせて約300種の桜が植えられていました。緑の花弁の桜もあれば直径5センチ程の大きな花弁の桜もあるなど、品種の多さには驚いた記憶があります。
縁あってその中から珍しい5品種100本を滑川市総合体育館付近に植樹し、現在大きく育っています。

さて、4月2日は自宅の2本の桜の下で、友人等でバーベキューを囲み小さいながら花見を楽しみました。翌、3日午前9時頃出発し、数え99歳白寿の母と妻と3人でドライブを兼ね4か所の桜の名所を回りました。

最初は常願寺川右岸の常願寺公園の桜。
時間が早かったせいか花見客は殆ど居なかったが道路沿いの老木の桜は見事でした。

次に松川の桜。両岸を埋め尽くす約500本とも言われる「染井吉野」が咲き乱れていました。しかも手の届く高さです。正に桜花爛漫とはこのことでしょう。
加えて、遊覧船にお城があり、やはり絵になります。この頃になると多くの花見客でごったがえしていました。

次は呉羽山の桜。本数は少ないが山頂から見る富山市内と遥かに仰ぐ立山連峰の雄姿。
富山市名誉市民であり文化勲章受章者、山田孝雄氏は「国巡り、山々見れば、故郷の越の立山、類稀なり」と詠みました。剣岳の雄々しさは滑川から眺めるのが1番と思うが、立山連峰全体を見るのなら呉羽山山頂でしょう。
また、この立山の山々は富山県民に無言の勇気、元気を与えてくれていると思います。そして、富山平野を横切る北陸新幹線を見た時、富山に新しい時代の幕開けを予感させました。

最後に県立水墨美術館中庭にある枝垂れ桜。広大な芝生庭園に1本だけある枝垂れ桜。これも見事の一語に尽きます。そしてバックに神通川堤防上の染井吉野と立山連峰。素晴らしかったです。

4か所其々趣の異なる桜を見物してきましたが、いずれの染井吉野も樹齢を考えると、今後の対策も必要でしょう。正午には帰宅したが、わずか3時間の駆け足での、お花見であったが県内にはこれ以外にも、数多くの桜の名所あります。しかも我々の近くにあります。改めて富山県はいいところだと思いました。
桜が咲き、菜の花が咲き、こぶしやモクレンやチューリップが咲き乱れる。

百花繚乱。正に、野が山が海が躍動の季節です。

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<我が家の枝重ね桜と染井吉野(左)、常願寺公園道路沿いの桜(右)>

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<松川の桜と遊覧船(左)、呉羽山山頂より富山市街と北陸新幹線(右)>

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<水墨画美術館中庭の枝重れ桜>