なかや一博 ブログ

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続 別れ~祝賀

先般、親しい知人、友人との別れがありました。しかし、3月に入り再び別れが訪れるとは・・・・やはり世の無常を感ぜずにはいられません。

一人は去る3月7日、急性心不全で不帰の人となられた八倉巻忠夫氏。
氏は昭和36年11月、若干26歳の若さで滑川市議会議員に初当選。3期勤める傍ら、副議長等を歴任後、昭和50年4月40歳で富山県議会議員に初当選。以後、5期連続当選その間副議長を始めとして要職を歴任され、平成3年第100代富山県議会議長に就任されました。

第1回「エキスポジャパンとやま」を成功裏に導く中、地域住民の福祉の向上と地方自治の進展に尽力された功により、平成17年春の叙勲に於いて旭日小綬章の栄に浴されました。
又、氏は昭和49年6月(社)滑川青年会議所の設立に奔走され、初代理事長に就任され活躍されました。青年団や各種団体の活動歴を上げれば枚挙にいとまがありません。
その氏が去る2月27日、前田新作氏の叙勲祝賀会の発起人の一人に名を連ね、当日も元気で出席され、私とも多少の会話を交わし、別れ際に、また、お会いしましょうと。
これが最後の言葉になろうとは・・・・ただただ残念でなりません。

氏と初めて関わったのは、昭和50年4月の県議選初当選からです。以来、40年余の長きに亘り、政治の先輩として色々ご指導を頂きました。
又、元滑川高校同窓会長として、3年前の滑川高校創立100周年記念事業等にも大所高所から、アドバイスを頂きました。
数年前、ご夫妻が金婚式を迎えられた時、駄作でしたが次の一首を贈りました。
「幾山河 夫婦で歩みし五十年、更なる高嶺 米寿目指して」
せめて、米寿 八十八歳まで元気でいてほしい そんな思いで詠んだのですが・・・・

次いで八倉巻氏の死の翌日、3月8日富山県議会議員、前議長高平公嗣氏(69歳6期)の死が報ぜられ県政界に衝撃が走りました。心筋梗塞、まったくの突然死です。
氏の父、公友氏は県議、そして、参議院議員として活躍され、特にミスター新幹線と異名をとるほど、北陸新幹線建設に尽力されたお一人でした。

又、氏は滑川高校の前身である、戦前の滑川商業学校卒であり、知人、友人、同級生が滑川市に多数おられたことから、度々滑川で国政報告会など開催され、私もご指導を頂いたものです。又、氏が旧科学技術庁政務次官に就任された時も次官室を訪問した思い出もあります。それ故滑川高校が母校であり本校の発展に格段のご尽力を頂きました。

その子息公嗣氏もその縁で3年前の創立100周年記念事業にも御理解、ご支援を賜りました。年齢は私と一歳違いであり、地方自治に携わる者同士として、肝胆相照らす関係で有りました。69歳余りにも早すぎる別れで有ります。

お二方の葬儀は共に盛大なものでした。しかし、いかに盛大で有っても、やはり、もう少し長生きしていただきたかったです。思い出は尽きませんが、ここに、在りし日のお姿を偲び謹んで哀悼の誠をささげるものです。

さて、哀しい別れもありましたが、嬉しい話題もありました。
2月27日、元、滑川市議会議長前田新作氏(6期)と3月12日、元、富山県議会議長坂田光文氏(6期)の旭日小綬章受章祝賀会が、滑川市民交流プラザと富山グランテラスホテルで、それぞれ盛大に開催されました。

前田氏は24年間市議会議員として、又、坂田氏も6期24年間県議会議員として住民福祉の向上と地方自治の進展に尽力されたその功をもって、昨年秋の叙勲で受賞されたわけです。
前田氏は24年間の中で一番の思い出は市町村合併問題で、「あの時、富山と合併、いや、魚津との合併、そして、滑川単独と意見が分かれたけれど、自分は単独を支持した。
だから今日の滑川市があるし、発展する滑川市を誇りを持って語ることが出来るのである。もし合併していたら今の滑川は無い。そう思うと自分の判断は正しかった。」と謝辞の中で彼は胸を張ってそう発言された時、私は大きくうなずきました。

また、坂田氏は県職員として32年間、引き続き県議24年間、計54年の長きに亘り、正に地方自治一筋に歩まれた人生であり、感無量なものがあったと思います。改めて、心よりお祝い申し上げ今後一層のご活躍をお祈りしたいと思います。

次に3月8日市内某企業の創立60周年記念式典、及び感謝の集いが清水寺森清範貫主をお招きして開催されました。講演はいつお聞きしても素晴らしいものでした。
感謝の集いでは、宝生流能楽師金井雄資様による舞囃子[田村]が社長さんも加わり披露されました。田村とは坂上田村麻呂公のことです。

清水寺縁起によれば

清水寺は778年「宝亀9年」延鎮により開基。780年「宝亀11年」坂上田村麻呂公、音羽の滝の清水に導かれて錬行中の延鎮上人に出会い帰依。妻室と共に深く観音を信仰し借仏殿を寄進、本尊十一面千手観音像を安置する。
798年「延暦17年」田村麻呂公夫妻、延鎮上人と同心合力して仏殿を建立し、本尊脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天像を安置する。「清水寺」の額を掲げ創建する。

このように記してあるように、田村麻呂公と清水寺は切っても切れない縁があります。
これを理解したうえでの気配りの舞には森貫主さんもいたく感激され、何度も感謝の言葉を口に出されていました。集いは和気あいあいの内に終えました。
尚、6月5日第21回市民文化講演会が西コミで森貫主を講師に迎え開催されます。再会を楽しみにしてお別れしました。

このように、哀しみとお祝い事が短期間に両極端な出来事として訪れると、心の切り替えが大変でした。
しかし、人生とは所詮こんなもの。
以前、作家曽野綾子氏の言葉に「一生に1度や2度は、思いがけない災害や不運に見舞われるもの、と覚悟しているべきと思う。それが人生だ。一生、親も早く亡くさず、大病もせず、いわゆる挫折全般を体験せず、順調に生きられるなどということはほとんどあり得ない。人生には必ず「予想外のこと」はついて回る、覚悟した方がいい。」

そんな言葉を思い出している昨今である。

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<叙勲者 坂田弘文氏 ホテルグランテラス富山にて>

 



別れ

1月31日、2月10日続けて親しい人との別れがありました。
「生者必滅」「会者定離」親子と言えども、愛する人と言えども必ず別れが来ます。即ち死です。これは頭では理解できてもなかなか現実としては理解出来ない、ましてや突然の別れは尚更です。

1月31日、秋田県医薬品配置協会名誉会長吉村登喜男氏との別れもそうです。
氏は、昨年3月30日が結婚50年、金婚式を迎え、9月25日77歳、喜寿を寿ぎ11月3日 旭日双光章の叙勲の栄に浴し 皇居に御夫婦で参内、12月に入り祝賀会の準備に奔走され、平成28年1月21日秋田市内のホテルでの開催案内を頂き出席の返事を出し、12月半ば本人と電話でお話した際、祝賀会での再会を約束し電話を切りました。結果的にこれが最後になりました。
その数日後、急病で入院の為、祝賀会中止の案内を受けました。
そして、12月25日不帰の人となられました。その後密葬のあと1月31日協会等との合同葬でのお別れの会となりました。

氏は昭和29年滋賀県より秋田県に配置員として従事されました。昭和38年独立。昭和52年営業形態を法人化。現在配置員を多数雇用し、数社の企業の経営に携わる中、秋田滋賀県人会会長を務めるなど、地域社会の発展にも寄与するなど正に立志伝中の人でした。
私は40年余りのお付き合いであり、数多くの思い出があったことに加え、遺族から本人の強い要望で弔辞を要請され富山から参列させていただきました。

弔辞は私を含め3人でしたが、なんと、現職の秋田県知事佐竹敬久氏がその一人でした。実に心のこもった弔辞でした。しかも、驚くことに七日の法要に続き直会まで出席され、私の隣で吉村さんの思い出を語っておられたのが印象的でした。私も色々な葬儀に出席してきましたが、現職の知事がここまで出席されたのはやはり吉村氏の地元での高い評価と人徳の賜物と思います。

2月10日
私の菩提寺は、曹洞宗金屋山海恵寺(滑川市追分)です。当寺の流れは永平寺~総持寺~眼目山立山寺(上市町広野)~海恵寺です。いわゆる立山寺からの分家となります。そんなことから両寺の住職を兼務することがよくあります。この度の住職もそうであり、金屋山海恵寺第22世、眼目山立山寺第41世住職法海光道大和尚「真田光道方丈」もそうでした。

方丈さんより書状を頂いたのが2月4日。
内容要旨は、四大不調により職を辞す。33年間の各位からのご支援に感謝の念を表し、方丈が推薦した人が、1月26日総代会及び執行役員会で満場一致で了承を得たこと。そして、新住職への支援を願う文と共に、新住職の挨拶文が同封されていました。私も驚いたが、その書状が関係各位に届いたのを見届けるかのように、翌、5日夕方遷化されました。それを知ったのは、6日早朝7時2分新住職松井知良様からの電話でした。

個人として親しくお付き合いをさせて頂いていただけに誠に痛恨の極みでありました。
真田方丈様の功績を上げれば枚挙にいとまがありませんが、例えば、海恵寺では庫裡2階建立を始めとして、参禅道場開設。参道石畳改修。海恵寺総受戒運動の一環として、大本山総持寺より梅田禅師様をお迎えし、北信越管区報恩受戒会修行を開催。本堂屋根堂版葺き替え事業。
先先代政光大和尚の50回忌。昨年10月20日先代智光大和尚の33回忌。加えて、多忙の中、総持寺祖院を始めとし、各寺院の焼香師などを努められておられました。

そんな中、乞われて平成8年~12年まで大本山総持寺ヘ出向され副監院の要職などを歴任されました。私も、一度総持寺にお出で下さいとの言葉に甘え、訪ねた折1時間30分に亘り案内して頂いた上、帰り鶴見駅前の中華料理店で御馳走になったことも、今となれば懐かしい思い出の一つとなりました。

また、眼目山立山寺では、16年間在職中、平成17年開山600年並びに本堂屋根銅版葺き替え事業成就の法要を総持寺より大道禅師様をお迎えして営まれました。
この時期、北京五輪と重なり、鉄や銅などの資材が高騰し当初の予算が大幅に狂ったと言って東奔西走されていた姿が目に浮かびます。
また、先代智光和尚からの課題であった立山寺誌も平成25年立派に発刊されました。
それらに寺門の護持はもとより先代並びに先先代ご住職の遺鉢を継ぎ布教伝達に尽力されたその功をもって平成25年秋、本山より大教師の称号が授与されました。この称号をもっておられる方は、富山県内では僅か3名であります。

その、真田光道方丈様の荼毘式が自坊で2月10日執り行われました。総代会、新住職等の要請により友人として弔辞を捧げました。
「暦上はすでに立春を過ぎたとは言え、今朝も寒さ一段と厳しく、大地も白銀の世界と化し、未だ春を称うるに非ず。然れども三寒四温・・・」から始まる弔辞の全文を掲載する訳にはいきませんが、兎に角、立山寺へ度々行ったこと。年数回我が家で歓談の機会を持ち多くを学ばさせて頂いたこと。そして、最後になったのは、昨年10月先代智光大和尚の33回忌を終えられた労をねぎらうことで我が家で10月25日午後5時から10時まで歓談したのが別れとなりました。

その時を含め、先代は弟子には厳しい人だったことを時々話されていましたが、33回忌の記念品に先代が昭和52年県教委主催の立山セミナーで「自然と人間と仏教」と題し講演されたのを、昭和52年12月県教委より小冊子として発行され、それを、昨年再発行し記念品とされました。いかに厳しい師匠であっても師に寄せる思いの表れと私が話したところ、にこにこ笑っておられたお顔が忘れられません。

また、方丈さんは良寛和尚が好きだと時々お話になっていました。良寛和尚はモノやコトに執着しても存在するものすべて、移ろいゆくと云う真理を悟った方だったと言われています。その良寛和尚の歌に、「形見とて、何を残さん春は花、夏ホトトギス、秋はもみじ葉」ただ、この歌には冬がありません。
良寛和尚は天保2年(1831年)2月18日73歳で没。

私の勝手な解釈だが、形見は残さないけど、春の花を見た時、夏のホトトギスの啼き声を聞いた時、そして秋のもみじ葉を見た時同様、冬2月私を思い出してくれたら、それが
私の形見だよ。そうおっしゃつておられるような気がします。それと同じく方丈さんの形見もそうなんだと思います。

両者の遷化も2月、年齢も1歳違い。人柄も性格もよく似ておられたと思います。
正に、数々の思い出が脳裏を去来しますが、此は是、存者の還らぬ繰り言と言うの外はなく世の無常を嘆かざるを得ません。尚、方丈さんが、病床でお書きになった漢詩が荼毘式で本堂の柱に掛け軸にして掲げてありました。

七転八倒 七十ニ年 胡乱人生 如愚如魯
 弔歌  齢一歳{とし}一つ、七十ニ基積み重ね、散るや、法海光道大和尚

最後に、僅かな間に二人の方に弔辞を捧げました。別れは、何故悲しいか、何故寂しいか。それは、新たな思い出を作ることも、新たな教えを請うことも出来なくなるからだと私は思います。
改めて{死}とは・・・、 残された人生は・・・・考える良い機会になりました。

散る桜 残る桜も、散る桜

お二方に、いずれ、私もそちらに行った折、盃の友情を交わし再び語り合いたいと思っています。



薬神神社歳旦祭

今年も、1月8日平成28年薬神神社歳旦祭が旦尾宮司のもと、厳粛に執り行われました。
この日は、薬業関係者が多数集まりましたが雨の為、加積雪嶋神社社務所より薬神神社に向って商売繁盛を祈願しました。
年々参加者が少なくなってきており一抹の寂しさを感じますが、昨今、セルフメディケーション、つまり「自らの健康は自らが守ること」の重要性が叫ばれる中、配置薬の果たす役割りも見直されてきていることも話題となりました。

幕末の志士、高杉晋作の辞世の歌と言われる
「おもしろき、事も無き世をおもしろく、棲みなすものは、心なりけり」

どんな環境にあっても、最後は自分自身の心の持ち方である。この言葉で散会しました。

ここで、薬神神社の由来沿革を記しておきます。
(滑川市神社誌、昭和63年10月15日発行より抜粋)
 鎮座地 滑川市加島町2050 加積雪嶋神社境内地内
 祭神  大己貴命 少彦名命 神農 合祀

本社は明治13年6月創建静岩社「明治12年11月滑川町売薬業者の勤請」は櫟原神社の末社として社殿の建立経緯は不詳で暫く旦尾神主低内に鎮座され、明治40年10月保寿堂「株」庭内に社殿建立し祭神の鎮座は上申したが、許可がなかったので御影の鎮座を仰ぎ薬師社として奉斎崇敬していました。
昭和30年10月全市の売薬業者及び市内製薬会社の奉賛金募により昭和32年加積雪嶋神社境内地に社殿建立し、祭神、大己貴命 少彦名命 神農を合祀し薬神神社として業界信徒奉斎しているも、叙述の因縁あり一社創建でなく静岩社の再興社殿です。

明治31年5月発行の櫟原神社之景に、金毘羅社の東側に「静岩社」の絵図あり。
社標「薬神神社」の揮ごうは文化勲章受章者、富山市名誉市民、山田孝雄氏。

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古稀

平成27年、2015年はすでに地平線下に沈み、ここに、平成28年、2016年の幕が上がりました。
いつも、この時期になると思うことですが、過ぎし一年間を振り返り、新しい年に想いを馳せるのは私一人ではないと思います。しかし、そんなことを考える動物は人間だけです。オランウータンやチンパンジー或いはゴリラでもそんなことは考えもしないでしょう。

何故か?それは、人類が悠久の時の流れに節をつけたからだと思います。
大晦日に飲む水道水も元旦に飲む水道水も、味は変わらない筈です。しかし、元旦に飲む水はどこか清々しいし、美味しいような気がします。
それは、時の流れに節を付けたからです。60秒で1分、60分で1時間、24時間で1日、30日或いは31日で1ヵ月、12ヵ月で1年、これらに加え、年中行事、二十四節季、雑節等、正に時の流れに1つの区切りをつけました。これによって人類は心を新たにすることも、生活にリズムを持つことも、農作業のメドを立てることや、何よりも人生そのものにメリハリを付けることができるのです。

故に、人類は万物の霊長と言われる所以でしょう。確かに、人類は核兵器を開発したり、月へ人間を送り込むなど、文明の発展に多大な貢献をしてきました。しかし、それは産業革命以後、約200年位の間でのことです。
しかし、人類はそれより遥かに以前に悠久の時の流れに節を付けました。
そして、文字や暦や時刻を考え作りだしました。改めて人類の凄さを感じます。しかしその万物の霊長たる人類の最も愚かな行為はやはり戦争です。今年も世界各地でテロや局地的紛争が起きるでしょう。一日も早い世界平和の訪れる日を望むものです。

さて、私は今年数え70歳。いわゆる【古稀】を迎えました。これを記念して地元の加積雪嶋神社へ、氏子有志10名で絵馬を奉納しました。
次は77歳いわゆる喜寿。健康に留意し再会を約束し散会しました。

さて、「人生七十古来稀」 唐の詩人、杜甫(712年-770年)の漢詩「曲江」に由来しています。同時代に李白(701年―762年)又、746年(天平18年)越中の国守に赴任した大伴家持が居ます。

「曲江」(杜甫)
 朝回日日典春衣 朝(ちょう)より回りて日日春衣(しゅんい)を典し
 毎日江頭尽酔帰 毎日江頭(こうとう)に酔いを尽くして帰る
 酒債尋常行処有 酒債尋常、行く処に有り
 人生七十古来稀 人生七十古来稀なり
 
 以下中略

私の好きな漢詩の一つです。この時代の平均寿命は何歳だった?わかりませんが70歳と言えばやはり稀だったのだと思います。

「元旦や 必ずくるぞ 大晦日」そんな句を思いながら気を引き締めて1年を送りたいと思っています。

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<奉納した有志一同>

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<奉納した絵馬>