なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2017年

秋田から東京へ(坂本竜馬展~茶の湯展)

5月25日{木}秋田発9時12分こまち14号上野着12時58分。ここで東京国立博物館平成館で開催されている『茶の湯』展を見学しました。

実は、お茶に関して私は全くの素人ですが、昨年テレビの鑑定番組で注目を集めた「曜変天目茶碗」の国宝が展示されていることから興味をもったものです。この曜変天目茶椀は茶碗の中に宇宙が広がるような神秘的な姿が古くより人々を魅了してきました。そして、この茶碗が完全な形で現存するのは、世界に3点とされ、いずれも日本に伝わっており国宝に指定されています。

この内、今回の特別展に「曜変天目」稲葉天目、中国、建窯,南宋時代12-13世紀(東京・静嘉堂文庫美術館所蔵)と、油滴天目・中国・建窯・南宋時代・12-13世紀(大阪市立東洋陶磁美術館所蔵)の国宝2点を始め、重要文化財や重要美術品に指定された天目茶碗など数多く出品されていました。
特に、今回は室町時代の足利将軍家のコレクション「東山御物」に始まり村田珠光によって生まれ、千利休が大成させたと言われる「わび茶」の美術。江戸時代、古典の復興に大きな役割を果たした茶人の小堀遠州や松江藩主、松平不昧にまつわる道具など、それぞれの時代を象徴する名品がずらりと展示されていました。
また、明治初期・廃仏毀釈の嵐の中、京都、清水寺から流失した「清水寺縁起・巻上」絵・土佐光信筆・室町時代・{1517}重要文化財指定・東京国立博物館所蔵}も展示してあり本物の迫力に圧倒されました。
いずれも、素人の私ではありましたが、見応えのある「茶の湯」特別展でした。

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ついで、江戸東京博物館で開催中の竜馬没後150年特別展を見学しました。
いまさら坂本竜馬に関して説明する必要もないが、今回の目玉は竜馬暗殺の部屋の床の間に掛けられていた重要文化財・血染めの掛け軸・梅椿図・国立京都博物館所蔵や竜馬が暗殺された際に携えていた愛刀「吉行」などが展示してあり、暗殺当時の生々しい状況を想像させられました。

また、竜馬の自由奔走な生きざまや、家族への愛情溢れる直筆の手紙など、時の立つのを忘れ見学しました。昨年、東大阪の司馬遼太郎記念館見学と併せ、竜馬など多くの志士達が活躍した激動の幕末と言う時代にしばし想いをはせました。

竜馬展  CIMG3655



秋田県医薬品配置協会総会

5月24日{水}午前10時第7回{一社}秋田県医薬品配置協会総会出席の為23日{火}滑川を出発しました。
それにしても、富山から秋田や青森方面へは実に不便になりました。

北陸新幹線開業前は大阪―青森、函館間の寝台特急「日本海」が2本、或いは、大阪―青森間の特急「白鳥」がありました。午前10時からの会合では寝台特急を利用すれば、富山発午後10時半頃、秋田着午前5時過ぎ。秋田から富山へはこの逆で多少強行日程だが宿泊しなくてもよかったのです。しかし、今では富山発午前6時19分かがやき、大宮で秋田新幹線に乗り換えても秋田着12時30分です。それ故、結果的に秋田で2泊することになりました。

23日は滑川発午前6時38分{あいの風鉄道}泊着7時12分、泊発7時15分えちごトキめき鉄道}直江津着8時24分、ここからがJRです。直江津発9時20分新潟着く11時27分、新潟発12時33分特急いなほ秋田着16時04分。
実に10時間余りの長旅です。到着後、知人と駅前で秋田の地酒でしばし歓談。

24日午前10時総会開会。
私は来賓として挨拶。午後、業界の現況と題し1時間ほど話をし、質疑応答を交わしました。

配置薬



日本海開き

滑川高校海洋科恒例の日本海開きが5月1日午後1時より滑川市高月海岸で行われました。これは、かっての水産高校時代の1951年から始まり、それが海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれてきている伝統行事の一つで、1~3年生120名の生徒が参加しました。

当日の天候は、どんよりとした曇り空で、水温は例年より3度ほど低い12,5度と少し寒そうな感じでしたが、まずは、海岸で学年ごとに円陣を組み気合を入れて、ピストルや太鼓などの合図で一斉に飛び込み、25m先の消波ブロックまで泳いだり、水を掛け合ったりしていました。

これは、冷たい海の中に入って泳ぎ、チャレンジ精神を鍛えることを目的の一つとしています。私も、2年生のスタートのピストルに合わせ、太鼓を打ち鳴らし、生徒を鼓舞しました。
青春、やっぱりいいですね。

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お花見

咲きみちて、こぼるる花も、なかりけり。 虚子

3月は別れの季節。4月は出会いの季節。取り分け、百花繚乱、、草花との出会いが良い。特に、桜です。
8日{土}我が家の裏庭に樹齢20年程の染井吉野と枝垂れ桜が各1本あります。その中で、染井吉野がほぼ満開になり、友人10数名と共に花見と称し小宴会を催しました。

古事記に出てくる、女神、木花之佐久夜毘売{このはなのさくやひめ}の木花{このはな}は桜を指していると言われています。古来から愛された花で有り、古今集でも紀友則の歌に「久方の光のどけき春の日に、しづ心なく花の散るらむ。」を始め、多くの名歌が生まれています。

しかし、万葉集4516首の内、梅は119首{当時は白梅で,紅梅は平安以降}桜は37首{山桜}と意外に少ないです。多分、梅は屋敷内に植えられているのに対し、桜は山桜が主であったから、歌に詠まれる機会も少なかったのではないかと思います。

[うらうらと、のどけき春の心より、にほい出でたる、山桜花]賀茂真淵
「敷島の,大和心を人とわば、朝日ににほう、山桜花」  本居宣長
など、江戸時代までは、やはり山桜に関する歌が多いように思います。また、染井吉野は「オオシマサクラ」と「エドヒガンサクラ」との交配で、幕末、江戸染井の地で誕生したいずれにしても、桜の花びらが、散リ惜しみせず散ることから武士の象徴となり、日本人の生き方、死に方と深くかかわってきたのでしょう。

忠臣蔵の浅野内匠頭の辞世の歌は、「風さそふ、花よりもなほ、我はまた、春の名残をいかにとやせん」であり、三島由紀夫の辞世は「散るといふ、世にも人にもさきがけて、散るこそ花と、吹く小夜嵐」とあります。

しかし、花見となればこんな理屈ぽいことを語るより、やはり花より団子です。
友人との花見は、「さまざまなこと、思いだす、桜かな」芭焦 この句のように様々なことを話題として楽しいひと時を過ごしました。

翌9日は、町内会の花見もありました。午前中は町内の川掃除。正午より反省会を兼ねて西地区公民館で花見でした。丁度向いが田中小学校であり、その前庭に満開の桜が数本。まさに桜花爛漫、窓越の観桜会でした。

私は昭和40年代に青森県弘前城の桜祭りに何度も行きました。その頃は4月末―5月初旬のいわゆるゴールデンウイークの時期でした。しかし、今年を含め最近は1週間以上早くなっているといいます。やはり、地球温暖化の影響でしょうか。
さて、翌10日。滑川高校の入学式でした。卒業式には涙を流している生徒もいたが、さすが入学式にはそんな姿はなく、240名の新入生は新たな出会いに夢と希望に満ち溢れていました。いずれにしても充実した3日間でした。

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<染井吉野と枝垂れ桜>



滑川高校薬業科特別講演

3月13日{月}午前9時50分~10時40分まで薬業科生徒1年生と2年生生徒を対象に「富山のくすり」と題し講演しました。
これは1月25日北部高校に次いでのものです。私自身滑川高校出身であり、同窓会長も務めている者として、つい力がはいりました。本題に入る前に、WBC,侍ジャパン、ワールドベースボール、クラシックで活躍中のロッテ球団石川歩投手の話をした時、生徒諸君の瞳が輝いていました。彼は、本校出身者であり様々な分野で同窓生が活躍している報に接すると誰もが嬉しく思うし、誇りにも思います。それが、母校の存在であると思います。

さて、本題に入り「富山のくすり」取り分け家庭約配置販売業を中心に話しました。
元禄3年{1690}江戸城大広間{帝鑑の間}に控えていた、第2代富山藩主前田正甫公は居合わせた三春藩主秋田河内守輝季公の突然の腹痛に出くわし、懐中の薬聾から丸薬[反魂丹]を取り出し服ませたところたちどころに平癒し、それを目の当たりにした諸国大名が、その妙薬の霊験あらたかなる効用に目をみはり、各藩の領内で置き薬が始まったと言う「江戸城腹痛事件」の一説から話し、その商法が、用を先に、利を後にするという「先用後利」つまり、預けた薬のうち、使用した分の代金だけを後から請求する画期的な商法を説明しました。

当時、医療が普及していない時代にあって、いつ、どんな病気にかかり、どんな薬を使用することになるかわからない状況の中で、数種類もの薬を購入、備蓄することは、当時の多くの民衆に経済的に不可能な話。
そうした中で、先用後利の売薬商法は地域の人々にすれば理想的なものとなり、同時に売薬行商人にとっても継続的な取引と信頼関係の醸成に結びつくことになったこと。
又、文化13年{1816}半官半民で「反魂丹役所」が設置され官民一体となって売薬行商人の教育の徹底と薬の品質確保向上に取り組み今日に至る伝統の礎を築いたこと。

明和3年{1766}富山西3番町に開かれた「小西塾」は当時の日本3大寺小屋と言われるほどの大規模なものとされ、富山売薬が飛躍的に進展した文化年間{1804-17}には急速に寺小屋の数が増加したとされました。当時の寺小屋の学習内容を北陸三県で比較した場合、読み、書き、については大きな差異はないものの、算については、富山9割弱に対し、石川、福井が5割前後といった記録があると言われています。
特に算では、算術や珠算をはじめ、高度な和算として知られる関流算法が取り入れられるなどしたことは、商売上必要にせまられてのことと思われます。文献によれば文久年間(1861-63)には富山藩だけで売薬行商人数が2200人を数え、年間売上高は20万両に上がり,藩財政の一翼を担っていました。

しかし、明治に入って、売薬業はそれまでの東洋医学から西洋医学への転換を求められた。特に、営業税は3倍余りの増税となり、明治16年{1883}には、「売薬印紙税」として薬に10%もの消費税が付加された・デフレのなかの重税でした。このような苦境の、中で売薬行商人たちは次々に新しい事業を興していきました。
明治9年,洋薬を取り入れた製剤会社広貫堂設立。{各地域でもそれぞれ設立。}11年、仲間たちへの融資と財産を保持する為、「富山第百ニ十三国立銀行{現北陸銀行}を設立{各地でもそれぞれ設立。さらに26年には商人たちの献金で「共立富山薬学校」が開設されました。

また、30年には「富山電灯会社{現北陸電力}}を設立し、32年には大久保発電所を建設して北陸初の自力発電を図ります。小口融資を求める仲間たちの為に、35年「富山売薬信用組合{富山信用金庫}」も生まれました。{各地で相次ぎ設立}このほか、売薬業にかかわる業種{鉄道、保険、出版、新聞、印刷、容器製造など}の会社設立にも力を注ぎました。
正に、今日、富山県経済の中心的役割を担っている北陸銀行や、各地における信用金庫、北陸電力など、富山県近代化への基盤を築いたのは売薬商人たちであり、それが今日もなお脈々と生き続いている流れの中に滑川高校や北部高校に薬業科があることを話しました、
そして、平成27年{2017}の医薬品生産額が暫定値であるが、富山県が7356億円と全国1位となり2位の埼玉県の6417億円に1千億円以上の差をつけ、初めて日本一になる可能性がでてきたことも話しました。

最後に、今日これほど医学が発達し、医療機関が整備され、薬局、ドラックストアーなどが普及していても、何故、配置販売業が存在するのか?
それは、「先用後利」の商法はもとより、消費者との信頼関係、それぞれの家庭のヘルス・コンサルタントとして、薬に対しての情報の提供や健康相談な、自己治療すなわちセルフ・メデケーションの役割を果たし、社会が必要とする職種であること。
それ故、300年もの長きにわたり国民生活の中に定着していることを力説し、一人でも配置販売業に従事される事を求め話を終えました。

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<滑川高校薬業科特別講演にて>