なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2018年

江幡春濤書展と祝賀会

江幡春濤書展―紅はわが心―祝賀会が10月6日午後6時30分より、ANAクラウンプラザホテル富山で、県外からの多数の来賓を含め200人を越える出席者のもと盛会裏に開催されました。
これは5日から7日まで県民会館美術館で開催された江幡さんの個展を祝い開催されたものです。江幡さんは、県書壇をけん引してきた魚津市の女流書家で、初期の作品から新作まで65点を揃え、半世紀以上にわたる軌跡を伝えていました。

江幡さんは小学4年生の頃から、文化功労者の故・大平山濤先生{朝日町出身}に漢字や、かな交じりの近代詩文を学ばれました。
私も会場に足を運んで、ご本人から直接お話をお聞きしましたが、特に驚くのは、書が好きで何としても大平先生に習いたいとの強い思いから、小学生でありながら自宅から自転車で15分程かかる魚津高校へ当時同校に奉職の大平先生を訪ねて通ったとそうです。
これが縁で小学6年生の時、大平先生の師である文化勲章受賞者の金子鷗亭先生との出会いがあり小学6年生の時、鷗亭先生との合作「清美」も展示してありました。

合作という作品は初めて見ましたが、それが鷗亭先生とは凄いことです。そんな努力が実を結び、中学3年の時、全国学生書道展で最高賞の文部大臣奨励賞に選ばれました。その作品「飛雪乱舞」も展示されていました。
その後、日展会友や毎日書道展審査会員、創玄書道会参与を務め後進の育成にも尽力されています。今年80歳を迎えられたことから、今回、大規模な個展を開かれました。会場の作品は、俳句や現代詩を題材にした近代詩文書を中心に展示、歌人で作家の、故、辺見じゅんさんや魚津高校書道部の先輩、中尾哲雄氏が魚津高校創校100年記念の折詠んだ「百歳の、ヒマラヤ杉に、夏の風」など富山の情景を、時に柔らかく、時に力強い筆遣いで表現されていました。

私も、幼稚園の2年間と小学1-2年生の4年間滑川で大平先生に習った1人ですが、その後、続かづ今日に至っていることは不徳の致すところであり残念なことです。
 
尚、 紅はわが心 は魚津高校校歌三題目の歌詞だそうです。

写真は、金子鷗亭先生と江幡さん、小学6年生の時、合作「清美」

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花鳥風月・勝興寺展

新米の、其の一粒の、光かな  虚子

県立水墨美術館で開催中の、花鳥風月・こころに響く美の世界{光ミユージアムの名品より}と、高岡市美術館での勝興寺展を鑑賞しました。
パンフレットによれば「光ミュージアムは岐阜県高山市にあり、平成11年4月に開設された中部地方最大級の博物館・美術館の複合施設です。
太古の化石資料から古代文明にまつわる遺物、古画、浮世絵、日本画、書、洋画、工芸、現代美術など、収蔵内容は多岐にわたり、なかでも近代日本画、浮世絵、書、を軸とする美術コレクションは、質、量ともに国内有数のコレクションですが、これまでまとまった形で紹介される機会はありませんでした。

本展では、「花鳥風月」の主題のもと、光ミユージアムが所蔵する近世から現代までの日本画の名作を中心に、書や陶芸を加えて代表作の数々を紹介します。そこには、四季折々の美しい風景や風物とともに生き、「花鳥風月」という言葉に託して謡いあげてきた、日本人の美意識を見ることができるでしょう。」と記してありました。
事実、その通りで私のような素人でも知っている人々の作品ばかりでした。例えば、村上華岳、速水御舟、前田青邨、横山大観、川端龍子、郷倉千靭、児玉希望、東山魁夷、歌川広重、上村松園、鏑木清方、伊東深水、竹内栖鳳、葛飾北斎、谷文晁、小杉放庵、橋本雅邦、菱田春草、下村観山、川合玉堂、加山又造などの作品が約50点が一堂に展示してあるのだから圧巻でした。

次に、勝興寺展ですが、かって、越中の国府が置かれていた高岡市伏木古国府にある浄土真宗本願寺派の勝興寺は、本堂をはじめとする建物12棟が重要文化財にに指定されています。
本堂から本坊へと続いた約20年にわたる「平成の大修理」も完了間近となり、いよいよ、本坊を一般公開する運びとなり、これを記念して、この度の修理によって見えてきた勝興寺の魅力と同寺に伝わる絵画と工芸の美が今回、市美術館で紹介されたものです。
以前、同寺で拝観しましたが、勝興寺本、洛中洛外図屛風を含め貴重な品々や、勝興寺と加賀藩との関係などを再認識する良き機会でした。

芸術の秋、スポーツの秋、食欲の秋、と言われますが、新しい富山県美術館もオープンし、芸術に触れる機会が随分と増えました。また、スポーツにしても2月の冬季オリンピックから今日まで途切れることなく開催される各種のスポーツ大会、また、食欲の秋、にしても本来、実りの秋、それ故に、食欲の秋と表現されたと思います。
しかし、今や、四季関係なく色とりどりの果物が食卓に溢れ食欲をそそる時代である。秋を表す三つ形容詞も死語となりつつあるように思うと一抹の淋しさを禁じ得ない。

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関東滑川高校同窓会

9月1日{土}関東滑川高校同窓会{小幡哲夫会長}総会及び交流懇親会が羽田空港第一ビル6階ギャラクシーホールで80人余りの多数の参加のもと盛大に開催されました。
これは、滑川高校同窓会の支部として2年に一度開催されています。それにしても、会場が前回は、東京湾クルーズで、前々回はスカイツリーが一望できるホテル両国第一インなど役員の方々の企画力には驚きます。

今回は、ミニ記念講演として「故郷への思い」―桜の名所から地域の活性化を―と題し元、静岡県三島市国立遺伝子研究所教授富川宗博氏{第12回卒業、市内、吾妻町出身}が約20分ほど滑川の桜について話がありました。
氏の講演中や資料の中で度々私の名前が出てきたので、私は、挨拶の中で多少経緯について述べました。私が現職だった平成18年{2006}富川氏から氏の友人を通して一度、研究所の桜を見に来ないか?とお誘いを頂きました。そこで、上京の折訪ねました。驚いたことは①研究所の敷地の広大さ。②桜の品種が300ほどあること。③敷地内に260種以上の桜が植栽されていること。④その、壮観さに圧倒されたことなどでした。

そして、視察中、富川氏との会話の中で、珍しい品種の桜で「滑川市を桜の名所に」が話題になりました。現在、市内には何か所か桜の名所があります。しかし、新たな花見スポットとして滑川市総合体育館前の鋤川沿いに植栽することに決定しました。
ただ、苗木は30㎝―40㎝ほどでしたので積雪のことを考え1m位になるまで研究所で対応して頂くことにしました。そして、本数は100本程、品種は数種類とし、その後、1m位に成長したので鋤川沿いに移植し今日に至りました。いずれにしても、立派に成長し、見事な花を咲かせて市民を楽しませていることは嬉しい限りです。これが、昨年、富山の「富」滑川の「滑」にちなんで「富川桜」と名付けられました。

さて、総会では学校長代理の守内副校長が部活動を含め学校の近況報告。私は昭和43年メキシコオリンピックでレスリング競技に出場した堀内岩男さん以来50年ぶりに本校出身の広野あさみさんが平昌オリンピック・スノーボード選手として出場されたことやプロ野球ロッテの石川歩投手など同窓生を話題にし、更なる活躍を期待する中、本校への支援もお願いしました。

尚、関東滑川高校同窓会におかれましては、本校野球部が春季や夏季関東遠征親善試合や普通科2年生進路研修セミナーが東京で開催された時などには物心両面にわたり御支援頂いておりますことは、本当に有難いことです。
クイズあり、じゃんけん大会あり、和気あいあいで進んだ交流会も2時間以上経過し最後に全員で校歌を斉唱し次回の再会を楽しみに散会しました。



平成30年度滑川高校同窓会総会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき 小雨降りけり

滑川高校同窓会総会{会長・中屋一博}及び懇親会は 8月10日西地区コミニテイセンターで午後6時から100名を超す多数の参加のもと盛会に開催されました。

総会は毎年8月、曜日に関係なく8月10日と定められ、会員は戦前の水産講習所、滑川高等女学校、滑川商業学校、滑川薬業学校、水橋商業学校、終戦直後の併設中学校、県立滑川中学校{当時は県立の中学校があった}、昭和23年以降の新制滑川高等学校、水産高等学校、海洋高等学校の各卒業生等です。
これ程、多様で多くの学校が集まり現在の滑川高校になっている訳ですから、卒業生も3万人を超す県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有為な人材を輩出し活躍しておられることは誇りとするものです。
当日は連日続く真夏日でしたが、夕方から雨が降り出し、出席が心配されましたが紀憂に終わりました。しかし、その雨は「慈雨」。即ち、草木や作物にとっては恵みの雨であり、塵に汚れた樹木にとってもそれを、洗い流す雨でした。
 
さて、先日上京の折、私の友人が、ある会合で富山弁と思われる話し方をする人がいた。出身地を尋ねると富山県。もう一歩踏み込んで話を進めると滑川高校出身であった。双方とも驚いたが、それ以後会話が弾み、再会することも約束したと云う。
年齢も、考えも、学んだ学科も違う者が同窓の二文字で心が通じ合う。それが、同窓生だと思います。誰にも生まれ育った「ふるさと」があるように、青春のひと時を数々の思い出と共に過ごした学び舎、それが母校であります。そして、何歳になっても、人それぞれの心の拠りどころとして生きているものと思います。

懇親会の最後に、校歌を全員で合唱し母校の更なる発展を祈り、来年の再会を約し散会しました。会場を出る時には、すっかり雨も上がり夜空には星が輝いていました。

参考まで・・・広辞苑より 母校―自分が学んで卒業した学校。

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米騒動100年

7月28日~9月2日まで滑川市博物館で米騒動100年「滑川から全国へ」と題する企画展が開催されています。その中、8月5日シンポジウムが開催されました。
1918年{大正7年}8月5日は滑川で米騒動が起きた最初の日です。多分シンポジウムはこの日にあわせたものと思います。
それにしても、企画展は新資料や写真を含め500点に及ぶ多数の展示数でした。

第1章―社会背景と100年前の滑川「大正デモクラシーの時代」
第2章―滑川町と富山県内の米騒動  
第3章―全国へ広がった米騒動
第4章―明治時代の米騒動
第5章―米騒動後から現代へ。

と分けられていました。

私の様な素人には、約2時間ほどかけて見て回りましたが、充分理解できないままに多少疲れました。しかし、初めて眼にする資料や私の思いとは違う資料などに触れた時などは新鮮な驚きでした。
例えば、当時、全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し、富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料や、当時の富山県知事が8月7日から8月15日付まで、計60ページに上る報告書で、内務省に宛てたとみられる中の7日付文章は6日の2千人規模の騒動を「5日は漁師町の主婦が中心だったが状況が一変し、羽織姿の者や巻きたばこを吸う者のほか、学生や会社員ら「知識階級」が非常に多く参加した」と報告されています。

これは、騒動に加わる民衆が貧困層から中流層に拡大したことを認める内容であり、市博物館近藤学芸員は「中流層を含めて民衆が広く加わったことが騒動を拡大させた要因ではないか」と分析。
滑川では多くの男性が参加したことに触れ、「米騒動」を『女一揆』や下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め、もっと広い視点で考え直さなければなれない。と指摘しておられます。同感です。

また、当時の外務省の「帝国二於ケル暴動関係雑件」や防衛省が所蔵する海軍省の「米価問題二付騒擾ノ件」など膨大な資料の中からや、全国紙の中から富山県の米騒動の記事だけを抜き出すなど、まさに根気強さと、その調査能力の凄さに驚くと同時に感心します。

次に、シンポジウムは
①「滑川の米騒動と中流社会」 近藤浩二{滑川市博物館学芸員}
②「米騒動の滑川町と周辺のくらし」 浦田正吉{元・富山県立博物館副館長}
③「米騒動にみる民衆文化とそのゆくえ」 藤野裕子{東京女子大学准教授}
④「滑川・水橋における1918年米騒動の社会史 能川泰治{金沢大学教授}

の4名が講師となり、それぞれ約30分上記の演題で講演後、会場の方々の質問に各講師が答えるものでした。
その詳細はここでは紙面の関係上全てを記せませんが、今日まで私が思っていた疑問が解消した点、解消されなかった点、新たな知識を得たことなどを含め、私見として述べてみたいと思います。

{一}従来、滑川の米騒動はほとんどが女性であったと思っていた。何故なら、当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」「滑川の女一揆」或いは「富山県の女一揆」などと報じていた。
また、米騒動に関する証言や資料を見てもやはり女性が中心である。そこで、素朴な疑問としてその時男達は歴史の傍観者であったのか?ある人は、売薬さん達は県外に出張中で留守だったから滑川に居なかった。と言う人もいた。しかし、これは、今回の知事の内務省への報告書や、その時代の中流層といえども生活難だったことを考えると理解出来る。しかし、新たな疑問として、しからば、何故、新聞は中流層の男性も騒動に参加していることを報道しなかったのか?この点が私には解らない。

{二}1918年の米騒動は魚津、滑川、東西水橋町、富山など殆どが呉東地域である。
騒動を報じた高岡新報は高岡を中心とした新聞社であるから、当然、購読者は呉東より呉西が多いはずである。これだけの騒動を報じているにも拘わらず何故呉西地域から米騒動がほとんど起きなかったのか?この点が私には解らない。
確かに、江戸時代にも農民一揆が発生しているし、明治に入っても「ばんどり騒動」や明治23年、30年、45年などの米騒動は呉西地域でも発生している。故に、米騒動の発祥の地はどこか?は私に言わせるとこれは問題でない。

今日の100年の節目を機会に、米騒動が発生した社会的背景。庶民の生活。米騒動がその後の社会に与えた影響などから何を学び、それを今後にどう生かすか?を考える機会であったと思います。

滑川で8月6日に起きた騒動は2千人と県下最大規模あった。それが、全国紙にセンセーショナルに報じられたことが、滑川と言う点から全国的な面となって広がっていったと思います。しかし、同じ米騒動と言っても都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていた。東京では焼き討ち事件も発生しています。

しかし、滑川の米騒動は8月5日浜町などの漁師の主婦約50人が口火を切る。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願。回っている内に他の困窮者や夕涼みに出ていた町民も野次馬となって加わって約300人の集団になり、下小泉町の米肥商宅に行き着く。そして、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続けます。つまり、非暴力の哀願、懇願運動であったのである。藤野講師によれば江戸時代においては為政者や富裕者は民衆の生活が立ちゆくようにする責務があると考えられていたという。仁政です。

米騒動当時、この様な流れがあったんだと思います。滑川町役場は7日臨時会を開き、各町内会に10日から安売りを始めることを書いた貼り紙を出すなどし廉売を開始{9月16日まで}また、町民約100名から約4900円の寄付金が寄せられ廉売の一部に充てられた。これらによって、滑川の米騒動は10日過ぎから収束に向かって行ったという。

まさに、江戸時代の仁政の様なものである。最後に、何故滑川=米騒動となったか?

それは、やはり当時のマスコミ報道の影響と私は思う。事実、1922年8月12日付「北陸タイムズ」は次のような記事を掲載しました。
「所詮米騒動なる者があって、今年で5か年たった。米騒動と云えば滑川の女、滑川の女と云えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」

5年経ってもこの様な報道である。まったく、けしからんと思いますが残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がします。いずれにしても、色々なことを学び、考える良き機会でした。

歴史とは、時々に起こる事象を正確に公正に後世へ伝えてゆくもので、時の権力者や、勝ち負けの勝者によって事実が隠蔽され真実と違う形で伝えられるべきではないと思います。
その点今回の企画展やシンポジウムには新たな発見資料も加えられ、より事実に近づいた企画でありました。
それにしても、これだけ多くの資料の収集や調査された方々に感謝致します。特に米騒動の記事が不適切として発禁になった高岡新報の原本の展示も珍しい物でした。

参考まで【広辞苑】より
①騒動―多人数が乱れ騒ぐこと。非常の事態。事変。もめごと。
②一揆―中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起。
③暴動―徒党を組み騒動をおこすこと。多くの人が集まって騒ぎを起こし治安を乱すこと。
④デモ―デモンストレーションの略。特に、示威行進をいう。

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