なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2019年3月

大平山濤作品展

2月13日から3月24日まで滑川市立博物館で開催されていた大平山濤先生作品展を鑑賞してきました。会場入口のパネルには次のように記してありました。

ごあいさつ
故・大平山濤先生は、書一筋に生涯をかけられ、日本の書壇において「近代史文書」の分野を隆盛に導くなど多大な足跡を残されました。平成14年には文化功労者として顕彰を受けられ、平成19年9月に91歳で他界されました。
先生は、師金子鷗亭先生とともに、漢字とひらがなを組み合わせた近現代の文体を、美術としての書道にまで高める表現を続けて来られました。また、長年にわたって多くの展覧会において受賞されるとともに、書道団体において数々の要職を務められ、多くの書家の育成に尽力されました。
滑川市においても、先生が主宰された抱山社をはじめ、創玄書道会、毎日書道会などを通して、直接、間接に指導され、多くの書家を輩出されました。このような関わりから、本市へ41点の作品が寄贈されています。本展では、本市への寄贈作品の中から一部を展示します。古典研究等の基礎の上に立ちながらも、内面からあふれ出すような表現力豊かな作品を制作されましたが、特に故郷富山の峻厳かつ美しい大自然を高らかに詠いあげた作品など、大平山濤先生の書道芸術の世界をごゆっくりご鑑賞ください。            
(滑川市立博物館)

実は、私自身幼稚園時代と小学2年生まで計4年間僅かな期間ですが滑川市田中町西光寺で私の姉と一緒に直接習っていました。姉は社会人になっても指導を受けていましたが、残念ながら私はその後疎遠になっていました。その後ご縁があって、文化功労者顕彰祝賀会に出席させて頂だいたり、市制50周年記念事業の一環として開催した先生の師・金子鷗亭展の開会式にご出席頂いたことや、生前、東京中野の私邸を訪問するなど公私にわたりご指導を賜りました。
また、朝日町で執り行われた葬儀や東京でのお別れの会にも参列しました。そんなことから、平成20年、先生の作品が41点滑川市に寄贈を受けた時も、これに、深く関わった一人として先生への思いが強いものがあります。温和で物静かな語り口で、いつも優しく接して頂いたことが今でも脳裏に焼き付いています。

平成19年91歳で亡くなられましたが、もう少し長生きしておられたら、金子先生同様文化勲章受章の栄によくされていたと思うと誠に残念なことです。
いづれにしても、久しぶりに先生の大作16点を鑑賞しながら、在りし日の先生を偲びました。

写真は、作品展会場と東京中野先生自宅で息子匡昭さんと共に(平成16年6月9日)

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滑川高校薬業科特別講演

3月12日{火}午前9時50分―10時40分までの50分間、富山県立滑川高校薬業科一年生及び二年生計80名に「とやまの薬」について話をしました。これは、後継者育成事業の一環として製造側と配置側が1年交替で担当し、今回は1月23日富山北部高校薬業科に次いで配置側が担当して行ったものです。

最初に、直近の全国の医薬品の生産額約6兆6千億円、このうち富山県の生産額約6千200億円で2年連続日本一。また、置きぐすりの全国の生産額の約50パーセントが富山県での生産額であることを説明し、だから、「くすり」と言えば、「富山」、「富山」と言えば「くすり」、と言われる所以を話ました。こんなことから薬業科が1クラス増設されることも決定しています。

本題に入り
① 富山売薬の歴史――富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」 備前の医師・万代常閑と「反魂丹」・富山城下の薬種商・松井屋源右衛門 諸国への行商を広めた八重崎屋源六。
②他藩への入国が困難な江戸時代に富山売薬は何故受け入れられたか。特に、薩摩藩と昆布の関係
③幕末、日本三大寺小屋と言われた富山西3番町にあった寺小屋「小西塾」の教育内容
④明治に入り――漢方薬排斥・西洋薬礼賛。売薬取り締まり規則や売薬印紙税の導入など苦難の時代。
⑤明治26年富山市の補助金を基に多くの売薬業者の寄付によって「共立富山薬学校」の設立。明治30年富山市立へ移管し「富山市立富山薬学校」となり、明治40年県立に移管され、薬剤師と売薬行商人養成機関としての位置づけを確保していったこと。そして、明治43年県立の専門学校として昇格。日本で初めての薬学専門学校となったこと。これが、昭和24年富山大学薬学部となり今日に至っていること。この間、昭和10年滑川町立薬学校が設立。滑川高校薬業科と富山北部高校薬業科の歴史。
⑥明治以降の富山県に薬業人が金融機関や電力会社などを設立し近代化や産業の発展に尽力した功績。

これらのことを説明し、この素地があるから今日の「くすりの富山」があることを話ました。また、薬局やドラックストアが普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置きくすり」が存在するのか?などには、「置きくすり」は家の中にあって24時間営業、必要な時にいつでも使える。
しかも、使用しなければ代金は発生しない。使用した分のみの支払いで、いわゆる「先用後利」用を先に利を後にするという売薬独特の商法があることが大きな理由であろうと話しました。と、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリ-の「完全な商人」の題名の書物に①信用・信頼性 ②良い商品 ③市場調査 ④記帳と経理{例えば、かけ場帳}の重要性を述べています。

まさに、この商人として必要な4条件。300年も前から身に着いていたことです。祥細は紙面の関係上割愛させて頂きますが、いづれにしても、真面目にやれば、これほど良い商売はない。特に、女性は人当たりがよく配置販売に向いていることを話ました。
また、富山北部高校薬業科の生徒一人ですが4月に配置薬業に就職する人がいることも話ました。

滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

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高木繁雄氏叙勲祝賀会

昨年秋の叙勲で旭日中綬章の栄に浴された北陸銀行特別参与{元・頭取}現・富山県商工会議所連合会会長・富山商工会議所会頭の高木繁雄氏叙勲祝賀会が3月2日{土}午前11時より、富山市の富山第一ホテル3階天平の間で開かれ、約280名が功績を讃えました。
私も知人の一人として声を掛けて頂き出席しました。

最初に、発起人の庵栄伸北銀頭取が高木氏の人柄、経営者としての先見性を含めた手腕、文化・芸術に寄せる熱き思いと地域の発展など数々の功績をお話になりました。来賓祝辞に移り、石井隆一知事、宮腰光寛特命担当大臣、西原政雄全国地方銀行協会副会長兼専務理事の3人からあり、次いで、孫娘さんから高木ご夫妻に花束が贈呈されました。

ここで、高木さんが「身に余る光栄、皆さんにお世話になり、お一人お一人に感謝申し上げたい」と謝辞。次に、綿貫民輔元・衆議院議長、橘慶一郎復興副大臣、野上浩太郎官房副長官、吉田忠裕YKK取締役、前田利祐成巽閣理事長、犬島伸一郎元・北陸銀行頭取、麦野英順北陸銀行会長等々のメンバー約40人が5個の樽を鏡割りし、お祝いムードを盛り上げました。森雅志富山市長の発声で乾杯。歌手のtomomiさんが歌を披露。河上弥一郎富山商議所副会頭が中締めの挨拶。
尚、高橋はるみ北海道知事、王貞治福岡ソフトバンクホークス会長、落語家・立川志の輔さん、女優の竹下景子さんなどからビデオ・メッセージが寄せられました。

まさに、高木氏の人柄や経営者としての功績が評価されての受章でした。それにしても、政・財・官など多くの出席者の顔ぶれを見ていると、氏の人脈の太さと広さを改めて感じさせる祝賀会でした。

また、先日、幕末の薩摩藩主島津斉彬公の座右の銘とされる「思・無・邪」をタイトルとして私が発刊した本を高木氏に差し上げたところ、高木氏が斉彬公の子孫から斉彬公自筆の「思・無・邪」をラベルにした薩摩の芋焼酎を入手され、その内の1本を私に下さいました。
祝賀会会場入口でその話になりましたが、まだ飲んでいないので、その内、ゆっくりと味わってみたいと思っています。

写真は、高木氏より頂いた斉彬公自筆の「思・無・邪」をラベルに用いた芋焼酎

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