なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2019年

未来に伝えたい「薬都とやまの歌」

かねてより進めていた一枚のCDが完成した。題名は表記の通り。
これは、8月1日が語呂合わせで8と1で「はいちの日」と認定されたことで、この機会に置き薬をPRするものがないだろうか、と思った時、以前配置薬業に関するレコードがあることを思い出した。
しかし、50年も前のことである。野山のリスが落ち葉の中から木の実を探し出す様なもので苦労した。県立、市立図書館、博物館、資料館訪ね歩く内に、意外にも5曲あることが判明した。

▼戦前3曲
①越中富山の薬屋さん{昭和8年}
②廣貫堂音頭{昭和11年}
③富山売薬歌{昭和12年}
▼戦後2曲
④富山家庭薬の歌{昭和28年}
⑤愛のともしび{昭和43年}
以上5曲

①は作詞・松原興史郎、作曲・高階哲夫である。
松原は富山市出身、民謡詩人として多くの詩集を出している。
高階は滑川出身の音楽家。ご存知の札幌の時計台を歌った「時計台の鐘」を作詞・作曲した。
また、島崎藤村、北原白秋、佐藤惣之助、サトウ・ハチロウ等々と組み数々の名曲を残した。唯、誰がどんな目的で制作したかと音源は不明。楽譜,歌詞あり。

②作詞・西條八十・作曲・中山晋平、唄・三島一声。
西条・中山は説明するまでもないと思う。
昭和41年発刊「広貫堂のあゆみ」によれば、「当時、西條八十は読売新聞に連載物語を出筆中であり、9月15日読売の飛行機で富山歩兵第35連隊の練兵場に飛来した。当時の矢野兼三富山県知事は両氏の招待宴を開くなどした。」と記している。
また、作詞・作曲者は違うが、この当時,社歌を作ったり、廣貫堂音楽隊もあったというから、まさに、「薬都とやま」の「雄」たる自負、誇り、勢いを感じさせる。廣貫堂資料館にSP盤よりCD化され保管されている。

③作詞・相馬御風、作曲・福井直秋、唄・新城一郎
相馬御風は糸魚川市出身。早稲田大学校歌「都の西北」「カチーシヤの唄」{島村抱月共作}や三木露風、野口雨情、等とも親交を持った詩人・歌人・文芸評論家。福井直秋は中新川郡上市町出身の音楽家。
武蔵野音楽大学の創始者であり初代校長である。千曲以上の音楽作品を残している。
発注は、富山県売薬同業組合{荒木甚助組合長}楽譜・歌詞あり。音源不明

④作詞・多木良作、、作曲・黒坂富治
昭和28年3月富山市が富山の薬に関して歌詞を公募した。1等1篇金5千円、佳作2篇金1千円の賞金付である。
その結果埼玉県浦和市の多木氏の作品が選ばれた。氏の略歴は不詳。黒坂は下新川郡朝日町出身。富山師範卒業。富山大学教授。県内の小中学校校歌70曲以上作曲。富山県の教育界に多大の貢献をした。
発注は富山市。楽譜、歌詞あり。音源は不明

⑤作詞・志賀大介、、作曲・森 真、歌・渚 幸子、発売は、東芝レコードであるが、資料によると依頼は廣貫堂の組織下にある東廣会{酒井清隆会長}とあり、それぞれの略歴は省略する。

さて、この中で①③④は音源は不明のため、古い楽譜と歌詞から復元した。この為、合唱グループ・コール・あい。ピアノ・小善由美子さん。三味線・濱谷拓也・藤本秀君保社中。
収録・サン・ビデオの皆さんには本当にありがとうございました。その後、射水市在住の加部聰氏より③のオリジナル・レコードを保有しているなど③に関する貴重な情報が寄せられ随分参考になりました。
これにより③は加部氏の原曲からと復元したものと2曲を入れて計6曲納めました。今回、公的機関などに埋もれていた5曲を見つけた時は、正直新鮮な驚きと感動を覚えました。特に、戦前の3曲は当代一流の詩人や音楽家によって作詞・作曲されていることです。これをこのまま埋もれさせてはならない。

「歴史とは、過去から現在まで貫いた時間の流れである。歴史と伝統は一体のように思うが、歴史は、時代時代に発生したあらゆる事象を正しく伝えるものとして必要であり、伝統は人間が生活の上で必要とされるものであり、いわゆる生活文化が時と共に次世代に受け継がれてゆくものである。」そう思った時、今や、富山県の医薬品総生産額は全国トップクラスになっているのも、原点はこのようなレコード制作にかけた先人たちの努力であり、汗であることを改めて思った。
尚、今回の調査で5曲が確認されたが、これ以外にもあるかも知れない。あれば教えて頂きたい。

今度は、令和の時代に相応しい配置業界の曲が出てくればと思います。

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歳末恒例「民謡の集い」

一年を 包む風呂敷 年忘れ

12月1日、新川文化ホールで魚津郭声会{竹氏 修代表]主催の歳末助け合い「民謡の集い」が午前10時30分より午後4時まで盛大に開催されました。当日、私は午前中「夏井いつき句会ライブ」のため午後から鑑賞しました。
特別ゲストとして名古屋から東北民謡を全国に広めようと活躍中の、浅野美和子ご一行を迎え、特に、津軽三味線の中村滉己さんのバチさばきとその音色には惚れ惚れしました。
また、北鬼江獅子舞保存会の勇壮な獅子舞いも披露されました。修コーナーでは、年齢を感じさせない艶のある声で聴衆を魅了しました。郭声会メンバーの1年の総決算、日頃の練習の成果を遺憾なく発揮された「民謡の集い」でした。

12月8日富山市婦中ふれあい館で歳末恒例・長岡すみ子の会・チャリティーショーが午後1時から4時まで盛大に開催されました。
特別ゲストとして、尺八・平林火山、琴・桂 博子の両氏に加え友情出演として、尺八・小熊昭良、踊り・筏井豊華城と華の会、梅津千恵子と千鳥の会・それに、長岡すみ子の会員など多数の出演者によるまさに「唄と踊りの祭典」でした。
また、以前もお聞きしたのですが、尺八の平林火山さんは、名前が火山ですから激しい演奏かと思いきや意外にもソフトな感じで、北島三郎の「与作」を桂さんの琴とのコラボレーションで演奏されました。尺八の音にうっとりし、琴の琴線に触れたひと時でした。最後に「長岡すみ子の世界」と題し、歌謡曲あり民謡あり踊りありの楽しいひと時でした。

さて、竹氏さんと私は、長年の知人、長岡さんと私の妻とは、滑川高校時代の同級生であり同じクラスであったことから、今日までお付き合いがあり、この時期いつも声をかけて頂き有難いことです。
このお二人を見ていると、目標や夢を持っている人は、何処か輝いている。お二人からそんな姿を見せてもらい元気を貰った思いでした。
尚、収益金は台風や水害の被災地などに、義援金として贈られるそうです。

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夏井いつき俳句ライブ

手鏡に いっぱいの顔 豊の秋 (最優秀賞)

12月1日、10時30分より12時50分まで西地区コミュニティーセンターで、夏井いつき俳句ライブが開催されました。
当日は、会場ほぼ満席状態の約300名の入場者でした。テレビ「プレバト!!]で見る通り、言語明瞭、意味明瞭で分かりやすく、楽しく、面白い内容のライブでした。

俳句集団「いつき組」組長と自ら名乗り、誰でも組員になれると笑いを誘い2時間20分立ちっぱなしで、しかも水一滴も飲まないのには、驚きました。
そして、5分で出来る1句として「5音の季語」+「季語とは関係ない12音のフレーズ{俳句のネタ}」を入れる例を解説し、会場最前列にいた男性を指名して、今朝何を食べてきましたか、との問いに男性は、パン一枚食べた、と答えると、俳句のネタの前に季語を入れれば出来上がる。
そこで、ネタの前に季語を入れ「冬うらら、朝パン一枚食べました。」これで出来上がり。

季語をかえて、「年の暮れ、パン一枚食べました。」こうすると、又違った俳句になることを平易に説明されたあと、参加者約250名が投句しました。
これを、夏井さんが皆さんの前で10句程秀作を読み上げられたあと作者の名を伏せて 、7句を特選句として発表されました。

①陣痛で 駆ける立山 夏の宵
②冬うらら えんぴつ黒く 紙広く
③木枯来 鏡の中の 深い溝
④雪の朝 響く父の音 僕の悔恨
⑤手鏡に いっぱいの顔 豊の秋
⑥あかあかと 在ろうよ晩年 からすうり
⑦冬の蝶 留学の娘の メール

この7句のうち、会場の人々の拍手の大きさで標記の⑤が最優秀賞に選ばれました。
さて、12月1日付北日本新聞26面一面をさいて次の記事が掲載されました。

「五七五に救われる」--富山から俳句の聖地へ--

富山県出身の俳人、岡田一実夫婦が愛媛県松山市に移住し、俳句を通じて交流があった夏井さんが、自身のイベントの打ち上げ会場を結婚披露宴会場として提供してくれた。
会を仕切ってくれた夏井さんからは「貧乏な主役よりも、立派な服を着てくるな」というお達しがでた。夏井さんの案で、新郎新婦の希望のリストに合わせ、参加者が自宅から不用品を持ち寄ってくれた。
そのプレゼントを題材にした俳句も提案してくれた。二人は聖書ではなく、歳時記に手を載せて、俳句の神様”に愛を誓い合った。
{一部抜粋}

こんな微笑ましい記事が掲載されました。夏井さんの俳句ライブの当日、新聞に掲載されるとは不思議な縁です。
私は、控室で夏井さんに新聞をお渡ししたところ、新聞に掲載されることは知っていたが、まさか今日とは、彼女もとても驚いて、帰ったら岡田さんに記事をお渡しするとのことでした。

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練士審査視察

継ぎ目なき 天一枚 江戸の秋

11月16日の東京は本当に曇一つない素晴らしい青空が、一日中広がっていました。何処かに、雲の欠片でもないかと探しましたがありませんでした。そんな秋晴れの下、16日と17日の二日間にわたり、明治神宮外苑にある全弓連中央道場と隣接する至誠館弓道場の2会場で「関東地区」練士臨時中央審査が行われました。

至誠館弓道場は、明治神宮鎮座50年を記念して昭和48年10月10日明治神宮武道館として柔道、剣道場として開館し、その後、弓道場が増築され今日に至っています。その隣接地の中央道場は平成12年5人立ち2会場と遠的場を併設した立派な道場です。
特に、近的射場{28m}の的場の後ろに遠的{60m}の的場があります。そして、この手前の近的の的場が電動式で約20分で90度可動し遠的場が現れるという素晴らしい道場です。

さて、今回の視察は、全弓連の監事、理事、評議員が11月10日と今回の2日間の3回の内、本人の都合に合わせ視察するものでした。
私の場合日帰りで16日午後1時より3時半頃まででした。16日、17日の2日間の受審者合計は約800名で内、女性は33%程でいずれもその多さに正直驚きました。神宮外苑の鬱蒼とした木立のの中、小鳥のさえずりだけが聞こえる静寂と緊張感漂う雰囲気は独特のものです。審査は行射と学科です。

私は、約800名程の受審者の内、僅か60名程、約2時間30分程の短い視察でしたが貴重な機会でした。そして弓道は高齢者でも親しめるスポーツである事を再確認する機会でもありました。

審査員の範士の先生方も早朝より、長時間本当にご苦労様でした。
夜9時過ぎ、時雨模様の滑川に安着しました。

写真は、全弓連中央道場と審査風景

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生涯学習カレッジ

くにめぐり 山々見れば ふるさとの 越の立山 たぐい希なり (山田孝雄)

11月7日{木}午後2時から4時まで富山駅前CiCビル5Fで富山県生涯学習カレッジ富山地区センター主催による・人生100年時代特別講座の中で、とやまの魅力ー引き継ぎたい富山の心と文化‐「先用後利の精神と売薬」と題し講演しました。
当日は受講者42名{男29人女13人}年代構成は50代1人、60代7人、70代22人、80代11人、不明1人でした。
それにしても、この年代で学ぼうとする意欲は大したものです。

学習とは自らの意志で学び、習うことです。教育とは誰かに教え育ててもらうことです。
幕末の儒学者・佐藤一斎の「言志四録」に「少にして学べば,壮にして為す。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽ちず。」を引用して、受講者各位に敬意を表しました。

講演内容は、いつもの通り、富山売薬の起源から、明治維新後の洋薬礼賛、漢方排斥や売薬印紙税導入の嵐の中でも、売薬商人たちの手によって明治11年仲間達への融資と財産を保持する為「富山第123国立銀行{現北陸銀行}」を設立、更に26年売薬商人達の献金で「共立富山薬学校{現富山大学薬学部}」が開設された。
また、30年には「富山電灯会社{現北陸電力}を設立し、32年には大久保発電所を建設して北陸初の自力発電を図った。また、35年富山売薬信用組合{現富山信用金庫}を立ち上げたほか、売薬業に関わる業種{保険・出版・新聞・印刷・容器製造}などの会社設立にも力を注いだ。

今日、富山県経済の中心的役割を担っている北陸銀行や各地における信用金庫などを設立するなど、苦難を乗り越えたばかりか、新しい時代の流れに対応して富山県近代化への基礎を築き、それが今日もなお脈々と生き抜いているのであり、越中売薬は330年余りの歴史を有しますが、この間、幾度も明治時代のような存亡の危機に直面しました。
しかし、その度、先人達は一致団結して、知恵を働かせ、汗と涙で切り拓いてきたことを紹介しました。

講演会終了後、主催者より短冊に何か言葉を書いて欲しいと言われ次のように書きました。

高らかに 学びの道を 求めつつ 咲くは 豊かな心なりけり

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