なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2019年5月

第62回東京滑川会総会

第62回東京滑川会{会長・上田芳夫氏}総会は、5月25日{土}午前11時より大手町サンケイ・プラザで盛大に開催されました。天候は、5月とすれば全国的に30℃を超す真夏日が続き、特に、北海道佐呂間町で39,5℃の猛暑日を観測したのは26日でした。これは、5月では全国の観測史上最高の記録だそうです。やはり、地球温暖化現象でしょうか。

さて、この25日は真夏日の暑さに加え、トランプ米国大統領来日の為、都心は厳戒態勢で東京駅構内のコインロッカーもすべて施錠されていました。

総会は、会長挨拶に続き議事を滞りなく終え、この後、ミニ講演会として「これで良いのか日本――食から勿体ないを考える」と題し、関西滑川会会長千先久矩氏の時局にあった良い話がありました。会長の上田氏、千先氏とは私と同級生であり、滑川高校の同窓生でもあります。さて、今年の話題はやはり故・山田禎一、郁子ご夫妻のことでした。

郁子さんは前・東京滑川会会長であり、東京富山県人会女性部長でした。禎一先生は滑川市名誉市民、調布市名誉市民、東京都名誉都民に推挙され、東京富山県人会副会長、多摩県人会会長などを務められ、県人会発展に多大な尽力をされました。郁子さんは昨年3月、禎一先生は今年1月それぞれ90歳前後でお亡くなりになりました。

特に、山田先生には平成元年社会福祉法人「周山会」を立ち上げられ、県内初の老人保健施設「なごみ苑」を開設。平成8年には、富山医療福祉専門学校を設立。引き続き,市立「あずま保育所」を私立「あずまほいくえん」として引き受けて頂きました。また、郁子さんは滑川高校の前身である滑川女学校出身のご縁で創立100周年記念にはご夫妻から多額のご寄付を頂きました。この様に本市発展に大きなお力添えを頂いたことに改めて感謝と御礼申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします。
懇親会に入り、不肖私に挨拶と共に乾杯の指名がありました。

私は、山田ご夫妻がふるさと滑川をこよなく愛し、ふるさと滑川の発展を願っておられたその「思い」を上田会長がしっかりと受け止められ、「東京滑川会」の更なる発展とご出席各位のご多幸を祈念して盃をあげました。懇親会も盛り上がり、会員による新川古代神踊りや越中おわら節などふるさとを思い出させる踊りや歌が披露されました。

終わりに、「滑川市の歌」と「故郷」を全員で合唱した後、滑川市議会議長原明氏と東京滑川会・石川隆氏によるエールの交換があり、別れを惜しみつつ次回の再会を約し散会しました。100名に近い出席者でしたが、いつも滑川市の発展を願っておられる人々が、こんなに多くおられることは本当に有難いことです。

その後、同級生と場所を変えてしばし歓談し別れた後、高崎駅で群馬県副知事荻澤滋氏{元・富山県総務部長}と会い痛飲し、最終の新幹線で帰りました。

5月19日―25日まで実に多忙な日々を過ごしました。

写真は、乾杯の姿と荻澤副知事。

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第12回文科省ナカヤ会

5月24日{金}午後7時、東京富山県赤坂会館で開催されました。
これは、文科省から滑川市に約3週間程研修生として来ていた人々が本省へ帰任後、縁あって文科省ナカヤ会を結成し、私が上京の折、懇親会を開催してきました。

第1期生を受け入れたのが平成15年度からで今日まで続いています。勿論、私の時代以降の方々もその趣旨に賛同し参加されています。受け入れ時の年齢は25-26歳ですが、その後、彼らは32歳前後で都道府県の社会教育課長や国立大学の総務課長などに出向したり、或いは40歳前後である県の教育庁次長を2年間務め去る3月末本省へ戻りそれなりの立場になっているなど多士多才な方々ばかりです。

その彼らが研修生として本市に来ていた時、我が家で歓迎会を開催したり、居酒屋や朝キス釣りに連れて行ったり、本省へ戻った後も、ほたるいかマラソン参加に6名もが来滑し、我が家で痛飲したことなど思い出を語り、その時のご恩は忘れていないとして、今回、昨年秋の私の叙勲のお祝いとして、13名の心のこもったお祝いの寄せ書きと素敵なネクタイをプレゼントされました。

私でさえ、忘れている思い出を語りビックリしました。贈り物は金額の多寡でなく、彼らの誠意に感激しました。21世紀の文部行政の一翼は間違いなく彼らが担っていくであろうし大いに期待したいと思います。

しかし、昨今、官僚の不祥事が相次いでいます。私は、彼らに、かって遣隋使或いは遣唐使として身命を賭して数ヶ月に渡り荒海を乗り越えて大陸を目指した。そして、大陸に上陸しても数ヶ月を要しやっと西安にたどり着いた。何故、彼らはそこまでして大陸を目指したのか?荒海で遭難する者。志半ばで異国の地で亡くなった者など、祖国日本に戻れたのは僅かであったという。唐の学僧、鑑真和上は逆に、戒律や天台数学等をもたらす為、何度も遭難を繰り返し、暴風、失明などの苦難を乗り越えて日本に来たことを思うといかに大変なことであったかがわかると思います。

遣隋使や遣唐使はその危険を顧みず、日本発展のために、新たな知識、宗教、文化などを吸収し持ち帰りました。これが、官僚の矜持であることを、釈迦に説法と思いつつ、人生のささやかな先輩として話しました。いづれにしても、彼らの今後の活躍に期待したいと思います。

写真は、記念品を持って当日の出席者の皆さんと一緒に。

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加積雪島神社

加積雪島神社恒例の春季例大祭は毎年5月21日~23日に開催されます。特に宵祭りに行われるのが獅子舞いです。
滑川の獅子は現在、獅子頭が保存されているところは、加島町2区、3区、蓑輪、寺家の4町内だけです。この内、獅子舞いが行われているところは、加島町2区と3区だけです。
蓑輪は昭和54年を最後に休止している。櫟原神社にも獅子頭があったことが記録されているが、神の露払いとして祭礼の行列に参加していたことから、おそらく行道獅子{舞わない獅子}であったと見られます。

さて、加島町の獅子舞いは,起源は明らかでないが、古老の話では明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたといいます。
高岡市牧野方面の獅子舞いに似ています。射水系の獅子舞いの流れを汲むといいます。
獅子は加島町2区、3区で各一頭ずつ有しています。現在は毎年交代で、加積雪島神社に舞を奉納しています。昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していたといわれています。
今年は2区の番であった。2区は女{雌}獅子で優雅な舞いを、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞いを披露します。2区で現在使われている獅子頭は、黒塗り、毛髪は茶黒毛混じり、角は金塗り渦巻きで、彫刻家は井波町の横山一夢氏が昭和25年制作したもの。

2区と3区では舞いに多少の違いがあります。ただ、他の市町村の獅子舞いとの大きな違いは加島町が演目数が10種類以上と多いことと、ノッタ、ノッタという踊りがあることです。
この踊りは、2人の幼児が獅子に乗り1人は左手を腰に、右手の刀を頭上に上げて左右に振る。他の1人は左手を腰に、右手に傘を持ち、頭上高く上げて傘をぐるぐる回す踊りです。
この踊りは、加積雪島神社を含め3カ所の神社への入退場の時だけです。幼児が一番張り切るのはやはり地元の田中小学校前庭で全校生徒を前に全種目を披露します。友達や先生方から大きな声援や拍手を受ける時と、夜、8時ころ出発地の加積雪島神社、に戻り、拝殿前で多数の観客を前にして全種目を演じる時です。踊り子は、幼児と小学6年生までで、男14名女8名計22名の参加者でした。
今年も、怪我や事故もなく全員元気で終れたことは何よりでした。

いづれにしても、市内に残る2ヶ所の伝統芸能である獅子舞いが末永く、伝承、継承されていくことを願うものです。
「伝承無きところ、モラルなし」

{注}伝承、加島町史より一部引用

写真は、横山一夢作の獅子頭。ノッタ、ノッタの踊り。保護者を含め参加者の集合写真。

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{一社}秋配協総会

第9回{一社}秋田県医薬品配置協会総会は5月20日{月}秋田市山王4丁目「ルポール・みずほ苑」にて開催されました。
やはり、以前にも述べましたが秋田へは、富山発6時19分で、大宮―盛岡経由、秋田新幹線でも秋田着は午後1時ごろです。やむを得ず前日の19日に日本海側を北上して行きましたが、あいの風鉄道で滑川発7時7分、泊駅でえちごトキめき鉄道に乗り換え、直江津駅でJRに乗り換え、長岡駅で乗り換え、新潟駅でやっと秋田行き特急「いなほ」に乗り換え、秋田着が16時過ぎです。
実に、4回も乗り換えです。9時間余りの長旅でしたが読書の時間でもありました。
東京へは随分と便利になりましたが、その分、新潟、秋田方面は本当に不便になりました。

さて、総会の来賓には、秋田県健康福祉部医務薬事課長・伊藤淳一氏、秋田県議会議員・北林康司氏と私の3人でした。
それぞれの立場で祝辞があり、私も一言お話をしましたが、全てのが議事が終了後、約40分ほどまた話をしました。業界の諸問題と共に秋の消費税導入時に実施される軽減税率への対応などです。

結論は、どんな業種であろう共、どんな人生を歩もう共、「変化への対応」これがキ-・ワードであると申し上げたあと質疑応答を交わしました。
その後、懇親会に出席し、ざっくばらんに会話をして意義ある機会でした。翌、21日帰宅しました。

写真は、来賓で挨拶する私。右は、鈴木課長、その隣は北林県議会議員。

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日本海開き

咲き満ちて こぼるる花も なかりけり  虚子

恒例の滑川高校海洋科による日本海開きが5月7日午後1時より上市川河口高月海岸で行われました。これは、かっての水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、それが海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれてきている伝統行事の一つです。今回は再編統合から数えて第8回ですが、通算69回目です。

当日は、1-3年生120名が参加しました。目的は海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で、海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る。とあります。
天候は晴れ、微風、気温18度、海水温度14.5度、まずまずの天候でした。最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れてピストルを合図に3年生が飛び込み、25m先の消波ブロックまで泳いだり、波打ち際で水を掛け合ったりしていました。
この間、太鼓を打ち鳴らし生徒の士気を鼓舞します。3年生が岸に上がった後、2年生、1年生と繰り返し、最後に全員による遊泳で終わります。海水温度14.5度と記しましたが、消波ブロックより沖は17度程だそうです。波打ち際は上市川の真水が入り込むため低いそうです。

それにしても「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえますが、それ位の気概を持つように、とのことだと思います。現在、県内の高校で水産関係の学科があるのは滑川高校と氷見高校の2校だけで、この様な行事があるのは本校だけです。伝統行事として、今後とも引き継がれていってほしいものです。

写真は太鼓打つ私と、右はピストルを打つ柳原校長

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