なかや一博 ブログ

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国際宇宙ステーション

宇宙航空研究開発機構{JAXA}の野口聡一飛行士が搭乗する米スペースXの新型宇宙船クルードラゴンが約27時間半に及ぶ旅を終え11月17日未明、無事国際宇宙ステーションにドッキングした。
野口さんは、ステーションに半年間滞在中、私には難しくてよくわからないが、人工多能性幹細胞{IPS細胞}から立体的な肝臓作製を試みる世界初の実験に挑むという。
それにしても、凄いと思うのは、民間事業であること。日本では北海道で何回も民間が打ち上げに挑戦するが失敗の連続でありさすが米国である。

さて、この国際宇宙ステーションが11月21日午後5時33分~39分南西の方角から日本上空を通過するとテレビが報道した。
しかも、富山県上空である。私は、上市川河口付近でその時を待った。
幸い西の方に少し雲があったが、それ以外は月と僅かな星が光る中、発表通りの時刻に南西の方角から肉眼でもはっきりと見える輝きを放ち現れた。
約6分の天体ショーであった。凡人故に感心するのは、発表の時刻もコースも実に正確なことである。コンピューター「富岳」の凄さに驚くが、科学の進歩にも驚かざるを得ない。

また、JAXAは11月20日宇宙飛行士の若田光一さんが2022年頃、古川聡さんが2023年頃それぞれ、国際宇宙ステーションに長期滞在すると発表した。
若田さんは1996年、米スペースシャトルで初飛行。2000年、2009年、2013年の打ち上げなどで宇宙に滞在したほかステーションの船長も務めたベテランである。
その若田さんにお会いしたのが東京帝国ホテルで、ある人の結婚式に出席した時です。
その折、若田さんに滑川での講演を依頼した。周囲には、若田さんは殆ど日本に居ないのだから無理だろうと言われた。しかし、東京丸ノ内のJAXAへ数回訪問した結果、2005年8月21日実現した。

当日は、市内2校ある滑川、早月両中学校の生徒約千名を対象に滑川市民大ホールで「国際宇宙ステーション建設に参加して」と題し90分講演して頂き多くの生徒が感動した。
質問コーナーでは、食事は?トイレは?など誰もが聞きたいような素朴な質問が多く出て興味深かった。
また、講演で特に印象に残ったのは、「宇宙飛行士はいつも危険と隣り合わせ。2003年には「コロンビア号」が帰還途中空中分解し大切な7人の命を失った。それでも宇宙に行くのは、得られるものがリスク以上のものだから」や「宇宙で研究することは人類の財産になる。

例えば、カーナビ、天気予報などは、宇宙の技術があって成り立つこと」そして、最後に「目標を持ち、いろんなことに挑戦して欲しい。
今、努力したことは必ず役に立つ」と中学生に語り掛けられた姿は今も鮮明に覚えている。

写真は、当日のパンフレット。講演中の若田さん。酒を酌み交わす若田さんとともに。

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長岡すみ子の会・民謡・唄と踊りの祭典・日本海紀行

11月8日{日}午後1時より富山市婦中ふれあい会館で、民謡歌手、長岡すみ子の会主催による標記の祭典が開かれました。この様な祭典は、今回が8年目ですが実質は43回目。再来年は45回目の節目となり、その長さに驚きました。

また、今回の開催に際し、検温、手指消毒は勿論、会場内のソーシャルディスタンスや「三密」などの対策に細心の注意が払われていました。
出演者は民謡教室の生徒さん達の練習の成果の発表の機会でもありますが、ゲストとして、北海道釧路おわら同好会{会員30名」会長・豊橋眞成氏の越中おわら節が唄と踊りで披露されました。氏は釧路駅前で歯科医院を経営する歯科医とのことでした。長岡さんの人脈の太さを感じます。

また、踊りは「華の会」、と尺八は福井から平林火山氏、琴演奏は桂博子さん、特に、尺八と琴のコラボレーションは懐かしのメロディーとして、蘇州夜曲、北上夜曲、青い山脈、鈴懸けの小径,古城など演奏がありましたが、とても良かったです。
出演者の年齢も小学生から80歳代までと幅広く、かつ唄あり、踊りありと多彩な内容でした。

中でも今回は、長岡さんの教室の生徒さんである中村澪さん、優さん姉妹です。
妹の優さんが10月東京で行われた国内最高峰の民謡大会「日本民謡協会杯コンクール」で「布施谷節」を歌い優勝されました。
姉の澪さんも、昨年同大会で同曲を歌い、準優勝に輝いています。姉妹にとって忘れられない大切な曲です。

また、姉の澪さんは、2010年魚津市で開かれたNHKのど自慢で同曲を歌いチャンピオンになったり、妹の優さんは2013年「越中おわら節」全国大会で、翌年「麦屋節」全国大会で、それぞれ一般の部で優勝。
昨年は民謡民舞全国大会で内閣総理大臣賞を受賞するなど、今や民謡界の実力姉妹として全国で注目を集めているそうです。

それにしても、優勝曲などが富山県の民謡であることが嬉しいです。姉、澪さんは「秋田小原節」を妹、澪さんは日本一になった「布施谷節」を、二人で「江差追分」と「越中おわら節」を熱唱されました。さすがプロ級の歌声にうっとりしました。

実は、この姉妹、長岡さんと共に数年前、私の家で歌ってもらったことがあります。
帰り際に、二人にこの時の話をしたところ、ちゃんと覚えていて、また遊びに来たいと言ってくれました。

いづれにしても、コロナ禍で練習も十分できない中、多くの困難を乗り越え、祭典を成功裡に導かれた関係者のご苦労に敬意を表し、長岡さんの後継者育成の努力が着々と実っていることを知人の一人として嬉しく思いました。

写真は、祭典のパンプレット。江差追分を歌う左、姉、澪さんと右、妹、優さん。

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称名滝

富山県の人気スポットの一つである称名滝を晩秋の11月6日{金}知人と訪ねた。

それにしても日本語は美しい。
文部省唱歌に紅葉{もみじ・明治44年}作詞・高野辰之・作曲・岡野貞一がある。

「秋の夕日に 照る山もみじ 濃いも薄いも 数ある中で
               松を色どる 楓や蔦は 山のふもとの裾模様」

正に、一幅の絵を連想する。こんな美しい言葉を、他国語ではどう表現するするのだろうか。
やはり、日本語に勝る美意識を表す言語はないと思う。

さて、当日は薄曇りであったが最初に現れたのは、称名川左岸の色彩豊かな巨大な断崖「悪城{あくしろ}の壁」が盛りを少し過ぎてはいたが紅葉に染まっていた。10万年にわたり、水が岩を削ってできた絶壁は、高さ約500m、長さ約2㎞。せり立つ灰色の岩肌に、赤色や黄色の木々が彩りを添えていた。駐車場より徒歩約12分程で八郎坂へ向かう「ひりゅう橋」がある。
その袂に、私の前回のブログで書いた川合玉堂の歌碑がある。

「初雪の、高嶺を裂きてみ空より,もみぢの中に落つる大滝」(昭和11年晩秋)

実は、この前日彼は当時の中新川郡浜和積村曲淵{現,滑川市曲渕}赤間徳寿[元・衆議院議員、初代・滑川市長}宅に投宿し、翌朝「時雨さす 加積の里に一夜寝て 今朝立山に仰ぐ初雪」と詠み、称名滝へ向かったという。{歌碑は赤間邸の中庭にあり}

さて、滝壷の橋から眺める男性的で雄大な瀑布の称名滝と女性的なハンノキ滝の左右のV字型がまた良かった。紅葉は終わりに近づいていたが、滝しぶきを浴びながら暫し見とれていた。平日だったこともあり県外ナンバーの車は殆ど見なかったし、観光客も思ったよりも少なかった。
昼食は近くの山菜料理専門店で舌鼓みを打ち、帰路上市町の曹洞宗の名刹眼目山立山寺に立ち寄り、立山寺第42世住職・戸田光隆方丈としばし歓談し帰宅した。

「称名滝」
立山連峰を源流とする滝で、4段の落差からなる。
上から1段目70m・2段目58m・3段目96m・4段目126m、計350mは日本一の落差。
滝壷で標高1065m、直径約60m水深約6m。国の天然記念物に指定されている。

特に、雪解け水の多い春には水量が増えて迫力満点である。
ハンノキ滝――雪解け水や雨の多い時だけ称名滝の右側に現れる滝。見られる時期が限られている為、幻の滝とも言われその為、正式に滝には認定されていないという。
落ち口は称名滝より高く、落差500mは季節によっては日本一と呼ばれる。

写真は、玉堂の歌碑と称名滝とハンノキ滝

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富山社交俱楽部

初雪の 高嶺を裂きてみ空より 紅葉の中に 落つる大滝 
(昭和11年秋 称名滝にて 川合玉堂)

10月21日上記の例会で、話をする機会を得ました。
富山社交俱楽部は事務局を富山電気ビル内にあり、その目的を「人生百年時代を迎え、会員相互が自由闊達に知識・情報を交換すること、および各種行事、サークル等へ参加することにより、健全な知力、体力および豊かな人間性を育み、もって地域文化の発展に貢献する」とあります。
事実、句会や短歌会、演奏会、文芸講座、茶道、謡曲、写真、音楽、ゴルフ、囲碁、麻雀、ビリヤード、例会,会報の発行など多彩な企画を展開しておられます。幕末の儒学者・佐藤一斉は「少にして学べば壮にして為す、壮にして学べば老にして衰えず、老にして学べば死して朽ちず」とありますが、まさに人生を楽しみ、生涯学び続けるという前向きな人々の集まりと思いました。
そして、この会が昭和11年に発足し今年で84年の歩みを刻んでいることに驚きました。令和2年7月現在会員162名です。

さて、当初、例会は3月11日でしたがコロナ禍の為延期になりました。3月11日は東日本大震災から丁度9年目にあたり、「日本の災害史」として予定をしていましたが、延期になった為、「富山の薬・300年の歴史から学ぶ」として、特に、明治以降の売薬印紙税導入など苦難の時代をどう克服したか、について話をしました。

本題に入る前に、
①電気ビルは昭和9年12月7日地鎮祭が行われ、海電ビルとして昭和11年3月31日竣工。工期16か月。建築費、60万円。

②富山県庁は昭和9年3月15日地鎮祭。昭和10年8月17日竣工。工期17か月。建築費・予算額117万9千円。

①と②はいづれも工期は2年以内である。
そして、この二つの建物は昭和20年8月の富山大空襲の中焼け残った建物であり、他は大和百貨店、NHK富山放送局、昭和会館、興銀富山支店だけであった。

③現在の国会議事堂は、大正9年1月30日原敬首相の下地鎮祭。
昭和11年11月7日竣工。17年の長期の工期を要しましたが、この間、関東大震災や軍事費の増大などの影響があったものと思われる。
建築費2570万円。
規模も内容も違いますから、同一に論じることは出来ませんが参考まで、お話をしました。

また、10月21日は昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が雨の中挙行され、1万人の学徒が分列行進を行い東条英機首相が演説した。その結果、多くの有為な人材が戦争の犠牲者になった。2度と戦争はやってはいけないと訴えました。

さて、本題に入ります。多少売薬の歴史を話し、
①先用後利の商法は置き薬だけではない。八尾の蚕種、氷見の鏡研ぎ、立山修験者などがある。

②天保年間、大阪で作られた資料に、その頃全国で代表的な薬46品目を挙げ、その中でどれが有名か、を比べたところ1番有名なのは富山の「越中反魂丹」であったこと。

③明和3年{1766}富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本の三大寺子屋といわれ、商売に必要な読み書きそろばんを重点的に教えていたという。教育県富山の原点がここにあると思う。

④明治維新後、洋薬礼讃、漢方排斥の世のムードの中、明治3年売薬取り締まり規則が公布され厳しい状況になる。

⑤従来の家内工業的な製造業者がそれぞれの特色を生かし大同団結し、漢方の良きところを残し、洋薬の製造にも踏みだす。これが明治9年廣貫堂の創業になってゆく。

⑥明治15年売薬印紙税布告。これによって売薬業界は大きな打撃を受けた。明治15年に富山の売薬生産額672万円、行商人9700人だったものが、売薬印紙税導入後の明治18年には、生産額50万円、行商人5000人に激減した。この悪法は大正15年廃止されるまで実に44年間業界を苦しめた。
しかし、海外売薬にはこの重税が免除されたことから、明治19年には、藤井論三がハワイで配置売薬を始めたのを皮切りに、土田真雄が韓国へ、隅田岩次郎が清国アモイへ、寺田久蔵や重松佐平が上海へと飛翔する。これが、後の朝鮮半島、中国大陸、台湾、ウラジオストックからさらに遠くブラジル、インドなど富山売薬は日本人の行くところどこへでも進出することに繋がっていく。

⑦富山にあっては、明治21年富山県売薬営業組合設立。同27年売薬業者により共立富山薬学校設立。同31年富山市立薬学校、同40年県立薬学校、同43年県立薬学専門学校。そして戦後、学制改革により、国立富山大学薬学部として引き継がれてきている。
その卒業生に日医工の創業者田村四郎氏やリードケミカル創業者森政雄氏など起業家がいる。
つまり、明治政府の売薬に対する「無効無害主義」に対し、売薬業界は、製造、販売両面での近代化と資質の向上に努めて対応した。そして明治の富山県の近代化は金融、電力を始めとして薬業人は多大な貢献をした。薬業人を抜きにして富山県の近代化はなかったと言っても過言ではない。
そして、単に先用後利の精神だけで300年の歴史を築いてきたのではないことを力説しました。

また、富山売薬は個人業者で、色々なことを勉強し話題が豊富で、話し相手のいないご老人の話も上手に聞いてあげる。だからお客さんは「いい話を聞いた」「この人にまた訪ねてきて欲しい」「だからこの人の薬を飲もう」となる。同時に薬を届ける以外に、田畑の作り方の{山形県米沢市の報恩碑の例}指導や、仲人をしたり、全国各地の文化や情報の伝達者でもありました。
一軒一軒の家を訪ね、その家の人の「顔」と「生活の場」をしっかりと見て商いを行ってきたことも大きな要因であり、越中売薬に見る富山気質は、「薬効第一」「顧客第一」に徹したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

終わりに、今年1月制作したCD[未来に伝えたい、薬都とやまの歌」
のさわりを流しました。戦前の曲だが西條八十、中山晋平、相馬御風、福井直秋、あるいは高階哲夫等々錚々たる音楽家が作詞・作曲していることに会場から驚きの声があがっていました。

写真は、富山電気ビル5階大ホールの会場。

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北海道

10月13日~13日まで4泊5日で北海道へ行きました。
帯広から約40分程釧路寄りに豊頃町があります。この地に明治26年滑川の先人が開拓に2所帯入植、翌年7所帯が入植、その後も入植が続き、やがて、生活が多少落ち着いた頃、滑川市出身者が豊頃滑川会を結成し結束を強め、ふるさと滑川に思いを馳せたという。

滑川市史を紐解くと、「移住民は、第一に草小屋を建てて開墾に着手するが、川筋の肥沃地は、だいたい大樹林で、先ず伐木から始めなくてはならない。根株を手で掘り起こす大仕事であった。大木は一日かかりで伐り倒し、その枝を重ね、柴を積み上げて火を付けた。女や子どもは、下草のトクサを刈り、乾くを待って焼いた。草原地帯は、おもにカシワの疎林であったから手間は省けたが、鈴蘭、カヤ、萩の根が堅く表土にからんで、その手起こし開墾は容易でなかった。樹林地は草原より苦労が多いかわり地味が肥沃であった。

小屋掛は、なるべく秋に行うのが得策といわれ、伐木道具、なわ、釘が要った。15坪の掘立小屋を建てる材料の材木は、自分で伐採、草はカヤ・ヨシ・クマザサを刈り、材料不足のときは、まわりをむしろで囲い風雪を防ぐ。のち春に樹木の皮をはいで補修し、秋を待ってカヤ・ヨシの類で再び補修を加えなければ厳寒を過ごすことができなかった。・・・・・・・未開の新天地北海道へ、希望を持って移住した者たちのすべてが成功したわけではない。苦闘に耐えかねて、再び故郷に戻る者、東京などの都市へ流入する者、あるいは炭坑や土木工事の人夫となって働く者など、さまざまであった」と記してある。

まさに、筆舌しがたき苦難であったと思う。そんな経緯を熟知していた故・宮崎進策滑川市長が豊頃滑川会や町当局を訪ね懇談を重ねた結果、昭和59年7月10日市は豊頃町と姉妹都市の提携を結んだ。そんなことで私も調印式や豊頃産業まつりにも何度か訪問し、関係者の方々と大変懇意になった。
その中の一人に現町長宮口孝氏もおられ、再三訪問の要請もあり、コロナ禍の時期でもありましたが、妻と一緒に訪問しました。ご存知の通り,ANAは富山―札幌便は運休中。その為、富山―羽田―札幌便を利用しました。富山―羽田は機種B737の220座席は満席。羽田―札幌はB777-200座席数405搭乗者391ほぼ満席である。帰りも同様でした。
減便されていることと、GO/TOトラベル等経済活動支援策の影響と思いますが、経済活動の復活と感染防止策の両面作戦は、大リーグの大谷翔平選手の投手と打者のようになかなか難しい事ですが何としてもやらなければならないことです。

それにしても、機内は「三密」状態で、手指消毒、検温は当然ですが、機内の換気は3分間に1回空気が入れ替わる装置が作動し、「三密」対策は十分行っているとのことでした。
さて、13日は、帯広において町長夫妻、小野木元議会議長等久し振りに再会し、時の経つのを忘れ歓談し改めて旧交を深めました。

14日は阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖を眺め硫黄山、斜里を経由して知床横断道から北方領土・国後島を望みウトロ泊。
15日オシンコシンの滝から、網走刑務所、北見、足寄、陸別経由帯広泊。16日、帯広より札幌経由小樽散策。札幌泊。
17日午前市内観光。赤レンガの道庁、テレビ塔、大通り公園、時計台。特に、時計台と滑川とは深い縁があります。

滑川市出身の音楽家高階哲夫が「時計台の鐘」を作詞・作曲したのが大正11年26歳の時です。前年の大正10年7月札幌市豊平館で彼の演奏会があり、この時、初夏の北海道、青空の下、丘の上から見た石狩の大平原に幾つかの羊の群れが点在する月寒の羊牧場の風景や、大自然の広さに感動し、殊に陽光が西に傾くころ、牧場帰りの羊一頭一頭が目の前を通り過ぎてゆく風景や古木の並ぶ駅前通りの満開のアカシヤや、夜も白むころ時計台の鐘の音等から名曲「時計台の鐘」が生まれたと言われています。札幌の時計台の中には、高階哲夫コーナーも設けられています。

こんな縁で、滑川市の高台東福寺野自然公園内に実物の2分の1の時計台が昭和56年建設され、現在も時を刻む音を響かせています。ただ、残念なのは、この名曲「時計台の鐘」の作詞・作曲が富山県滑川市出身の音楽家高階哲夫である事を北海道の人々を始めとして、知っている人が非常に少ないことです。

また、訪れた観光地は、それなりの賑わいがありましたが、やはりインバウンド、つまり外国人の観光客は殆ど見られませんでした。やはり一日も早く新型コロナウイルスが収束から終息へ向かうことを願わずにはおれません。

いづれにしても、好天に恵まれた旅であった。
写真は、雄阿寒岳、摩周湖、知床横断道より北方領土・国後島を望む、札幌時計台。

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