なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年7月

川合玉堂展

時雨さす かづみの里に一夜寝て 今朝立山に 仰ぐ初雪(昭和11年秋)

初雪の 高嶺を裂きてみ空より もみぢの中に 落つる大滝 (昭和11年秋 称名滝にて)

生誕150年記念「川合玉堂展」が、県立水墨美術館で7月14日ー8月6日{前期}8月8日ー9月3日{後期}まで開催されており、私も、7月29日鑑賞した。

上記の「時雨さす・・」の一首は、昭和11年10月末、中新川郡浜加積村曲渕{現・滑川市曲渕}赤間徳寿{初代滑川市長}氏宅に一夜投宿した翌朝詠んだものである。

赤間宅中庭には歌碑が建立されているし、拓本が東部小学校にある。赤間宅に投宿した訳は知りませんが、氏は昭和17年9月―昭和21年4月まで衆議院議員であるのでこの時の人脈の中に玉堂もいたのではないかと思う。赤間宅から称名滝へ向かう。
「初雪の・・」はこの時の詩である。称名滝の少し下流「ひりゅう橋」袂に歌碑がある。まさに一幅の絵を想像する私の好きな詩の一つである。年譜の中に、昭和11年秋、黒部・立山周辺をスケッチ旅行とあるからこの時であろう。

さて、川合玉堂{明治6年・1873}―{昭和32年・1957}は近代水墨画を語る上で欠くことのできない近代日本画壇の巨匠で愛知県一宮市に生まれ、少年期は岐阜で過ごし、その後、京都、東京と転居を重ねる中で、円山四条派や狩野派などの技法を取得した。
さらにそれらを融合して、伝統的な墨の表現、線の表現を、近代日本画の中によみがえらせた独自の画境をひらき、詩情豊かな風景画の名作を数多く残した。

自然の中に身を置き、風景写生を重視し、そこに暮らす人々に温かいまなざしを注いだ初期から晩年にいたる約40点により日本の原風景とも呼べるように味わい深い玉堂の絵画の世界」パンプレットより。
素人の私には、論評する資格はありませんが、作品の多くに人馬が小さく描かれている。私の感想ですが、大自然の中では人間は小さな存在であることを表現していると同時に、大自然の雄大さと厳しさ、その中で生きる人々のたくましさが描かれているように思った。

また、写生帳も展示してあり、10代の頃の鳥や花の描写は本物と見間違う程の緻密な描写である。
ふと、NHK朝の連続ドラマ「らんまん」の植物学者牧野富太郎を思いだした。また、このスケッチ帳に「黒部・権現山」があり、県内に関する作品はこの一点だけであった。
前述した通り黒部・立山周辺をスケッチ旅行している訳あであり、称名滝を含め県内の風景を題材にした作品が他にあるのか、無いのか知りませんが、あれば見たいし、無ければ少々残念である。特に、印象に残った作品に、金地に紅白の梅をダイナミックに配した六曲一双屏風「紅白梅」は郷倉和子氏の「紅梅白梅」とは違った味わいがあるように感じた。「野馬群」や「老松蒼鷹」の六曲一双の屏風も圧巻であった。

玉堂は、昭和15年{1940}66歳で文化勲章を受章して画壇の頂点に立ち、昭和32年{1957}84歳で亡くなるまで描き続けた作品は日本人の原風景とも言える、おおらかさと懐かしさをもたらし、玉堂が画面に描いた景色は、100年近く経った今日でも、見る者を引き付けてやまない。これは、唱歌「ふるさと」とも同様である。だから私は後期にもう一回鑑賞したいと思う。兎も角、「百聞は、一見に如かず」である。

参考まで、玉堂の号は、彼が師とした一人に望月玉泉がいて、一字を貰い玉堂とした。
写真は、二日月{ふつかつき} 紅白梅{六曲一双屏風の右隻} 秋・彩雨。

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京都・三千院・寂光院

7月3日{月}前日の伊根の舟屋と天橋立に続き大原三千院と寂光院と訪れた。

京都、大原、三千院、恋に疲れた女がひとり・・・
結城に塩瀬の素描きの帯が、池の水面に揺れていた
京都、大原、三千院、恋に疲れた女がひとり・・・・

作詞・永六輔 作曲・いづみ・たく{昭和40年}

三千院、と言えばやはりこの曲を思い出す。清水寺は元々有名なお寺であったが、現貫主森清範氏が今年の漢字一文字を清水寺で平成7年から揮毫されるようになってからメディアが取り上げ、森貫主の顔も世に知られ、寺そのものの知名度も一層アップした。
三千院もデュークエイセスが歌った「女ひとり」がヒットしたことによって清水寺同様観光客が一気に押し寄せるようになった気がする。

さて、当日は京都市バスと地下鉄が1100円で一日乗り放題のチケットを利用した。京都駅からバスで終点大原バス停まで約1時間20分程要した。大原、貴船、鞍馬のエリアを洛北と言う。
京の奥座敷とも言われ、自然豊かな風景が広がりのどかな山あいであった。それ故、皇族、貴族が隠棲したという。又、京都駅からこれ程の遠方だからか、外国人を含め観光客は意外に少なかった。しかも、バス停から三千院までが15分から20分かかる。

パンフレットによれば、「大原の地は千有余年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽{声明}の発祥の地であり、念仏聖による浄土真宗の聖地として今日に至ります。創健は伝教大師最澄上人{767-822}が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。
{中略}現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅願により、三千院と公称されるようになりました」とある。また境内にある「往生極楽院」はお堂に比べて大きい「阿弥陀三尊像」{国宝}を納める工夫として、天井を船底型に折り上げているのが特徴で、その天井には極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色描かれている。人間の知恵とは凄いと思う。
寂光院・・・三千院から大原バス停に戻りここから15-20分位である。

天台宗の尼寺で、推古2年{594}に聖徳太子が御父・用明天皇の菩提を弔うために創建された。本尊は、六万体地蔵尊である。平成12年{2000}5月9日の火災で残念ながら損傷{現在も重要文化財指定}新たに復元された本尊が本堂に安置されている。
しかし、寂光院と言えばやはり建礼門院である。建礼門院徳子は平清盛の息女、高倉天皇の中宮で安徳天皇の国母である。

平家は寿永4年{1185}4月源平合戦最後の激戦地壇ノ浦の戦いで敗北し一門は滅亡する。
この時徳子は6歳の安徳天皇を抱え入水するが徳子だけは源氏に助けられ、京へ送還され出家し文治元年{1185}9月大原寂光院に入寺、以後30年余り、安徳天皇と平家一門の菩提を弔い健保元年{1214}12月60歳余の生涯を終えたと言う。
彼女の最後の言葉として「人の世にある苦しみは,全て自分のこととして、思い知らされました。一つとして分からぬ苦しみはございません」また、御詠歌に「思ひきや み山のおくに住居して雲井の月を よそに見むとは」{建礼門院}がある。

この2寺を訪ね、深緑の中の静寂,縁淵に佇み眺める苔むす庭園、いにしえに思いをはせ、しばしのもの思い。
どれを取っても都会の喧騒から離れた至福のひと時でした。帰りは大原から国際会館までバスで行き、ここから地下鉄で京都駅。
なんと万歩計は1万7千歩を記録していた。17時9分のサンダーバード号で帰宅した。

6月29日に上京後、大阪、京都など4泊5日の充実した日程でした。
最後に、観光地へ行くと目的場所まで何分と書いた看板がある。以前あるところで15分とあったので歩いたところ、私の足で25分かかった。
例えば、「40代で15分」とか、せめて年代を書いておくと、自分の年齢と比較し判断できると思う。

写真は、三千院と寂光院

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伊根の舟屋と天橋立

股のぞき 帰り際に股のぞき 未練がましく股のぞき  私の愚作

関西滑川会の翌日、7月2日{日}快晴の下、京都在住の甥っ子がドライバーとなって伊根の舟屋{以前は舟納屋と言った}と日本三景・天橋立に行った。

出発地は京都府内であるが奈良に近い方で、朝6時半出発し、京奈和自動車道と京都縦貫自動車道を利用したが、伊根には約3時間を要した。一口に京都府と言っても実に広い。
広い意味での若狭湾の中に、敦賀湾、小浜湾、舞鶴湾などとともに、丹後半島の東側に伊根湾や宮津湾がある。いづれも若狭湾の中での湾であるからそんなに大きくはない。
しかも、伊根湾は小さな半島が湾を抱くような形の地形で尚且つ湾の入り口に小さな青島がある。これが天然の防波堤となり、結果的に湾内は年中海は荒れることなく、舟屋の建設を可能にしたのだろう。それにしても生活の智慧とは凄いものである。

さて、舟屋とは、1階が舟小屋、2階が二次的な居場所として使用される建物で、伊根湾の周囲5㎞に約230軒の舟屋が並び、現在でも使用されている。古いのは江戸時代の建物もあり、その左右に明治、大正の舟屋もあると言う。
かって、湾内では小魚から鯨まで獲れ京都の魚の消費量の3分の1は伊根産であったという。

当日は遊覧船で湾内を1周後、ガイドさんに約1時間周辺を案内して貰いました。特に、ガイドさんが現在住んでいる自分の舟屋も見せて頂き、伊根の人々の生活の一部も知ることができました。昼食は町内の飲食店で、私は6点盛りの刺し身定食、他の一人はアラの煮付け定食。、富山湾の魚も美味しいですが、やはり伊根の魚も鮮度抜群。特に勘八と鯛の兜煮付けは、ボリュウム満点であった。

昼食後、天橋立に向かう。
天橋立には、二大展望所として「傘松公園」から眺めるのと、宮津の天橋立がある。宮津は天橋立を南側から一望できる展望所でここからの眺めは、天に舞う龍のように見えることから「飛龍観」と呼ばれている。私はここをお勧めする。
展望所にはリフトとケーブルがあるが,暑い日には、リフトの方が頬をよぎる風が心地良い。

いづれにしても,中々行くことの出来ない二箇所であり、しかも好天に恵まれ最高の観光でした。

めずらしく 晴れわたりたる朝なぎの 浦わにうかぶ 天橋立 
(昭和天皇御歌・昭和26年11月13日)

写真は、伊根周辺のマップと伊根の舟屋。天橋立・股のぞき。

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第56回関西滑川会

飛び習い 青田の上の 燕の子  麦水

恒例の関西滑川会{会長・千先久矩氏}の総会・懇親会が7月1日{土}70余名の多数の参加のもと、ホテルグランヴィア大阪で盛会裏に開催されました。
総会では、滑川市の歌、滑川高校の校歌を全員で合唱し、次いで千先会長が挨拶。
特に、今年は滑川市が市制施行70年の節目の年に当たり、関西滑川会も陰に陽にご支援を頂いていることから何らかの形でご恩返しをしたいとの有難い発言がありました。

来賓の水野市長は,是非ふるさと納税にご支援と滑川市史3巻の購入のお願いと共に市政の現況についての説明と会の更なる発展を願うご挨拶でした。
次いで古城近畿富山県人会長はこの様な集いで高校の校歌が歌われることは珍しいと述べられ、次いで大門県議、金田滑川高校校長,土肥東京滑川会長、最後に私が滑川高校同窓会長としてご挨拶をしました。
今年110年の周年記念を迎えること。ふるさと納税は、滑川市以外に滑川高校にもできることになったこと。市同様滑川高校にもお願いしました。また、滑川高校は大正2年{1913}滑川町立実科高等女学校として110年の第一歩を踏み出し今日を迎えたこと。

当時は男女平等や男女共同参画などの意識が極めて低い時代にあって、私たちの先人が女子にも中等教育の場を、との熱い思いで創立したこと。大正12年町立を県立に移管。大正13年町立商業学校を創立。昭和3年県立に移管。昭和10年町立薬業学校創立。
これに県立水産高校を加えると、戦前滑川町という2万人にも満たない小さな町に何んと県立高校が3校に町立といえども薬業学校があったことに驚かざるを得ない。

近隣市町村を見れば、いかに先人の教育にかける情熱が高かったかが解る。国家百年の大計は人材の育成即ち教育である。これら110年を振り返りました。また、この様な会で高校の校歌を歌うことが出来るのは,多分本市に高校が1校しかないから歌えるのかも知れない。やはり地域にとって心の拠り所は学校であろうと思う。

又、水野市長が購入を勧められた「滑川市史」は滑川市の百科事典であり、米騒動や蛍烏賊等々を含め、滑川の歴史を網羅した書物であり、滑川に思いがあるなら是非とも購入を勧めました。

懇親会は尾崎市議会議長の乾杯の発声で始まりました。当日は久しぶりのマスクなしでの懇親会であり、故郷滑川の話題や、友人、知人の消息などあちこちで会話の輪が出来ました。
それにしても、どなたも故郷滑川の発展を願っておられることに改めて嬉しく、心強く感じました。和やかに進んだ中で、近畿県人会副会長石田千治氏の歌謡ショ―、民謡歌手寺崎美幸さんの民謡ショー、近畿県人会「おわら教室」の皆さんのおわら節や神輿を担いで会場を練り歩くなど、大いに盛り上がりました。

その後、中川副議長と近堂関西滑川会副会長によるエールの交換があり、最後に「ふるさと」を全員で合唱し締めくくりました。
名残を惜しむ声があちこちで交わされましたが再会を約し散会となりました。

写真は、好評だった千先会長手作りの総会資料。挨拶する千先会長と私。

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全弓連定時評議委員会と大阪浮世絵美術館

6月29日{木}13時全弓連定時評議員会がJAPAN SPORT OLYMPIC SQUAREで開催され上京した。

議題は以下のとおり。
 第1号 令和4年度事業報告書{案}ついて 
 第2号 令和4年度決算報告書{案}について
 第3号 評議員の選任について
 第4号 理事の選任について
 第5号 監事の選任について

1号、2号議案は原案通り賛成全員で可決。
次に、評議員、理事の任期は2年ですが,監事は4年であり監事の私は当然退任するものと思っていましたが再任となりました。
特に驚いたことは、新たな評議員15名、理事15名、監事3名の新役員案は一人一人の略歴などが事務局からの説明と選考委員会の意見も加え、出席評議員の記名式による投票で決定されることでした。

評議員、理事は票数の発表はなく全員過半数を得たことの報告で当選となりました。又、私を含めた監事3名は全員賛成で当選となりました。
この上は、全弓連発展のため微力ですが尽力したいと思います。

翌日30日東京から大阪へ行き心斎橋駅近くの大阪浮世絵美術館で北斎・広重浮世絵展を鑑賞しました。特に、この美術館では葛飾北斎の有名な「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」が常時展示してありいつでも鑑賞出来ることです。

さて、パンフレットによれば「江戸時代後期、街道や宿場の整備により、庶民の間で巡礼や観光目的の旅行が大流行し、全国各地の名所、名物を紹介する本や浮世絵版画が数多く出版されました。
企画展では、浮世絵の巨匠と呼ばれる葛飾北斎と歌川広重の作品を中心に、江戸時代の人々の愛した観光名所と描かれた「名所絵」人々が旅をしている様子を描いた「道中絵」と呼ばれる、旅にまつわる浮世絵版画を約55点展示してあります」と記てありました。浮世絵には素人の私ですが、見ごたえのある浮世絵展を鑑賞しました。

パンフレットと北斎の「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」

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