なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2023年6月

知人・友人

6月7日{水}全弓連令和5年度第2回理事会出席で上京した。

その折友人・知人と懇談した。今回の主役は、総務省財政局財政課長・新田一朗氏である。
氏は総務省から県に出向され富山県経営企画管理部長や知事政策局長として活躍された人である。新田八朗県知事とは一字違いの氏名であり、よく間違われると言って笑わせられる。

又、以前からの知人である衆議院議員・橘慶一郎氏、参議院議員・堂故茂氏にも声をかけたところ快く出席され、加えて参議院議員・野上浩太郎氏秘書野村氏、たまたま公務で上京中の水野滑川市長も参加した。

懇談会の進行は私が行い、開会の挨拶は堂故議員、新田課長挨拶、橘議員の乾杯で進んだが、会話はやはり5年近く出向された富山県の想い出から始まった。自然・文化・食に続いて人物評である。歯に衣を着せぬ言語明瞭、意味明瞭の表現であるが、氏の人徳であろう後に爽やかさが残るから不思議である。

特に、氏は地方行政のエキスパートであり、やはり、昨今の国と地方を取り巻く財政状況についてのやり取りが主であった。最後は新田氏が、今後も富山県発展に微力ながら努力する言葉で締めくくられた。心強い限りである。
6時30分から9時30分まで3時間あっという間に過ぎ去りました。

再会を約し散会しましたが、翌日出席者から、お礼のメールや電話そして次回の開催を要望する声も頂きました。
翌日午後富山駅から薬業連合会へ直行、研修会で1時間話し、5時30分から別メンバーと懇談、帰宅したのは夜10時頃であった。
多少疲れたが自己満足の1泊2泊であった。

写真は、出席者と共に。

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市民文化講演会

恒例の京都清水寺・森清範猊下をお迎えしての市民文化講演会が6月4日{日}開催予定でしたが、5月末、突然体調が整わず出席出来ない旨のお電話がありました。
しかし、市民の皆さんには、既に市広報等を通し周知してあることから清水寺とも相談の結果、ここ数年森貫主の講演前に、前講として講演頂いていた清水寺執事補・大西英玄氏にお願いすることにしました。
氏の父は清水寺執事長・大西真興氏、祖父は清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上で、大正3年{1914}奈良法相宗管長・興福寺住職が清水寺住職を兼務して晋山されました。

以後昭和40年{1965}北法相宗を立宗。初代管長に良慶和上が就任されました。興福寺の北の方角に清水寺があることから北法相宗とし宗派の代表の管長になり、清水寺の代表を貫主と呼ぶようになりました。
又、昭和51年{1976}NHK鹿児島放送局の山下夫妻の5ッ子誕生に名付け親となられたことが、全国的な話題となりました。和上は昭和58年{1983]2月15日「涅槃の日」に数え109歳で示寂されました。
実に69年の長きにわたり、寺の護持、発展にご尽力になり数々の功績を上げられました。また全国を行脚され昭和20年代―30年代に滑川の地にも何度か宿泊され,掛け軸や額装、漢詩「滑川行」など市内でもその足跡が残されています。

そのお孫さんが今回講演された大西英玄氏、でありこれも何かの「縁」だろうと思う。当日、森猊下から私宛の手紙を大西氏から頂きましたので,その文を会場で披露しました。
体調不調になったことで、滑川へ来れなくなったことをお詫びし、市民の皆さんと再会できないことを残念に思うこと。少々の不調であり早く元気になり、滑川へ行くことを心待ちにしていること。重ねて陳謝の文であったこと。これらを話し皆さんに私からも理解を求めました。

大西英玄氏の講演内容は、やはり、以前にはなかったプロジェクターの映像を使うなど青年僧侶らしさが随所に出た内容でした。奥さんとの出会いから結婚に至る話へと始まり、我々は35日に1度は奇跡と思われる事象に遭遇している。それが分からないだけである。
世の中の縁と同様と思いました。会場にお越し頂いた多くの市民の皆様には満足してお帰りになったと思います。

講演後、会場を厚生連滑川病院に場所を移し、昨年南里前院長が森猊下に揮毫をお願いしていた「徳」の一文字の除幕式が南里前院長、小栗院長、大西英玄氏、と私の4人で行われました。
以前森猊下が揮毫された「孝」の一文字に続き、「徳」で「孝」「徳」となりました。これは、同病院中庭に自噴している小さな池が昔から「孝徳泉」と呼ばれている。その由来は、今から430年前文禄2年{1593}美作の国の了安と安静親子が旅の途中滑川に宿す。了安長旅の疲れからか病に臥す。了安息子安静に末後の水に音羽の水を求める。
安静昼夜を問わず走り、清水寺音羽の水を持ち帰ったが父は既に亡くなっていた。その水を埋葬地にかけたところ、滾々と水が湧き出た。親子の絆に感動した人々は何時ごろからか、それを「孝徳泉」と呼ぶようになったという。
これが滑川の民話として今日まで伝承されている。

昭和52年病院が改築された折、この池から墓石が発見され、それが了安の墓石であり、池の傍に安置された。平成10年縁あって森猊下が本市で講演された時この話が話題となった。以後、講演の後わざわざ音羽の水を京都から持参され、墓石に掛けて読経されるようになった。了安・安静親子も草葉の陰できっと喜んでいると思う。森猊下は読経が終わると「全国色々の所へ行くが、病院の中で読経をあげるのは、ここだけです」と言って笑いを誘われます。

「孝」はすでに孝徳泉を眺める廊下に掲げてあり、その横に「徳」が掲げられて「孝」「徳」が並び末永く見守ってくれることになりました。その後、宿泊先で音羽の会のメンバーと行事が無事終了したこと。森猊下の早期回復。大西氏の一層の活躍を念じ歓談しました。
翌朝わが家にお立ち寄りになり少々懇談し京都へお帰りになりました。それにしても、森猊下は大したことがなくて本当に良かったです。私も安堵しました。

参考まで大西英玄氏の略歴を記します。
清水寺執事補。1978年5月9日清水寺成就院生まれ。
平成元年得度。平成12年関西大学卒.渡米留学を経て清水寺帰山。現在清水寺成就院住職。
世界宗教者平和会議日本委員会青年部会副幹事長。社会福祉法人同和園副理事長であり、京都産業大学、京都ノートルダム女子大学 などで講義を行っておられます。

写真は、挨拶の私。講演の大西英玄氏。4人の除幕式。孝徳泉での法要。

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長野にて講演会

第63回長野県医薬品配置協議会{折田忠会長}総会が5月30日{火}長野市で開催された。
雨上がりの青葉、若葉の輝きは特に色鮮やかで美しい。長野市は周囲を山に囲まれているから一層その感を強くした。講演は研修会、総会後の午後2時から約1時間程である。

長野駅に降り立ってまず感じたことは、列車の発着時にどの駅でもメロディーが流れるが、長野駅は長野県民歌「信濃の国」である。47都道府県があるが、県民歌が流れるのは長野駅位でなかろうか。明治33年{1900}に作られ100年以上も経っている。
いかに県民に愛され、親しまれているかが解る。私の好きな曲の1つである。

次に新幹線のホームに「立食いソバ」がある。これがあるとどことなく旅情をそそる。富山駅を含め他の駅は自販機のみで大宮と東京駅はこれに売店があるだけだ。次に、新幹線のホームと在来線ホームの高さがほぼ同じである。軽井沢駅も同様である。是も珍しいのではないか。普通新幹線のホームは高架である。多分駅構内の中に踏切が無いから出来るのであり、もしあっても地下道だったり、道路が高架橋だからだろう。もう一点、駅から会場までタクシーに乗ったが、車の中で運転手さんと話に花が咲き、サービスすると言う。
何をサービスかと思いきや下車の折、料金が1540円を40円をサービスしてくれた。タクシー代をサービスするとは、これも余り聴いたことがない。冒頭こんな話をしながら本題に入った。

演題は「配置薬業の過去・現在・未来」で講演依頼者からの要望である。講演依頼はコロナ以前からあったが、延び延びになり今回実現した。

さて①過去の話は、主に明治以降の苦難の歴史をどう切り抜けたか。
まず明治維新になって新政府の洋薬礼讃、漢方排斥の方針である。新政府は医学・軍事・法律・産業やあらゆる分野や制度を西洋から学んだ。その影響は薬業にも大きな影響を与えた。明治3年売薬取締り規則公布。明治4年売薬取り扱い品目7品目に制限。加えて各地で不満士族の反乱が相次ぎ、明治7年佐賀の乱、山口県での萩の乱、福岡県での秋月の乱、熊本県での神風連の乱、そして明治10年西南戦争と続く。
これらの内戦に要した膨大な戦費。これは売薬に対して増税という形で現れてくる。明治10年売薬営業税、鑑札税が課税され、明治16年ついに悪名高き売薬印紙税となり、大正15年までこれが続く。これに対し、売薬業者は単に指を加えて眺めていたのではなく、悪税や規則緩和の要望を行う一方、製造、販売両面に於ける近代化、そして教育機関の設置による人材の育成、海外進出など抜本的な産業戦略を展開し幾多の困難を乗り越えてきた。ここまでは過去の話である。

そこで②現在はどうか。
今は自主回収問題に翻弄されている。正に明治の売薬印紙税導入された時と同様な打撃である。
自主回収問題を機に廃業する人。潜在的に後継者不足。明るい材料が無いような雰囲気である。これが現在の姿だろう。

それでは③未来は。
やはり過去から学ぶべきである。業界が活気があった時。それは競争があった時である。昭和20年代ー40年代この時代は一人帳主もメーカー直々の新掛けも盛んに行われた。
つまり競争のない産業は衰退するの言葉通りである。これらの人々の新規拡張が一段落した時、怒涛の如く拡張を始めたのが現在の大型販社と言われる。こう考えると守りから積極的な行動に出るべき時期である。
もはや「300年の歴史と伝統」「先用後利の商法」を叫ぶだけだけでは、新たな道は開けない。もっと考えることがあるのではないか。
例えば、ドラックストアは本来店名からして、薬が本業であるはずが、店に入ると生鮮食料品店と錯覚するくらい、野菜あり、精肉あり、魚あり、冷凍食品ありで何でもござるである。しかし消費者はむしろ便利性を喜んでいる。

又、富士フイルムとコダック社の例を挙げて、今やカメラ店に行ってもコダックのフイルムや製品は店の片隅にあり、ほとんど見かけなくなった。これは、1975年デジカメを最初に開発したのがコダック社である。
しかし、役員会では種々理由を上げ日の目を見ることはなかった。この結果コダックは印刷業に軸足を移し、規模を縮小して事業を続ける。最盛期に14万5千人いた従業員は4200人に減ったという。片や対照的に日本では、富士フイルムがフイルムに代わる新たなビジネスモデルを目指して、いち早くデジタル化の波を察知してフイルムメーカーから脱皮する。

同社がデジタルカメラを開発したのはフイルム需要が旺盛だった1988年。使い切りカメラ「写ルンです」を86年に発売し、新たな市場を切り開いたさなかのことで、デジカメはフイルムと競合するため社内で反発もあったという。
しかし、経営陣はデジタルの画質がフイルムを上回るという確固たる信念を持っていたという。と同時にフイルムの技術を活用出来る分野として、医療や化粧品の分野へ参入する。富山化学工業を傘下に置くのもこの流れである。

この結果昨年3月期の連結売上高は2兆5千億と、フイルム需要がピークを迎えた2001年3月期の約1,7倍に拡大するという。
特に、後藤禎一社長は「われわれは、変化を自ら起そうとする企業文化がある。変化の先取り、先読みすることが大事だ」という。ここが薬業界との大きな違いである。

どんな企業でも、常に右肩上がりで繁栄を続けるのは難しい。上場一部の企業でも紆余曲折があり今日がある。確かに薬業人は、今日までの苦難の歴史を紐解くと、「まごころ」があり「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。
しかし、これから先、配置薬業が存続していけるか、何処にも保証は無い。

結論は社会の変化に対応出きる者は生き残るし、逆の者は自然淘汰されるだろう。そのためにも配置薬業が社会に必要な職種であるためには何を為すべきかを考えなければならない。そうでないと前途は暗い。予定の1時間を20分もオーバーした。
この文章は、講演内容に多少加筆したが、内容は概ねこの様なものである。

尚、折田会長は滑川出身であり、かって滑川市薬業青年部長や富山県配置薬業青年連合会長そして長野県部会長等々の要職を歴任した人で、私の古くからの友人である。
翌日31日は長野から上京し、全弓連評議委員会に出席し夕方帰宅した。

写真は講演中の私。
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