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長野にて講演会

第63回長野県医薬品配置協議会{折田忠会長}総会が5月30日{火}長野市で開催された。
雨上がりの青葉、若葉の輝きは特に色鮮やかで美しい。長野市は周囲を山に囲まれているから一層その感を強くした。講演は研修会、総会後の午後2時から約1時間程である。

長野駅に降り立ってまず感じたことは、列車の発着時にどの駅でもメロディーが流れるが、長野駅は長野県民歌「信濃の国」である。47都道府県があるが、県民歌が流れるのは長野駅位でなかろうか。明治33年{1900}に作られ100年以上も経っている。
いかに県民に愛され、親しまれているかが解る。私の好きな曲の1つである。

次に新幹線のホームに「立食いソバ」がある。これがあるとどことなく旅情をそそる。富山駅を含め他の駅は自販機のみで大宮と東京駅はこれに売店があるだけだ。次に、新幹線のホームと在来線ホームの高さがほぼ同じである。軽井沢駅も同様である。是も珍しいのではないか。普通新幹線のホームは高架である。多分駅構内の中に踏切が無いから出来るのであり、もしあっても地下道だったり、道路が高架橋だからだろう。もう一点、駅から会場までタクシーに乗ったが、車の中で運転手さんと話に花が咲き、サービスすると言う。
何をサービスかと思いきや下車の折、料金が1540円を40円をサービスしてくれた。タクシー代をサービスするとは、これも余り聴いたことがない。冒頭こんな話をしながら本題に入った。

演題は「配置薬業の過去・現在・未来」で講演依頼者からの要望である。講演依頼はコロナ以前からあったが、延び延びになり今回実現した。

さて①過去の話は、主に明治以降の苦難の歴史をどう切り抜けたか。
まず明治維新になって新政府の洋薬礼讃、漢方排斥の方針である。新政府は医学・軍事・法律・産業やあらゆる分野や制度を西洋から学んだ。その影響は薬業にも大きな影響を与えた。明治3年売薬取締り規則公布。明治4年売薬取り扱い品目7品目に制限。加えて各地で不満士族の反乱が相次ぎ、明治7年佐賀の乱、山口県での萩の乱、福岡県での秋月の乱、熊本県での神風連の乱、そして明治10年西南戦争と続く。
これらの内戦に要した膨大な戦費。これは売薬に対して増税という形で現れてくる。明治10年売薬営業税、鑑札税が課税され、明治16年ついに悪名高き売薬印紙税となり、大正15年までこれが続く。これに対し、売薬業者は単に指を加えて眺めていたのではなく、悪税や規則緩和の要望を行う一方、製造、販売両面に於ける近代化、そして教育機関の設置による人材の育成、海外進出など抜本的な産業戦略を展開し幾多の困難を乗り越えてきた。ここまでは過去の話である。

そこで②現在はどうか。
今は自主回収問題に翻弄されている。正に明治の売薬印紙税導入された時と同様な打撃である。
自主回収問題を機に廃業する人。潜在的に後継者不足。明るい材料が無いような雰囲気である。これが現在の姿だろう。

それでは③未来は。
やはり過去から学ぶべきである。業界が活気があった時。それは競争があった時である。昭和20年代ー40年代この時代は一人帳主もメーカー直々の新掛けも盛んに行われた。
つまり競争のない産業は衰退するの言葉通りである。これらの人々の新規拡張が一段落した時、怒涛の如く拡張を始めたのが現在の大型販社と言われる。こう考えると守りから積極的な行動に出るべき時期である。
もはや「300年の歴史と伝統」「先用後利の商法」を叫ぶだけだけでは、新たな道は開けない。もっと考えることがあるのではないか。
例えば、ドラックストアは本来店名からして、薬が本業であるはずが、店に入ると生鮮食料品店と錯覚するくらい、野菜あり、精肉あり、魚あり、冷凍食品ありで何でもござるである。しかし消費者はむしろ便利性を喜んでいる。

又、富士フイルムとコダック社の例を挙げて、今やカメラ店に行ってもコダックのフイルムや製品は店の片隅にあり、ほとんど見かけなくなった。これは、1975年デジカメを最初に開発したのがコダック社である。
しかし、役員会では種々理由を上げ日の目を見ることはなかった。この結果コダックは印刷業に軸足を移し、規模を縮小して事業を続ける。最盛期に14万5千人いた従業員は4200人に減ったという。片や対照的に日本では、富士フイルムがフイルムに代わる新たなビジネスモデルを目指して、いち早くデジタル化の波を察知してフイルムメーカーから脱皮する。

同社がデジタルカメラを開発したのはフイルム需要が旺盛だった1988年。使い切りカメラ「写ルンです」を86年に発売し、新たな市場を切り開いたさなかのことで、デジカメはフイルムと競合するため社内で反発もあったという。
しかし、経営陣はデジタルの画質がフイルムを上回るという確固たる信念を持っていたという。と同時にフイルムの技術を活用出来る分野として、医療や化粧品の分野へ参入する。富山化学工業を傘下に置くのもこの流れである。

この結果昨年3月期の連結売上高は2兆5千億と、フイルム需要がピークを迎えた2001年3月期の約1,7倍に拡大するという。
特に、後藤禎一社長は「われわれは、変化を自ら起そうとする企業文化がある。変化の先取り、先読みすることが大事だ」という。ここが薬業界との大きな違いである。

どんな企業でも、常に右肩上がりで繁栄を続けるのは難しい。上場一部の企業でも紆余曲折があり今日がある。確かに薬業人は、今日までの苦難の歴史を紐解くと、「まごころ」があり「したたかさ」があり「知恵」をもってその時々の社会の変化に対応してきた。
しかし、これから先、配置薬業が存続していけるか、何処にも保証は無い。

結論は社会の変化に対応出きる者は生き残るし、逆の者は自然淘汰されるだろう。そのためにも配置薬業が社会に必要な職種であるためには何を為すべきかを考えなければならない。そうでないと前途は暗い。予定の1時間を20分もオーバーした。
この文章は、講演内容に多少加筆したが、内容は概ねこの様なものである。

尚、折田会長は滑川出身であり、かって滑川市薬業青年部長や富山県配置薬業青年連合会長そして長野県部会長等々の要職を歴任した人で、私の古くからの友人である。
翌日31日は長野から上京し、全弓連評議委員会に出席し夕方帰宅した。

写真は講演中の私。
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