なかや一博 ブログ

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富山大空襲

遠花火 開いて消えし 天の闇  寺田寅彦

8月1日、今年も恒例の富山市神通川有澤橋下流で第75回納涼花火大会が開催された。東京隅田川の花火の103万人の人出{主催者発表}には及ばないが、県内最大の花火である。
ただこの花火の意義は、昭和20年8月2日、富山大空襲の犠牲者の鎮魂や街の復興、そして平和への願いを込めて大空襲から2年後の昭和23年から始まった。8月2日、日本三大花火と言われる長岡の花火も開催趣旨は富山と同様である。

さて、富山大空襲は昭和20年8月2日午前0時36分に、米軍B29爆撃機182機が飛来。午前2時27分までの111分間に12888発の焼夷弾を富山市中心部に投下した。爆撃中心点は富山城址東南の角{以前の時計台付近}とされ、市街地の90%以上の1377haが焼き尽くされ、まさに灰塵に帰した。罹災所帯2万5千、罹災人口11万人、死者は確認されているだけで2719人。実際は3千人は下らないと言われている。

当日の爆撃地は、富山、長岡、水戸、八王子、川崎石油企業群の5か所であった。駿河湾沖や紀伊半島沖から出撃したB29は計858機、内、富山飛来は182機と言われている。富山市街は、大和百貨店、海電ビル{現・電気ビル}、県庁、昭和会館、興銀富山支店、NHK富山支局、と残った建物は僅か6か所だけだった。

この空襲から数日後、氷見市島尾海岸に11体の遺体が漂着した。これは、空襲の熱さから逃げようと神通川へ飛び込んだものの力尽き富山湾へ流れ出したものであった。中には、胸に赤子をしっかりと抱いた若い母親や、離れぬように手を紐で縛り合った12-13歳位の姉と6-7歳位の弟の遺体もあったという。

地元の人たちは遺体を漂着した場所のそばにある松の木の根元にそれぞれ埋葬し、墓標代りに石を置いて毎年供養していた。その後、地蔵尊が建立され現在でも慰霊祭が行われていると言う。戦争とは最高権力者が決断し、被害は庶民である典型的な例である。
それにしても、意外に知られていないことに、大空襲に先立つ7月、2度にわたりB29は富山上空に飛来し、模擬爆弾を投下し訓練を行っている。7月20日、軍需工場と思われる「不二越製鋼東岩瀬工場」「日本曹達富山工場」「日満アルミニウム東岩瀬工場」が標的とされ3発投下された。

しかし、目標地点に命中せず富岸運河左岸に着弾、死者47名、負傷者40名以上の被害がでた。米軍はこの訓練は「うまくいかなかった」として26日再度同じ3工場を攻撃目標として飛来した。しかし、雲量の影響で1発投下。豊田本町に着弾。死者16名。負傷者40名以上の被害が出たという。また焼夷弾も改良された。大正12年9月1日午前11時58分発生の関東大震災で死者10万人と言われるが、これは地震の被害というよりも、家屋が木造建築であり火災での死者がほとんどであったという。これに着目した米軍は焼夷弾を木造建築がより燃えやすく、かつ面的に広がるように改良したという。

それにしても、第2次世界大戦では、300万人以上の日本人が亡くなった。
しかも、その大半が民間人である。戦後、政府は軍人には軍人恩給を支給し、原爆被爆者援護法制定により原爆被爆者にも救済の道は開かれてきた。しかし、昭和20年1月から8月まで空襲を受けた37府県215都市のなんの罪もない、無抵抗の市民を無差別に大量殺りくし、家を焼き命まで落とした人々には何の補償もない。割り切れない思いである。
ロシア・ウクライナでも同様なことが行われている。やはり戦争はやるべきでない。戦後生まれがほとんどを占め、戦争体験者が少なくなったが、神通川の花火の時期が来ると空襲での犠牲者への鎮魂、街の復興、平和への願いに思いを馳せる。

写真は、8月2日の花火{北日本新聞より}。当夜わが家の2階からの月。

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