なかや一博 ブログ

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令和5年度入学式

よきことも 目にも余るや 春の花

4月10日{月}富山県立滑川高校{金田幸徳校長}入学式が体育館で挙行されました。
今年の桜前線は、開花も満開宣言も例年より実に早く当日は学校敷地内の桜は残念ながら葉桜であった。私が小学生の頃は、入学式は桜の開花時期と重なっていたような気がする。だから、小学校の校章の多くは「さくら」である。

さて、3月13日マスク着用は個人判断とされたことから、今年は3年ぶりの顔の見える入学式と思いきや、来賓室に入るや10数人の来賓で私以外は全員マスク着用。会場では保護者ほぼ全員が着用。新入生普通科2クラス、薬業科1クラス、商業科1クラス、海洋科1クラス、計5クラス183名。、着用3クラス、無着用2クラスである。

式後、先生にこの着用、無着用の違いを聞いたところ、判断はそのクラスに任せたという。尚、定員200名に対し183名は県下各校で起きた定員割れである。出席した学校側は校長を含め全員無着用である。
この現象をどう見るか。日本人特有の「人が外せば、自分も」の感覚か。コロナ禍の時は、国歌斉唱も校歌もテープで流され一抹の淋しさを禁じ得なかったが、今回の入学式は国歌は全員で斉唱し、校歌は在校生の合唱クラブのメンバーがステージ上で新入生に披露した。

また、吹奏楽部の演奏によって新入生の入退場が行われた。やはり、これによって厳粛さが一層醸し出されるのだと思う。校長は式辞の中で、今日まで、育てて頂いた多くの方々に感謝の気持ちを持つこと。そして、本校の生徒目標である「高きを求める情熱」を挙げ、志を高く掲げ、目標を持つことの大切さを述べ、自己を鍛錬し、学業に部活に学校行事に積極的に参加して充実した高校生活を送るよう話されました。

次いで、新入生代表の宣誓、在校生代表の歓迎の言葉に続き、1年生に関係する先生方の紹介がありました。男性教員5名、女性教員9名でした。学校全体では86名の教職員の内、男性約40%、女性約60%です。女性の社会進出の進んでいる分野は、薬剤師と教員でないかと私は思う。

入学式での生徒の希望に満ちて輝く瞳を見ると、やはり若いことは素晴らしいと思う。青春とは単に年齢だけで判断すべきでない。それは理解できる。しかし、30年前、スマホやAIをはじめとして、今日を予想した人はいなかったと思う。同様に30年後の日本や世界の変わりようを予想することは難しい。

30年後私は100歳を超えこの世にはいない。
しかし、彼等はまだ50歳にもならない。そんな変わりゆく世の中を見ることができる。
羨ましい限りである。いづれにしても、新入生が3年間で多くの思い出をつくり、かつ、楽しい高校生活を送ってもらいたいと念じ学校を後にした。

ここで、校歌を披露した時、有賀副校長より校歌の歌詞について説明がありましたので記しておきます。
本校校歌は、北園克衛作詞・岡部昌作曲 昭和24年制定。
1題目は 朝日に美しく輝く立山連峰に抱かれて、百年の歴史と伝統を誇るこの滑川高校で熱き夢を語り合おう。
2題目は 蛍を袋に集めて、その光で学んだといわれる中国の学者、車胤の若き日の苦難を思い、かけがえのない青春の一日一日を大切に過ごして欲しいという願いがこめられている。

滑川高校校歌

1朝日に匂う 太刀の峰
 雲井遥かに 青春の
 赤き血に沸{たぎる} 我等の日
 加積の郷{さと}の 学び舎に
 栄えある歴史  うけ継ぎて
 祖国をにない  集える我等

2有磯の海に 風荒れて
 思え車胤を 青春の
 波のごと迅{はやし} 我等の日
 雄々しく潔{きよ}く 血と愛に
 鍛えん時を  惜しみつつ
 理想に燃えて  集える我等

写真は、式辞を述べる金田校長

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企画展・滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ大集合

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

4月8日{土}午前9時30分より、市博物館で滑川市制70周年記念事業の一環として標記の企画展が開催されました。
昭和57年{1982}明治、大正、昭和時代に使用された滑川売薬に関する収集した資料は661点、その後の寄贈を含め、現在1000点を超えています。市ではそれを「売薬民俗資料」として滑川市の「有形民俗文化財」に指定し保管しています。
今回それらを主とした企画展で、特に、滑川の売薬さんが江戸時代から昭和時代に使用してきた多くの道具{製造・営業・行商に関するもの}を中心として展示されました。

滑川売薬の歴史{当日配布の資料より}「宝永年間{1704-1711}とする説と、享保18年{1733}説がある。享保18年説によれば,、高月村の高田千右ェ門が富山の薬種商松井屋源右ェ門から反魂丹の製造を習い、製造を開始した。千右ェ門は「反魂丹屋千右ェ門」と名乗り、出雲国{現・島根県}へ自製した反魂丹の行商に出かけました。
その後、滑川では反魂丹の他、熊から採れる熊胆を原料とした熊胆丸や実母散、寄応丸などの薬も生産するようになり、滑川の売薬さんたちの営業範囲が全国へ広がっていったと伝えられます。

嘉永6年{1853}の記録によれば、滑川の売薬に携わった親方と奉公人を含めた人数は、高月村で計140名、滑川町で計148名、と記されており、滑川の売薬がいかに盛んだったかわかります。
また、堀江村の売薬の歴史は滑川市史によれば、「明治初年のころ初代伊藤三郎平と松井弥吉の2人が、高月村の反魂丹屋高田清次郎に約5年間の見習い回商ののち、自立して堀江に自家製剤の場を設け、本格的な売薬業として発展させたといわれる。明治9年{1876}の記録では「堀江村に30有人の売薬人」とある。

参考まで、明治5年{1872}堀江村の戸数78戸とある。また当日配布の資料では、「明治20年代から第二次世界大戦期にかけては、朝鮮や中国、台湾など滑川の売薬は海外にも営業活動を広げていきました。
昭和6年{1931}滑川の売薬者数は、1770人を数え、その主な回商地は、行商者の多い順に東京、埼玉、新潟、北海道、長野、福島、茨城などでした。

一方、昭和8年{1933}に営業していた滑川の製薬会社は中新薬業kk{中町}、保寿堂製薬㏍{四間町}、日ノ本売薬kk{下小泉}、㏍保寿堂製薬{高月町}、東洋製薬kk{田中町}、保寿堂{保命堂か}薬業kk{大町}、また、個人では、金子、久保などの製薬工場があったという」当時と現在を同一に論じることはできないが、売薬者数などを含め今昔の感ひとしをである。

展示品の中に、以前私が寄贈した薬箱もあり、懐かしく見てきた。

尚、博物館1階には売薬常設展示室がある。ここには明治16年売薬業界に対し悪名高き売薬印紙税が科せられ売薬印紙と記された印紙が明治18年まで3年間発行された印紙がある。期間が短かったため現存する物は少なく極めて希少価値が高い。以後19年より通常の印紙が使用されたが、税そのものは大正15年まで続き業界を苦しめた。常設展示場にはその他の貴重な資料や立体模型など企画展とは違った趣がある。

さて、昨今富山の薬業界は不祥事があり、加えて新型コロナの影響で厳しい状況にある。しかし、この企画展を通し、先人は過去の様々な苦難を、叡智と情熱と努力をどの様に傾注し乗り越えたか。歴史の中から何を学び取るか。それが今回の企画展の意義であったと思う。

企画展は、4月8日ー5月7日{日}会場・滑川市立博物館・滑川市開676 ☎076-474-9200

写真は
①企画展のパンフレット
②テープカット、左から上田教育長、尾崎市議会議長,、水野市長、石政薬業会長
③中屋薬品の薬箱
④売薬印紙と記された五厘の印紙

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散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

3月29日全日本弓道連盟評議員会出席の為28日上京した。
実は、WBCワールド・ベースボール・クラシックで侍ジャパンが優勝し、そのトロフィーが東京ドーム内、野球殿堂博物館に展示してあり、しかも28日が最終日、それを見る為東京駅到着後博物館へ直行。
さすがに長蛇の列。係員に聞いたところ約3時間待ち。前日は約4時間待ちと比べれば何となく1時間得をしたかのような錯覚を覚える。一瞬列に並ぼうかと思ったが、館内に入ってからトロフィーにたどり着くまで約1時間。これを聞いた途端に断念した。

それにしても、黙々と並ぶ人の姿に、かって昭和45年大阪万博に月の石展示のあるアメリカ館を初め、各国のパビリオンに並んだ長蛇の列や、最近では上野動物園のパンダが中国に帰る時の列の姿をを見ると、日本人は実に辛抱強い人種と改めて思う。
その理由は機会があれば私見を述べるが、隣接地の遊園地にある巨大な観覧車。ジェットコースターの上り約45度、下り90度に近いコースを悲鳴をあげながら、よく乗るものと思う。

諦めて、宿泊近くの山王日枝神社を初めて参詣した。ここの桜は本数は少なかったが満開であった。東京には記録的な速さで3月14日開花宣言が出た。しかし東京はやはり広い。満開のところもあれば、散り始めたところもある。品種や地域によって違うのだろう。

4月1日のニュースでは4月9日が青森での開花予想である。昭和40年代から50年代に何度か青森県の弘前城桜まつりに行った時は4月末から5月のゴールデンウィーク期間であった。その後、さくら前線は津軽海峡を渡り北海道へ上陸すると言われたものである。やはり温暖化の影響だろうか。

また、インバウンド、外国人の観光客も多く見受けられた。しかし、あたかも喧嘩しているかのような大声で会話をすると言われる中国人は殆どいなかった。団体客の訪日を許可していない影響だろう。2019年の訪日観光客数3188万人には遠く及ばないが、確実に戻りつつあると思う。

さて、この山王日枝神社は,、旧官幣大社で主祭神は「大山咋神」で文明年間に太田道灌が江戸城築城にあたり、川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降城内鎮守の神と崇められ,紅葉山から麹町を経て万治2年当地に移遷された。
明治維新によって江戸城は皇居となり日枝神社は皇城鎮護の神として皇室のご崇敬殊に篤く、大正天皇ご即位当日には官幣大社極位に列せられた。昭和20年5月の空襲によって壮麗を極めた国宝の社殿は灰塵に帰したが昭和33年再建された。満開の桜を眺めながら、ふと良寛和尚の標句を思い出した。人生もまたしかりである。

28日の夕は旧知の中である藤木俊光経済産業省官房長・同省・戸高秀史審議官、上田英俊衆議院議員、堂故茂参議院議員などと懇談し、有意義な時間を過ごした。
翌、29日富山県首都圏本部で砂原賢司本部長と懇談し、その後、全弓連評議員会に出席し帰宅した。

写真は、満開の桜の山王日枝神社。藤木官房長を囲む懇談会。

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櫻開花宣言

初桜 折りしもけふは 能日{よきひ}かな  芭蕉

気象庁は、3月14日、東京靖国神社にある標本木の桜{ソメイヨシノ}が全国のトップを切って開花したと発表した。これは令和2年、3年と並んで観測史上最も早いとう。
気象庁によると、3月に入ってから気温が上昇し、つぼみが一気に成長したという。富山市のソメイヨシノの開花予想は3月25日、で,平年より9日、昨年より7日も早いという。

やはり地球温暖化の影響だろうか。わが家の小さな裏庭のソメイヨシノは、まだまだのようだ。それにしても、富山湾に春を告げるホタルイカ漁も、解禁日の3月1日は僅か59匹。以後今日16日まで絶不漁である。せめて海上遊覧{4月1日ー5月7日}の始まるまでには何とか平年並みにと願うばかりである。

3月15日は第6回全日本弓道連盟理事会の為日帰りで上京した。3月13日マスク着用は個人判断とされたが、新幹線の車内でも、都内で行きかう人も殆どが着用である。
日本人特有の「人が外せば、私も」の感である。さて、理事会の議題は令和5年度事業計画や収支予算などの重要議題であったが、予定より早く終わったので、久しぶりに知人を訪ねた。

藤木俊光経済産業省官房長である。氏は以前富山県商工労働部長として経産省より出向されていた時懇意になり、時々懇談の機会を持つなどし、今日に至っている。
官房長室で約40分程色んな話題に花が咲いた。氏の前職は経産省製造産業局長から官房長であるが、私の知人が、それなりの立場になり活躍されている姿を見ると、やはり嬉しいものである。
名残りは尽きなかったが、次回の再会を約束し、一層の活躍を期待し部屋を後にした。

写真は、藤木官房長と官房長室にて。

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滑高薬業科特別講演

春風や 闘志いだきて 丘に立つ  虚子

春は名のみのどころか 例年より早く春の到来を感じさせる好天の3月6日{月}午前9時50分ー10時40分まで50分間富山県立滑川高校薬業科一年生40人に「とやまの薬」特に「置きぐすり」について話しました。
これは、後継者対策育成事業の一環として製薬メーカー側と配置側が一年交代で担当し、今年は私が配置側として、1月23日の富山北部高校に次いでの講演となった。

最初に、「置き薬」や配置販売業を知っていますか、との私の質問に対し残念ながら誰も知らなかった。
これは、生徒の家庭や関係者の中に配置従事者がいないし置き薬も配置していないと言うことである。これに依って地元富山県内でのPRがいかに必要かを痛感した。
そこで戦前・戦後を通して配置売薬のレコード化された数曲を以前CDにした中から1曲を流した。勿論、置き薬を知らない生徒たちであるが,歌詞の中に「先用後利」など富山売薬を表現する言葉が幾つもあったからである。{最後に歌詞掲載}

まず、薬の歴史として一説によれば、紀元前2700年ー1500年前エジプト、インド,黄河等の古代文明の時代に、それぞれの地域や特性に応じて、医療や薬が編み出されたと言う。人間は衣食住が満たされた時、次に求めるのは、病気の治療薬を含めた健康であった。そして原料を生活の周りにある「草根木皮」「動物胆」「鉱物」などである。

現在、薬を飲む、はかって服むと書いたし、神社仏閣での祈祷や御守りが外服薬であり、服むのが内服薬であったことを説明した.
また、現在県内に、売薬さんや製薬メーカーを購読者とした新聞社が2社ある。何故かを含め、富山と言えば「くすり」「くすり」と言えば富山と言われる所以を話し、その後富山売薬の歴史について説明した。詳細は字数の関係で記しませんが概略を記す。

①富山売薬発祥の起源とされる「2代藩主・前田正甫公と江戸城腹痛事件」「備前の医師・万代常閑と「反魂丹」、薬種商・松井屋源右衛門、諸国への行商を広めた八重崎屋源六。商法「先用後利」について

②他藩への入国が厳しかった江戸時代に何故富山売薬は出入国が容易であったか、特に薩摩藩と昆布と北前船。

③明治に入り、漢方排斥,洋薬礼賛、売薬取り締まり規則や売薬印紙税導入などの苦難の時代をどう乗り越えたのか

④人材の育成に「共立富山薬学校」を設立、それを「富山市立薬学校」に移管、その後、明治43年県立の専門学校として昇格し、薬剤師と売薬行商人養成と新薬開発研究機関としては、日本で初めての薬学専門学校であった。これが今日の富山大学薬学部となっていること。その流れの中に滑川高校や富山北部高校の薬業科があること。

⑤明治の富山の近代化に売薬資本が投下されたこと。
北陸銀行、北陸電力をはじめとして、売薬人によって金融、電力をはじめとして、色々な産業を起こし、印刷、製紙、容器など多くの業界が発展したこと。まさに富山県の近代化の礎は売薬資本によって築かれたと言っても過言ではないこと。

⑥現在、ドラックストアや薬局が普及し、医療機関も整備されている今日でも何故「置き薬」が存在するのか 用を先にし、利を後にする「先用後利」の売薬独特の商法も大きな理由であろうが、同時に17世紀のフランスのジャック・サバリーの「完全な商人」の題名の書物に
 ①信用・信頼性
 ②良い商品
 ③市場調査
 ④記帳と経理{例えば懸場帳面}
の重要性を述べている。
まさにこの商人として必要な4条件を300年も前から身に付けていたことである。そして、富山気質は「信用第一」「薬効第一」「顧客第一」に撤したとは言え、最後はやはり「人」に尽きると思う。

次いで、富山売薬に関するエピソードを紹介しました。

①江戸・天保年間{1830ー44}に大阪で作られた資料では、全国の著名薬46種の番付で富山の「越中反魂丹」が京都の「雨森無二膏薬」伊勢の「朝熊万金丹」奈良西大寺の「豊心丹」などを抑え第一位にランクされていた。

②売薬に必要な読み・書き・そろばん習得の為富山では教育が盛んとなり明和3年{1766}に富山の西三番町に開かれた寺子屋「小西塾」は日本三大寺子屋と称されるほど大規模で、今日の教育県・富山の原点がここにある。

③富山の薬売りを顕彰する石碑{酬恩碑}「富山の青木伝次は現在の山形県米沢市塩井町を行商の折、備中鍬で苦労して田を耕す村人たちを見たのです。伝次の地元富山では既に馬を使った馬耕法が広まっており、その技術を教えようと、明治32年に富山から馬耕機{富山犂}を持参し、その使い方まで指導しました。馬耕機は伝次と地元の鍛冶屋で改良が加えられて更に便利になり置賜一円に広まって農家の重労働を軽減させました。村人は伝次を「先生」と慕い、明治34{1901}年に石碑を建て感謝したのです」{山形県米沢市「広報よねざわ」平成26年12月1日発行より一部抜粋}この他にも仲人役を務めた話など、全国にはこの様な話はいくらでもある。

④廃藩置県が断行された明治4年{1871}の人口調査の資料では富山は全国9位に位置していた。東京69万人、をトップに、2位が大阪29万人、3位京都23万人、4位名古屋・金沢10万人台、6位広島8万人台、7位横浜・和歌山6万人台、次いで仙台と並んで9位に5万人台の富山がある。これも「富山売薬」と言う一大産業によるものと思われる。

最後に配置薬業の素晴らしさを話し、配置業界に就職されることを勧めました。滑川高校は私の母校であり、同窓会長も務めていることもあり、ついつい熱が入り予定の時間を少しオーバーしましたが無事終えました。

昭和43年発売、歌・渚幸子の「愛のともしび」
1 雪の立山 今日また越えて 私しゃ薬の 旅に出る
  人の生命と その幸せを  願う心に 花が咲く 花が咲く

2 用を先にし その利をあとに これが自慢の 置き薬
  今日も明るく 門毎戸毎 届けましょうネ 真心を 真心を

3 深い馴染みの 富山のくすり 今は車で こんにちわ
  年に一度か 多くて二度の たまの逢う瀬に花が咲く 花が咲く

4 風の便りに 聞く花便り 富山平野の 遅い春
  泣きはしません あなたの胸に 愛のともしび ともすまで

個人的には、4題目の歌詞に違和感を感じますが、かって作詞・松原与四郎、作曲・高階哲夫の「越中富山の薬屋さん」、作詞・西條八十、作曲・中山晋平の「廣貫堂音頭」、作詞・相馬御風、作曲・福井直秋の「富山売薬歌」、作詞・多木良作、作曲・黒坂富治の「富山家庭薬の歌」など早々たる人によって作られている。これらを2019年1枚のCDに収めた。

写真は、講演風景と売薬の歌6曲入ったCDのケース。青木伝次の「酬恩碑」

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