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企画展・滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ大集合

頑なに 富山売薬 春の風邪  片桐久恵

4月8日{土}午前9時30分より、市博物館で滑川市制70周年記念事業の一環として標記の企画展が開催されました。
昭和57年{1982}明治、大正、昭和時代に使用された滑川売薬に関する収集した資料は661点、その後の寄贈を含め、現在1000点を超えています。市ではそれを「売薬民俗資料」として滑川市の「有形民俗文化財」に指定し保管しています。
今回それらを主とした企画展で、特に、滑川の売薬さんが江戸時代から昭和時代に使用してきた多くの道具{製造・営業・行商に関するもの}を中心として展示されました。

滑川売薬の歴史{当日配布の資料より}「宝永年間{1704-1711}とする説と、享保18年{1733}説がある。享保18年説によれば,、高月村の高田千右ェ門が富山の薬種商松井屋源右ェ門から反魂丹の製造を習い、製造を開始した。千右ェ門は「反魂丹屋千右ェ門」と名乗り、出雲国{現・島根県}へ自製した反魂丹の行商に出かけました。
その後、滑川では反魂丹の他、熊から採れる熊胆を原料とした熊胆丸や実母散、寄応丸などの薬も生産するようになり、滑川の売薬さんたちの営業範囲が全国へ広がっていったと伝えられます。

嘉永6年{1853}の記録によれば、滑川の売薬に携わった親方と奉公人を含めた人数は、高月村で計140名、滑川町で計148名、と記されており、滑川の売薬がいかに盛んだったかわかります。
また、堀江村の売薬の歴史は滑川市史によれば、「明治初年のころ初代伊藤三郎平と松井弥吉の2人が、高月村の反魂丹屋高田清次郎に約5年間の見習い回商ののち、自立して堀江に自家製剤の場を設け、本格的な売薬業として発展させたといわれる。明治9年{1876}の記録では「堀江村に30有人の売薬人」とある。

参考まで、明治5年{1872}堀江村の戸数78戸とある。また当日配布の資料では、「明治20年代から第二次世界大戦期にかけては、朝鮮や中国、台湾など滑川の売薬は海外にも営業活動を広げていきました。
昭和6年{1931}滑川の売薬者数は、1770人を数え、その主な回商地は、行商者の多い順に東京、埼玉、新潟、北海道、長野、福島、茨城などでした。

一方、昭和8年{1933}に営業していた滑川の製薬会社は中新薬業kk{中町}、保寿堂製薬㏍{四間町}、日ノ本売薬kk{下小泉}、㏍保寿堂製薬{高月町}、東洋製薬kk{田中町}、保寿堂{保命堂か}薬業kk{大町}、また、個人では、金子、久保などの製薬工場があったという」当時と現在を同一に論じることはできないが、売薬者数などを含め今昔の感ひとしをである。

展示品の中に、以前私が寄贈した薬箱もあり、懐かしく見てきた。

尚、博物館1階には売薬常設展示室がある。ここには明治16年売薬業界に対し悪名高き売薬印紙税が科せられ売薬印紙と記された印紙が明治18年まで3年間発行された印紙がある。期間が短かったため現存する物は少なく極めて希少価値が高い。以後19年より通常の印紙が使用されたが、税そのものは大正15年まで続き業界を苦しめた。常設展示場にはその他の貴重な資料や立体模型など企画展とは違った趣がある。

さて、昨今富山の薬業界は不祥事があり、加えて新型コロナの影響で厳しい状況にある。しかし、この企画展を通し、先人は過去の様々な苦難を、叡智と情熱と努力をどの様に傾注し乗り越えたか。歴史の中から何を学び取るか。それが今回の企画展の意義であったと思う。

企画展は、4月8日ー5月7日{日}会場・滑川市立博物館・滑川市開676 ☎076-474-9200

写真は
①企画展のパンフレット
②テープカット、左から上田教育長、尾崎市議会議長,、水野市長、石政薬業会長
③中屋薬品の薬箱
④売薬印紙と記された五厘の印紙

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