なかや一博 ブログ

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田中小学校創立150周年

天一枚 傷一つなし 秋の空

快晴 まさに雲一つなき青空に新雪輝く立山連峰を仰ぐ絶好の日和の中、私の母校滑川市立田中小学校{校長・玉木彰治・児童数215名}創立150周年記念式典・学習発表会・祝賀会等が盛会裏に開催されました。

本校は明治6年{1873}9月6日滑川小学校として、田中村西光寺の堂宇を仮用して設置されました{明治8年開達小学校と称した}
式典は昭和11年完成し現在国登録有形文化財の木造校舎の一部旧本館と、平成26年完成の新校舎に囲まれた中庭「きぼうの広場」で行われました。

当日は、水野市長をはじめ多数の来賓や学校関係者、地元自治会役員,姉妹校の長野県小諸市坂の上小学校PTA関係者、が出席し青空の下での開催でした。野外での式典ははじめての試みでしたが、校長の思いを推進した実行委員会の判断には敬意を表したいと思います。
式典後の学習発表会は通常通り体育館でした。

それにしても、150年前設置されたどの学校も独立校舎を持ったものは皆無で、寺院、又は地域有志の個人宅を借りて、教師も多くは寺小屋の師匠やその他域内における文字を解する者を委嘱してこれにあてたという。
それから150年、日本は少なくともアジアでは勿論世界の中でも、日本の識字率の99%をはじめとして教育水準は世界でもトップクラスです。

考えてみれば、明治新政府の近代化へ向けてのエネルギーは凄まじいものがあった。慶応4年、1月3日鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まった。3月江戸城無血開城。4月上野彰義隊。5月越後長岡北越戦争。7月江戸を東京とす。8月会津戦争白虎隊。9月慶応を明治に改元。明治2年、{1868}5月函館五稜郭で戊辰戦争終結。版籍奉還。明治3年、郵便制度視察で前島密を英国へ派遣。明治4年廃藩置県。文部省設置。岩倉遣欧使節団派遣。郵便制度スタート。

明治5年新橋・横浜間鉄道開業。8月「学制」発布。そこには「人々自ら其身を立て其産を治め其業を昌にして以て其生を遂るゆえんのものは他なし身を修め智を開き才芸を長ずるによるなり」として、「学問は身を立るの財本」であり、それ故に学制を定めて全国に学校を設けることにしたので、今後は一般の人民はすべて学校に学び、「必ず邑{むら}に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べている。

即ち、華士族・農工商の差別なく、また男女の別なく教育を受けるという近代教育の基本理念が、ここに明確に打ち出された。これが明治5年、いまだ明治政府の基礎が固まってない中で、教育の重要性を掲げることに驚かざるを得ない。
まさに「国家百年の大計」は人材の育成即ち教育の重要性を先人達が認識していたことである。司馬遼太郎の「まことに小さな国が 開花期を迎えようとしている」ではじまる「坂の上の雲」を思い出す。

滑川小学校もこの流れで設置され、明治8年開達小学校と名を変え、幾多の変遷をへ着実に発展し今日の150年の佳節を迎えた。しかし、これは170年、200年へと続く一通過点であり更なる発展を願うものである。さて祝賀会の最後に私に万歳の指名があり、以前、疑問に思っていたことの一つを話しました。それは、校歌と言われる「希望の丘」についてである。

ここで「希望の丘」の歌詞の全文を掲載する。

「希望の丘」
1 風も緑だ 若葉の朝だ 空にきらきら 陽ものぼる
  みんな元気で 元気でつよく こころ合わせて ほがらかに
  今日も越えよう 希望の丘を

2 明けてたのしい 大地の朝だ みんな若葉よ 萌え出る意気よ
  夢もあかるく 心も勇み ちから合わせて ゆるみなく
  今日も越えよう 希望の丘を

3 嵐吹こうと 雨荒れようと のびよのばせよ 若葉のいのち
  ぐんとぐんぐん 胸をば張って 歩調合せて ひとすじに
  今日も越えよう 希望の丘を

この曲の作詞は、「滑川市の歌」と同様医師であり、詩人であった高島高氏、作曲は高木東六氏である。これは昭和24年創立記念日の9月6日に披露された。

①当時の資料を見ても、どこにも曲目を田中小学校校歌と書いてない。あくまで「希望の丘」である。普通どの学校を見ても・・・小学校校歌であり・・・中学校校歌である。

②三番目までの歌詞の中に 田中小学校を思い起こすような歌詞が全くない。
普通どの学校の校歌を見ても、市内の場合は、有磯海とか立山や剣岳或は加積の里などの歌詞が入っている。

高島高氏は昭和30年5月12日44歳で逝去しておられるので、もはや本人からは聴くことは出来ない。そこで奥さんが存命中に私はカセットテープを持って高島医院を訪ねたことがある。
そして当時流行していた、例えば「緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台 鐘がなります・・・」のような児童歌でないか。だから曲目も歌詞も田中小学校に関する言葉がないのでは。との問いに、奥さんは依頼においでになったのは、当時の教頭毛利隆先生{のち市教育長}と後援会の魚躬常次郎氏と二人で昭和23年夏頃おいでになりはっきりと「校歌」の作詞を依頼された。と述べられました。

そこで今度はやはり存命中であった毛利先生を訪ねて、同様の質問をしたところ、先生も校歌の作詞を依頼したが、翌年昭和24年春頃出来上がった楽譜が学校に届けられたのを見て、一瞬私と同じ様な事を思った。
しかし、よく読んでみると戦後の混乱期、単に田中小学校の児童にとどまらず、全ての子供たちが元気・勇気が湧くような歌詞で誰でもが気軽に口ずさめるような歌として作詞されたのではないか。それはとてもスケールの大きなことで詩人高島高先生の真骨頂であり名曲である。と話されたのが忘れられない。

当時私は30代の若造で実に単純な疑問であったが、さすが毛利先生。このように含蓄ある言葉で教えて頂いた。その後、毛利先生と音楽担当の黒田先生と二人で上京、高木東六宅を訪ね、「希望の丘」の指導を受けて、生徒とともに練習に励み、昭和24年の創立記念日9月6日に発表,被露された。高島先生は「滑川市の歌」を作詞された後、昭和29年「広報なめりかわ」2月号に作詞された感想を寄稿されている。ここでも、記憶より記録の大切さを改めて感じた。

写真は、式辞を述べる玉木校長。中庭「きぼうの丘」で式典の215名の生徒。

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滑川市制施行70周年記念式典

11月1日抜けるような空の青に、新雪輝く立山連峰、加えて11月とは思えないような陽気の中,標記の式典が新装なった複合施設「メリカ」で開催されました。
式典は、来賓に新田知事、山本県議会議長、姉妹都市長野県小諸市、北海道豊頃町、東京滑川会、関西滑川会、県内各市町村長,、各議員等約400名近くの多数の出席のもと盛会裏に開催されました。

第一部 アトラクション
バンド名「匂い蜂」による曲目「なめりかわdays」等の演奏。
本市のPR動画の上映。

第二部
柿沢副市長の開式の辞、国歌斉唱、水野市長の式辞、尾崎市議会議長の挨拶、次いで38団体、個人の記念表彰、新田知事、山本県議会議長の祝辞、来賓紹介、祝電披露、小泉小諸市長の万歳三唱、上田市教育長の閉式の辞。で滞りなく終了しました。

さて、滑川市は昭和28年11月1日1町6か村{滑川町、西加積村、中加積村、東加積村、北加積村、浜加積村、早月加積村}が合併し翌年3月1日市制を施行し昭和31年6月1日旧山加積村の一部を編入し、現在の姿になりました。

ここで、昭和28年11月1日の合併の時、医師であり詩人であった高島高氏は次のように述べています。
大滑川町を祝す  北方荘主人 高島高
その握手は 偉大であった
ことほげよ菊かほる佳日よ
1町6か村が 今こそ親愛と協和との
ちかいに燃えたのだ   ――1953年秋――

次いで、昭和29年3月1日市制施行に伴い「滑川市の歌」が制定された。
作詞は前述の高島高、作曲・信時潔である。

霊峰立山おごそかに いま朝明けの陽に映える ひびきてやまぬ有磯海
悠久の道 教え打つ ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

世界に比もなき蛍烏賊 海の神秘か蜃気楼 自然の美観にめぐまれて
正義進取の意気高し ここに立ちたる栄光の
ああわれらの市滑川 たたえんわれらの市滑川

作詞した高島高氏は昭和29年2月発行の「広報なめりかわ」に作詞者の言葉として次のような文を寄稿している。
「滑川市の歌」の作詞を依頼されたとき、その責任を感じ、一応辞退したのですが、たってということで、何か一つの奉仕という意味で書いてみました。
20数年間,終始「現代詩」を書きつづけ、そこで悩みたたかって来た私は、曲になる歌は元来不得意なのですが日頃、郷土に貢献することの少ない自分を考え、一つの御奉公と思って書いてみたのです。滑川のもつ自然の美しさと、産業と新生の意愁を主体として作詞してみました。

中でも、後半のくりかえされる歌詞の、「ここに立ちたる栄光の」の栄光という言葉に苦心しました。「栄光」という言葉は、元来なにか、固定された概念的な言葉のように考えられ、これを歌詞の言葉とするには余程、慎重にあつかわねばならぬと考えたからです。

外国の詩人は多くこの栄光という言葉を使っているようですが、極自然で成功している場合が多いのですが、日本語になると中々概念的になりやすい言葉のようです。これは、何か宗教的な意味がふくまれているためでしょうか。前句の「ここに立ちたる」という言葉を書いてみて、はじめて「栄光」という言葉を滑川市を形容する言葉として使いました。

拙い作詞も、さいわいに,日頃親しくしていただいている、例の「海ゆかば」「み民われ」などの国民歌の作曲者として令名あり、又音楽家として稀な芸術院会員であられる信時潔先生が快く作曲をひき受けて下さり、かがやかしい光彩を得たことは、何よりもうれしく思っている次第であります。{1954年2月 北方荘にて}

さすが詩人らしい、この歌にかける意気込みや情熱が伝わってくるような気がします。ただ残念なのは、この素晴らしい歌が、歌われることが少なくなっていることです。せめて市が主催する行事の中で、歌う機会があると思うが・・・
今回の式典でも、歌われませんでした。

尚、式典前日姉妹都市、北海道豊頃町按田町長、中村議長、豊頃滑川会の皆さんと久しぶりに我が家で懇談会を開催し、友好を深めました。
70周年は、80年、100年へと続く一通過点です。これを機に、滑川市が更に発展することを念じ会場を後にしました。

写真は、式辞の水野市長。祝辞の新田知事。按田豊頃町長中村議長等豊頃町の人達と。

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「奥の細道」パート3

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也.舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は日々旅にして、旅を栖とす。…」
芭蕉は人生を旅に例えた。

鴨長明は方丈記で「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく留まるためしなし・・・」と人生を河の流れにたとえ、平家物語は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色,盛者必衰の理{ことわり}をあらわす おごれる人も久しからずや 只春の夢の如し たけき者も 遂にはほろびぬ,偏{ひとえに}に風の前のちりに同じ」と人生の無常と盛者必衰と論じた。

これを以前、高校の英語の先生に英訳出来るか。と質問したら、ドナルド・キーンの英訳を紹介された。数学者の藤原正彦氏が、日本文学を専攻する英国人に「勉強する上で何が難しいか」と尋ねると、彼らは直ちに「もののあわれだ」と答えた。

氏は「悠久の自然とはかない人生との対比の中に美を発見する感性は日本人が取り分け鋭い」と言っている。言い得て妙である。
徳城寺境内の「有磯塚」の向かいに「早稲の香や・・」の句を住職曰く10年程前に寺に来たドナルド・キーン氏が英訳したのを、2021年8月句碑を建立したという。全文を記す。

SWEET SMELLING  RISE FIELDS!
TO OUR RIGHT
AS WE PUSH THROUGH、
THE ARISO  SEA
BASHO

ドナルド・キーン氏{1922-2019}は米国生まれ。日本文学研究・翻訳の第一人者。日本文学史全18巻独力で発刊。2013年日本国籍取得。文化勲章受賞者。

残念ながら私には、この碑からは、日本語の持つ繊細な美意識は感じられない。日頃思うに、日本語は漢字・ひらかな・カタカナの3種類を何の抵抗もなく使いこなす。
漢字に至っては、草書・隷書・楷書・行書など、、多岐にわたる。これが日本語の美しさを一層引き立てているのだろう。俳句や短歌や和歌等はやはり英訳するのは難しい分野と思う。富山社交俱楽部での講演は概ねこの様な内容でしたが、それに多少加筆しました。

最後に、記憶と記録の違いである。記憶は必ず忘れ去られ、消えてゆく。記録は一時の出来事を永遠なものにすることが出来る。記録は世の片隅の出来事を全体のものにすることが出来る。記録は名も無き人の行為を人類に結びつけることも出来る。
記録のみが、消えゆくものを不死なものとすることが出来る。「曽良旅日記」や「俳諧わせのみち」から改めて記録の大切さを学んだような気がした。

写真は、講演中の私。ドナルド・キーン氏英訳の「早稲の香や 分け入る右は 有磯塚」句碑

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「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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「奥の細道」パート1

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

10月25日富山電気ビル内に事務局がある「富山社交俱楽部」{会長・金井昌一氏・元電気ビル社長}で「芭蕉と越中」と題し話をした。正直、私は歴史学者でもなければ、芭蕉の研究者でもない。ましてや俳句も素人の者が芭蕉の話をするのは論外であるが、その経緯について多少述べておく。

平成元年{1989}おくの細道紀行300年を記念して、芭蕉生誕の地伊賀上野市{現・伊賀市}が中心になって翁に関する自治体及び関係団体が一堂に会し、第1回「奥の細道」芭蕉サミットが開催された。
滑川市がこれに初めて参加したのは平成9年{1998}第10回サミットである。私が出席したのは平成16年{2005}でやはり伊賀上野市であった。その時、平成17年開催地は山形県尾花沢。18年は東京都足立区{千住のある区}までは決定していた。

そこで平成19年第20回サミット開催地として本市が立候補し決定された。その大きな理由の一つに、芭蕉が奥の細道紀行の途上において滑川に宿泊した。ところが県内においてさえ、この特筆すべきことが忘れ去られようとしている。
芭蕉翁の奥の細道紀行と、滑川宿泊を顕彰しつつ、本市の芸能・文化の活性化に資するためサミットを開催し市勢発展の一助としたい。との思いがあったからである。

さて「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・」有名な「奥の細道」序章の一節である。芭蕉が旅立ったのは元禄2年{1689}閏3月27日{陽暦5月16日}芭蕉46歳、曽良41歳の時である。東北地方を紀行し、日本海側に出て南下、9月に入り最終地岐阜県大垣まで、旅程約600里、150日余の旅であった。
この内容は「奥の細道」として、元禄7年8月盛夏・素龍清書本として出版された。この本が敦賀市の西村久雄が所蔵し、これを平成17年10月写真複製され、復刻本として発行された{縦16,5㎝、横14,5㎝}その中の、越中の部分を紹介する。

「那古ノ浦」
「くろべ四十八が瀬とかや,数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出、担籠{たご}の藤浪は、春ならずとも,初秋の哀といふべきものをと、人に尋ねれば「是より五里、いそ伝ひして、むかふの山陰にいり、あまの苫{とま}ぶきかすかなれば、蘆{あし}の一夜の宿かすものあるまじ」といひおどされて、加賀の国に入。 わせの香や分入右は有磯海」

これが、越中路の全文である。
以前芭蕉は滑川に宿泊したと巷間伝えられていたことを含め、ほとんどわからない。やはり紀行文である。

ところが昭和18年{13年説も有}奈良天理大附属図書館から、芭蕉に随行した曽良の旅日記が発見され、不明な点がかなり明らかになり、芭蕉研究もこれを機にかなり進んだと言われた。曽良旅日記による越中の部分を記す。

7月13日市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四、五丁有。中・後ノ堺、川有。渡テ越中方,堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ至テ越中ノ名所少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持セ、黒部川ヲ越。雨ツヅク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為降晴.。申ノ下尅、滑河ニ着、宿.暑気甚し。

14日、快晴,暑甚シ。富山カカラズシテ{滑川一リ程来,渡テトャマへ別}、三リ、東岩瀬野{渡シ有。大川}。四リ半,ハウ生子{渡有。甚大川也。半里計}。氷見へ欲行、不往。

高岡へ出ル。ニリ也。ナゴ・二上山・イワセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻、,着テ宿。翁、気色不勝。暑極テ甚。小?同然。
15日 快晴。高岡ヲ立、埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、、卯ノ花山也。倶利伽羅ヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。」

これが曽良旅日記の越中に於ける全文である。{注}7月13日は閏で陽暦では8月27日。
文中?は判読不明。曽良旅日記とは、宿に辿り着いては、疲れた足も伸べやらず無造作に、自己の心覚えにもと、書き留めたそのままのものが、文章も整えられず、清書もされないで、筆者の曽良の手から俳諧ゆかりのある人物の間に転々と秘蔵されつつ、ほとんど世に知られず240年余を経過し昭和10年代に発見されたのである。

これによって芭蕉は間違いなく滑川で宿泊した事をはじめとして、幾つものことが明らかになった。
しかし、現在でも論争になり、定かでない点もある。

①芭蕉の宿泊場所
②早稲の香や・・の句は、どこの風景を見て詠んだのか
③2泊3日の越中路は走り旅で、一句しか詠まず、句会も開かれた形跡さえない。等は今日でもはっきりしない。
現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが、建立年や経緯、そして最も古いものが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。

文章が少々長くなるので,以降はパート2に回す。
写真は、「奥の細道」復刻版を片手に。会場風景。「奥の細道」復刻版。

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