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「奥の細道」パート2

早稲の香や 分け入る右は 有磯海  芭蕉

現在、早稲の香や・・・の句碑{有磯塚}は県内に10基以上あるが建立年や経緯がはっきりし、そして最も古いのが滑川市四間町徳城寺境内にある「有磯塚」である。
これについて詳細に記した本が「俳諧わせのみち・知十撰」句集として発刊されたのは明和2年{1765}10月12日である。これを発見、解読されたのが旧制富山中学校教諭を振り出しに、小杉、泊、桜井各校長、県立図書館長を歴任された滑川の柚木武夫氏である。

氏は昭和44年12月「滑川の俳諧」を発行され、その中で、戦前小矢部・津沢の中島杏子氏秘蔵の「俳諧わせのみち」を拝見し、ほぼ写させて頂き胸躍る喜びを深くした。戦後あらためて中島氏よりお借りしコピーさせてもらい、ここに深く感謝の意を表する。と述べ、また天理図書館には、汚れの少ないきれいな版本が2冊も蔵せられ、羨望の念禁じ得ない。と述べておられる。
これを解読し出版されたのが前述の「滑川の俳諧」である。滑川市教育委員会発行の「滑川の文化財」より「有磯塚」に関する部分を抜粋して記す。

「この塚を建立したのが川瀬知十など、当時の滑川を代表する俳人たちでした。この塚は芭蕉70回忌の翌年にあたる明和元年{1764}10月12日建立された。」そのいきさつについては,川瀬知十撰「俳諧わせのみち」に次のように記されている。

「翁の遠忌に当たれば、有磯の砂を手してさらへ、荒波のかかれる石を社中と共にかき荷ひて,此神明山徳城寺禅室に碑をたつ。名は何ぞ外を求ん。わせの香やわけ入右はありそ海と碑面にものして、有磯塚と云なるべし。これより香華をおこたらず,俳徒も此石と共にひさしく、春は浦風の桜に通はざる先にと手向、子規{ほととぎす}の暁は裳を汐にひたし、早稲の香吹くはもとより・・・・」と記され芭蕉への深い敬愛の念と俳諧に寄せる熱い思いが語られている。

このように芭蕉の「奥の細道」「曽良旅日記」「俳諧わせのみち」の3点から判断して、まず間違いないのは「早稲の香や・・・」の句は越中路で詠んだことは誰も異論はない。然らばどこの風景を見て詠んだか。柚木氏は曽良旅日記と当時有磯海は富山湾のどのあたりであったか等をキーワードに雨晴付近との説を取っておられる。

私は、素人で恐縮ですが、泊から滑川の間と思う。芭蕉は親不知を越え、市振を越え泊に入ったところで、越中平野が広がる。また「俳諧わせのみち」で有磯塚建立に際し、「有磯の砂を手してさらえ・・・」とあり、滑川海岸を有磯と呼んでいる。氷見には有磯高校があった{現・氷見高校}滑川高校校歌には有磯の海の歌詞がある。湾一帯を有磯海と呼んだんでなかろうか。
又、当時早稲というのは呉西にはなく、新川郡固有の品種との説がある。しかも滑川で宿泊したこと等から考え、私は泊から滑川の間と思う。

次に、滑川の何処で宿泊したかである。これも定かでない。考えられるのは
①俳人、知人友人宅②紹介状
③旅籠屋
④お寺,検断宅等 がある。

曽良旅日記には約3割位は記されているが、残念ながら滑川も高岡も記載なしである。当時の県内の俳諧は大淀三千風の談林派と松永貞門の貞門派が主流だったという。
芭蕉が越中に入る6年前天和3年{1683}6月12日三千風が越中に入り、7月いっぱい魚津に滞在し、越中の方々の万葉の歌枕を訪ねている。滑川では本陣も勤めている桐沢家に7月2日と3日宿泊し一句残している。桐沢家古文書は市史編纂にも多くの資料が利用された。しかし、古文書にも芭蕉の記録がない。この頃旅籠は四歩一屋と川瀬屋もあったという。

いずれも談林派で芭蕉を歓迎することもなく、むしろ芭蕉であることさえ知らなかったのでないかと思う。芭蕉は高岡でも宿泊しているが、高岡市伏木出身芥川賞作家堀田善衛が、明治6年生まれの伯母に聞いた話として「それぞれに縄張りがあってやな、俳諧じゃと京の貞門が多かったんや、うちもそうじゃつた」と話している。このように越中では芭蕉が受け入れられる余地がなかったのではないか。

だから2泊3日の間に句会も開いた形跡もなく、しかも疲れていたこともあり、足早に越中を通過したのではと思う。但、芭蕉の弟子である井波瑞泉寺第11世住職浪化上人は芭蕉が越中を通っていったことを知らなかったとして次のように後悔している。
「芭蕉翁当国の行脚も知らず。やや旅程を経て其の句をまふけ、其の人を慕う。「早稲の香や、有そめぐりの つえのあと」浪化の芭蕉を慕うこと並々ならず、以後越中は徐々に蕉風になってゆく。

この様なことと、有磯塚を建立し「俳諧わせのみち」を発刊し、追悼句会を催すなど中心的な役割を果たした俳人川瀬知十は旅籠川瀬屋7代目当主である。芭蕉通過から70年も経過していることを考えると、この頃には滑川も蕉門派が主流になっていたと思われる。

勝手な推測だが、芭蕉が川瀬屋に泊まったことを後年知った知十がそれを誇りに思い、前述の数々の事業を行ったのではないだろうか。
又、旅程600里、150日余りの旅費等は。幕府が出し、幕府隠密説もあるなど、まだまだ不明な点があり、今後の研究を待ちたい。文章が少々長くなったが最後の文はパート3に回す。

写真は、柚木武夫が解読した「俳諧わせのみち」を平成19年7月滑川市がサミット開催に合わせ発行した復刻版・{縦21㎝・横15㎝。}柚木武夫氏著「滑川の俳諧」。徳城寺境内の「有磯塚」。

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