なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2023年

6回目ワクチン接種完了

5月11日6回目のワクチンを接種した。
3月13日、マスク着用は個人の判断に委ねられ、5月8日、感染法上第2類から第5類に移行した。世の動きを見ても、数万人の入湯者のスポーツ観戦もノーマスク、声出し応援も可。GWは国内の移動者は2450万人。どの行楽地も人、人、人で溢れ、新幹線の乗車率もコロナ以前に戻りつつある。

それにしても3年前の1月、国内で初めて感染者が確認され、1月末中国武漢の日本人がチャーター便で帰国した。2月横浜港に停泊の豪華客船ダイヤモンド・プリンセス号にクラスターが発生。この時、今日の社会的混乱を誰が予想しただろうか。ましてや東京オリンピックやパラリンピックが1年延期になるとは。しかし、人類2000年の歴史はウイルスとの闘いの歴史である。

ペスト、赤痢、コレラ、天然痘、黄熱病、マラリア、スペイン風邪、結核、エイズ、エボラ出血熱、デング熱、サーズ、マーズ、新型インフルエンザ、そして今回の新型コロナなど数多くの感染症が人類を襲ったがその都度制圧してきた。しかし、新型コロナは感染者数ゼロには中々ならないだろう。なぜなら、わが国でも、奈良時代疱瘡と呼ばれた天然痘は今回同様3年にわたって続いた。

この為、社会の動揺を鎮めようと、聖武天皇が命じたのは、東大寺大仏建造である。建造着手747年{天平19年}-大仏開眼752年{天平勝宝4年}これが、18世紀終わりのイギリスの農村部の開業医であるエドワード・ジェンナーが牛の病気である牛痘が人にうつると、その後天然痘にかからないと言われていた。
これに着目し、牛痘を少年に接種して効果を証明した。安全性の高いワクチンの発見である。
ジェンナーは後に「近代免疫学の父」と呼ばれ、この時からほぼ200年を経た1980年に世界保健機構{WHO}は地球上からの天然痘撲滅を宣言した。これらを考えると息の長い闘いである。

しかも、いつかはもっと毒性の強いものが人の社会に入ってくるだろう。何故なら、人類は人口増に伴う経済発展により、奥地の開発が進み、人が動物を通して未知の病原体と接することで新しい病気にかかることが20世紀後半から起きている。ましてやグローバル化の流れの中では、尚更である。ロシアのツンドラ地帯が温暖化で溶け始め、その中から未知のウイルスが発見されたニュースも伝わってきている。
こう考えると感染症も、繰り返される流行と同じで、豊かさや、新しさを常に追い求める暮らし方の中にあると思う。

いずれにしても、病院や車中は当分マスク着用しておけばよいと思う。

写真は、美人の女医さんから接種を受ける。

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令和5年薬神神社春季例大祭

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月8日{月}午前9時より恒例の薬神神社春季例大祭{主催・石倉雅俊薬神神社奉賛会会長}が執り行われた。
今年のGWの前半は好天に恵まれ、各地の行楽地などは、コロナ以前の賑わいに戻ったと言う。国内での旅行者数は2450万人との予想があったが、行動制限なし。スポーツ観戦もノーマスク、声出し応援可、感染症の位置付けが,第2類から第5類に移行もこれを後押ししたのだろう。

しかし、後半のお天気は下り坂になった。大祭当日もあいにくの小雨模様。止む無く神社に隣接の社務所から神社に向かっての神事となった。横川宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ、私を含む薬業関係者に続き,水野達夫滑川市長、尾崎照雄市議会議長、大門良輔県議会議員、杉田隆之市商工会議所専務理事等順次玉串を奉奠し、商売繁盛、交通安全等を祈願した。

石倉会長は5月7日まで開催されていた、企画展・「滑川の薬売り―売薬にまつわるあれこれ」を見てきた感想を述べ、幼少の頃、薬を整理している父との会話を思い出した。同時に先人の苦労も偲ぶなどの話しの後、コロナ後の社会の変化に対応することの重要性を述べ、業界を取り巻く環境は厳しい状況だが、一致結束して乗り切ろうと訴えられた。

又、来賓もそれぞれの立場で激励の言葉が述べられました。尚、今回、昨年9月85歳でお亡くなりになった、故・渡邉弘武氏が薬神神社に合祀されました。私個人としても大変お世話になった一人で、感慨深い思いを禁じ得ませんでした。
氏は昭和43年滑川市薬業青年部創設者で氏に誘われて設立総会に私は出席しました。氏は2代目青年部部長でこの時私が第一回富山県青年の船団員に応募した時、青年部幹事長の役職を新設し私に与えてくれるなど物心両面の支援のお陰で団員に選ばれた。

又、現在では何の抵抗もないが、昭和40年代半ばに配置薬に使用期限の導入を提唱された。しかし、保守的な考えの強い業界では、総すかんであったが、粘り強い運動の結果、昭和50年代前半には現在の配置期限の導入が決定された。
又、福島県協議会が毎年開催し、昨年第28回を数えた福島県中学生「家族の健康」作文コンクールを提唱し、実現に奔走したのも氏であった。今では最優秀賞に厚生労働大臣賞が授与されるなどは、社会的にも認知される団体であり、事業であることを証明するものである。

世間には様々な団体が催す行事の中で大臣賞が授与されることは中々ないことである。これも氏の功績と言っても過言でないと思う。
兎に角アイデアマンであり行動力があった人であった。そのような素晴らしい先輩が合祀されてゆくことを見ると、感慨無量なものを憶える。

大祭終了後、しばし業界の諸問題について意見交換し散会した。
社務所を出た時には、雨上がりとなり、青葉、若葉の木々の塵が洗い流され一層色鮮やかな緑が目に飛び込んできた。コロナも2類から5類になった日でもあり、新たなスタートになった様な気がした。

写真は、社務所から見た薬神神社。玉串奉奠する私。水野市長を含め全員写真。

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令和5年琵琶演奏会

逞しき 若葉青葉の せめぎ合い

5月5日・こどもの日に恒例の錦心流琵琶富山支部{支部長・杉本操・後援会長・中屋一博}の春季演奏会が、中川原町内詩吟の会の皆さんのご出演も頂き市内瀬羽町国登録有形文化財「ぼんぼこさ」{旧・宮崎酒造}で開催された。

当日は、こどもの日・端午の節句であり会場の土間には吹き流しの大きな鯉が数匹吊るされ、演奏場所には10種類の武者人形も飾られるなど雰囲気を盛り上げていました。
私は挨拶の冒頭思わず、こんな立派な兜なら大谷翔平選手所属のエンゼルス球団に寄付して使ってもらえばどうだろう。つい発言してしまいました。

それにしても当日午前中、私用で富山市へ出かけましが、8号線を走行中でも、屋外での鯉のぼりは全く見かけませんでした。家の構造上、屋外での設置場所や竿の長さ、保管場所など考えれば、屋内での武者人形に変化するのも時代の流れなのだろう。しかし、5月5日は歴史的にも、現在の実態も男の子の日である。この日が祝日で女の子の日、つまり3月3日桃の節句は祝日でない。

私の解釈では、戦後昭和23年7月国民の祝日に関する法律が制定された時、男女平等を考え、「こどもの日」としたのだろうと思う。当日午前11時富山市の気温が28,7度と全国最高気温であった。6月下旬から7月の暑さだという。
考えてみると、3月1日ホタルイカの解禁日には、漁獲量は僅か59匹。
以後今日まで記録的な不漁である。又、桜の開花や満開宣言は全国的に観測史上最速を記録している。以前話しましたが、昭和40年代私は、何度も青森県の「弘前城桜祭り」を見物した。時期は4月末から5月5日までのGWであった。

その後桜前線は津軽海峡を渡り、北海道に上陸すると言われた。それが、数日前、日本最北端稚内で蝦夷山桜の開花宣言が発表された。これで開花宣言は終了する。やはり、地球温暖化は確実に進行していると思う。

それにしても、日本は美しい。桜の時期は桜花爛漫、それが終わる百花繚乱、そして若葉・青葉の季節とくる。

さて、今回の演奏目録は
一 青葉の笛  演奏者 伊藤紫紺
二 詩吟{合吟「富士山」佐々明山 小田寿山 山口紀泉 山岸明山 神田恵子
三 羅生門   演奏者 嶺瑛水
四 詩吟{独吟}「大楠公」 前佛謙岳
       「早稲の香や」 山岸宏岳
       「自訟」    佐々岳晟
五 敦盛   演奏者  有澤結水

である。青葉の笛は源平合戦の折、平家の若武者平敦盛が一の谷の合戦で源氏の熊谷直実に討ち取られた時、敦盛が持っていた青葉の笛と我が子と同年代の若者の死を悼み、世の無情を感じ出家する。
その後一の谷を訪れた時、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえる。など歴史的故事に因んでいる。羅生門にしても平安時代後期の説話集「今昔物語集」に由来し、これを元に芥川龍之介の短編小説「羅生門」が書かれている。
詩吟も同様に歴史的な故事に由来している。

そんな中、今回、詩吟で山岸宏岳氏が松尾芭蕉の奥の細道紀行の折、滑川で詠んだと言う「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」を詩吟で郎ろうと吟じられた。「曽良随行日記」が昭和18年世に明るみに出て、芭蕉が滑川で宿泊したのが事実となる。
時は元禄2年閏7月13日である。この事実さえ市民から忘れ去られようとしている。残念なことである。山岸さんが詩吟の分野に芭蕉の句を取り上げられたことに敬意を表したいと思う。

先に「鯉のぼり」について話をしたが、大正2年「鯉のぼり」の歌がある。
①甍の波と雲の波 重なる波の中空を 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり
2題目からは省略しますが、大正2年である。この時「早春賦」もある。大正元年には「茶摘み」や「春の小川」大正3年には「故郷」や「朧月夜」などの名作が数多くあるし、私の母校滑川高校の卒業式では、今でも在校生は明治14年の「蛍の光」卒業生は明治17年の「仰げば尊とし」を歌う。

学ぶ意欲があれば、蛍の光を集めても勉強をする例えであり、わが師の恩とは、恩師に対する感謝の気持である。
詩吟や琵琶の演奏曲目の内容は戦後教育の中で、忘れ去られてきたものである。漢詩はいつの間にか、教育の中から消えてゆこうとしているし、琵琶を含め日本の良き伝統文化も同じではないだろうか。
古くても大事なことは沢山あることを挨拶で話しました。

参考まで五節句とは
1月7日{人日・じんじつの日}
3月3日{上巳・じょうみ・桃の節句}
5月5日{端午の節句}
7月7日{七夕の節句}
9月9日{重陽の節句}

写真は、パンフレット。私の挨拶。会場風景。

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「第11回{第72回}日本海開き」

「海」
 松原遠く消ゆるところ 白帆の影は浮ぶ 干網浜に高くして 
 鷗は低く波に飛ぶ 見よ 昼の海 見よ昼の海 
 {大正2年・文部省唱歌}

恒例の滑川高校海洋科による「日本海開き」が5月1日{月}午後13時10分より上市川河口滑川市高月海岸で行われた。
これは、かって水産高校時代の1951年{昭和26年}から始まり、海洋高校、そして現在の滑川高校へと引き継がれている伝統行事の一つです。再編統合から数えて今回は第11回ですが、通算第72回です。
県内では水産関係の高校は、以前単独校として滑川市の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校がありましたが、再編統合の結果、海洋高校は滑川高校と有磯高校は氷見高校と統合し,旧校の精神を引き継ぐ形で各校に学科として存続し今日に至っています。

当日は、1ー3年生100名が参加しました。目的は「海洋高校の伝統を継承し、滑川高校の溌剌とした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い意気の高揚を図る」とあります。この様な目的ゆえ、あえて「富山湾開き」と言わず、志を高く持つようにとの思いで「日本海開き」となった様な気がします。
尚、この名称は第1回からだそうです。

この日は、やや風が強かったものの、海水温約15度、気温24度前後と各学年ごとに一斗缶にマキが焚かれる中、空一杯に広がる青空など、まずまずのお天気でした。ただ波が少し高かったが泳ぐ場所が突堤や消波ブロックに囲まれている為、以外に消波ブロックの沖より静かでした。ただ、泳ぐ場所が上市川河口傍のため真水が入り込み、消波ブロックの沖合より多少海水温は冷たかったと思う。

最初に、ピストルの合図で3年生が飛び込み、金田校長の太鼓が生徒を鼓舞し約30m沖合の消波ブロック手前の「浮き」まで泳ぐのである。3年生が岸に上がると大門県議の太鼓で2年生、柿澤市副市長の太鼓で1年生と繰り返し、最後に私が打ち鳴らし、全員による遊泳で終わりました。中には海に入らず波打ち際で戯れる生徒もいましたが、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つと思います。

それにしても、元気溢れる姿から私も元気を貰いました。又、県内でこの様な行事があるのは本校だけであり、今後とも良き伝統行事として引き継がれてほしいものです。

写真は、太鼓を打ち鳴らす金田校長と私。

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稗苗清吉県議を慰労する会

「百術不如一誠」

4月14日{金}午後6時よりわが家で、旧知の中である富山県議会議員・稗苗清吉氏の退任慰労会{任期は4月29日まで}をささやかに開いた。氏とは40年来の付き合いで私にとっては良き兄貴分としての存在である。
氏は、昭和55年{1980}36歳で魚津市議会議員に初当選。議長等経験後5期途中の平成11年{1999}55歳で県議選初当選。
以来6期24年間議長等々の要職を務め、今度任期満了79歳をもって引退を決意されました。

79年の人生の半分以上の43年間の長きにわたり、市議、県議として地方政治一筋に歩まれました。氏は「台所のつぶやき」「路地裏のささやき」を政治信条として、小さな声を、庶民の声を、政治の舞台で具現化を図ると言う大衆政治家であります。

こんなことから、多少の慰労と思い友人・知人に声を掛けました。当日の出席者は、藤井富山市長、美濃部副市長、森前富山市長、水野滑川市長、柿沢副市長、中尾富山・魚津両市名誉市民も長崎市へ会議で出張中にもかかわらず、長崎―羽田―富山と乗り継ぎ駆けつけて頂きました。

稗苗氏は、数多くの思い出を語る中で、特に印象深いとして、平成29年{2017}5月27日―29日天皇・皇后両陛下が富山県魚津市の桃山運動公園を主会場に開かれた第68回全国植樹祭ご出席のため富山県を訪れられた折、当時の県議会議長としてずっと両陛下に随行した時、食事の席で「くすりの富山」をアピールすべく「富山の置き薬」を話題にしたところ,美智子皇后様が「あっ、あの紙風船の・・・」と即座に仰せられ「富山の置き薬」をご存知だったことに、とても感動した事など話されました。

今後も県外に出かけるときは、紙風船を持って富山の薬と富山県をPRするとの力強い言葉もいただきました。私も平成6年{1994}当時の皇太子殿下、雅子妃殿下{現・天皇・皇后両陛下}がインターハイが富山県で開催の折、来県された時、滑川市の企業を訪問され、企業の玄関でお迎えした。その時、二言三言ご挨拶したことを思い出した。

中尾氏の乾杯で懇談に入り数々の思いの話に花が咲きました。また、友人である民謡歌手の長岡すみ子さんから、三味線に得意の歌声を披露するなど、和やかな中にも稗苗氏の更なる活躍を祈った3時間余であった。
9時過ぎ稗苗氏の奥さんが迎えにおいでになり、しばし懇談しましたが、43年間の長きにわたり、影の力として夫を支えて来られたことに敬意を表しました。

稗苗氏の人柄は「百術不如一誠」であり、冒頭この言葉を記しました。

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