なかや一博 ブログ

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錦秋流琵琶追悼演奏会

よきことも 目にも余るや 春の花

どなたの句かは知らないけれど 私の好きな句の一つです。
さて、暦の上では初夏とは言え、富山空港では32.5度の真夏日を観測した5月5日は抜けるような空の青さ。かって風をはらんで青空を泳ぐ「こいのぼり」の姿があちこちで見られたが、今はすっかり影をひそめた。
そんな5日、錦秋流琵琶全国一水会富山支部{支部長・嶺瑛水・後援会長・中屋一博}の演奏会が故・前支部長・杉本紫水{操}さんの追悼を兼ねて、滑川市瀬羽町、国登録有形文化財・旧宮崎酒造「ぼんぼこさ」を会場に開催された。

それにしても、別れとは、実にアッけなく、実に簡単に、実に突然訪れるものである。
杉本さんの演奏を最後に聴いたのは、昨年10月22日、高岡市文化芸能館能楽堂であった。この時、現役奏者としては県内最高齢で90歳の吉崎楓水さんと「富士山」を合奏され、薩摩琵琶特有の大きな撥を華麗に捌き、力強い音色と語りが遺憾なく発揮され、会場を埋めた聴衆を魅了された姿が忘れられない。
その後、11月に入り高岡での演奏会の写真を届けて頂いたのが最後となった。数日後入院。僅か一週間余りで旅立たれようとは想像も出来なかった。私が後援会長をお引き受けしたのも杉本さんとのご縁であったから尚更であった。

当日は、昨年合奏された吉崎楓水さんと、杉本さんの娘さんである有沢結水さんがやはり合奏で「青葉の笛」を演奏された。平家の若武者、平敦盛が源氏の武将熊谷直実に打ち討られ、彼の懐から青葉の笛が出てきた。
世の無常を感じ出家した直実が再びこの地を尋ねたところ、どこからともなく青葉の笛の音が聞こえてきたという故事に因んだものであるが、私はこの「青葉の笛」と杉本さんの琵琶の音と重ね合わせて聴こえたような気がした。

81歳。琵琶を始めて30年。これからが円熟の境地。そんな矢先の別れ。やはり残念である。
私は弔句として「忽として 輝き尽くし 散るもみじ」と詠んだ。又、演奏曲目「晩歌」は大内隆作氏が追悼の誠を捧げ作詞されたのを、高堂瓏水さんが、在原業平の辞世の歌「ついに逝く 道とは予{かね}て聞きしかど、去年今年とは 思わざれけり」や漢詩・安達漢城作「追悼の詞」を挿入し朗々と奏でられたのには胸を打たれた。

又、新支部長に就任された嶺瑛水さんより、杉本さんの功績を称え、杉本さんの意志を引き継ぎ会発展に尽力する旨話され,私からも挨拶の中で同様のことを話し、今後とも変わらぬご支援をお願いしました。

さて、この日は「こどもの日」であり、会場の土間には十数匹の大きな「こいのぼり」が吊り下げられたり、五月人形も多数飾られ「こどもの日」に相応しい会場であった。私は挨拶の中で「鯉のぼり」について多少触れた。竜門の滝を登った鯉が龍になる中国の故事に因むことはよく知られている事だが、「こいのぼり」の歴史は意外に浅いのには驚いた。

当日の北日本新聞「天地人」によれば「庶民の中で「こいのぼり」が飾られたのは江戸時代になってからでである。男の子の立身出世を願って、和紙で作られた鯉を一匹だけで始まった。明治になって木綿製が現れ、昭和に入り高度経済成長期にナイロンの商品が出た。丈夫で軽く、量産が出来る。
1962年埼玉のメーカーが5色セットで売り出すと、評判に。以降は5匹も増えて第2次ベビーブームの70年代は,史上最もたくさん泳いだとされる。{天地人より}

そこで「こいのぼり」の歌が2曲あることを話した。
①「鯉のぼり」大正2年{1913}
 甍の波と雲の波 重なる波の中空を
 橘かおる朝風に 高く泳ぐや鯉のぼり

②「こいのぼり」昭和6年{1931}
 屋根より高いこいのぼり 大きい真鯉はお父さん
 小さい緋鯉は子供たち おもしろそうに泳いでる

大正2年の「鯉のぼり」は少しむずかしい、ということで昭和6年に新たに作られた。
今から94年前の歌が今でも保育園や幼稚園で何の抵抗もなく歌われているし、これに変わる歌もない。
つまり、単に古いから、或は戦前の歌云々でなく、時代が変わっても残すものと、屋外の鯉のぼりが時代の流れによって,五月人形のように変わってゆくものがある。飾られた「鯉」は変わっても、歌は100年経っても色褪せることなく歌い継がれている。

私は琵琶も能楽も詩吟も漢詩の世界も同様と思う。琵琶で奏でる演奏曲目は、ほとんど歴史的故事に因んだものばかりである。親子の愛や肉親の情など、今の社会で失われつつある大切なことを教えている。「不易流行」今一度考える機会になった。
会場一杯に訪れた人々にとって、杉本紫水さんへの追悼の演奏会になったと共に、琵琶に親しむ機会になったとすれば幸いです。

写真は、挨拶する私。新支部長の嶺瑛水さん。合奏の吉崎楓水さんと有沢結水さん。 

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第12回(第73回)日本海開き

立山に かすみて遠し 鯉幟  高嶋学人

5月1日{水}午後1時から滑川高校{校長・金田幸徳}恒例の「日本海開き」が上市川河口、高月海岸で行われた。
これは、かって県立水産高校時代の昭和26年{1951}から始まり、平成12年{2000}海洋高校と校名を変えた後も続き、平成22年{2010}高校再編で現在の滑川高校海洋科へと引き継がれ、再編後から今年は12回目、通算73回の歴史を誇る伝統行事である。

目的は「海洋高校の伝統を継承し、富山県立滑川高等学校海洋科の生徒のはつらつとした若さと旺盛な心意気で海に挑む海洋精神と粘り強い、意気の高揚を図る」とある。以前、県内では水産関係の単独校として滑川の海洋高校と氷見市の有磯高校の2校があったが、再編統合により海洋高校は滑川高校と、有磯高校は氷見高校と統合し、旧校の精神を引き継ぐ形で、総合高校の一学科として存続し現在に至っている。

獲る漁業から育てる漁業へと転換が図られる中、漁業従事者の後継者難に加えて、最近では海水温上昇などで、北海道では「鮭」が不漁で「ぶり」が大漁という。富山湾内でも本来南方系の「シイラ」が獲れだすなど、漁業を取り巻く環境も大きく変化しつつある。
特に水産関係の高校で単独校は近県では新潟県立海洋高校{糸魚川市能生}1校で、石川県立能登高校、福井県立若狭高校には富山県と同様、総合高校に水産関係の学科がある。単独校ではないが県内の2高校に水産関係の学科があることは、他県と比べれは良しとしなければならないのかもしれない。かって水産大国日本を支えた高校がこの様な状態だから一抹の淋しさを禁じ得ない。

さて、当日の天候は、前日の雨も上がり、曇り空とは言え気温14℃。風も少しあり、海も荒れ模様.海水温度13℃と見物している私でも肌寒く感じる位でしたから、体感温度はもっと低かったと思われた。
ましてや、遊泳場所は上市川河口ですから真水も入り込み生徒諸君にとってはかなり寒かったと思う。それでも飛び込むのだから若いことは藁やましい。

最初に学年ごとに円陣を組み、気合を入れた後、ピストルと太鼓の合図で3年生が一斉に海に飛び込み30m程先の「浮き」まで泳ぐ者、波打ち際で水を掛け合う者など様々でした。しかし、これも海洋科の生徒しか味合うことの出来ない思い出の一つになると思う。
3年生が上がると、2年生、1年生と順次行い、その間金田校長、私、上田市教育長、大門県議が太鼓を打ち鳴らし、生徒の士気を鼓舞しました。

これが終わると、全員が再度飛び込み終了となりました。いつも思うことだが、富山湾内にあって「日本海開き」とは少々大袈裟に聞こえるが「日本海開き」の言葉から、又、目的の中にもあるように「気宇壮大」つまり心意気がきわめて大きく、盛んであること。
最近の若者から失われつつこの言葉を、生徒の一人でも感じ取ってくれたらと思う。こう考えるのもやはり私自身歳を取った証なのかもしれない。

写真は、太鼓を打つ金田校長と私。

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