なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2025年2月

令和6年度同窓会入会式

2月28日 {金}県立滑川高校同窓会入会式が行われた。本校の場合は、卒業と同時に入会になるので卒業式の前日に式が行われる。
今年は192名入会であったが、現在会員は3万7千を有する県下でも最大規模を誇り、各界各層に有為な人材を輩出し各分野において活躍されていることは嬉しい限りです。誰にでも生まれ育った「故郷」があるように、青春のひと時を過ごした「母校」がある。

中でも青春の中心舞台は多感な学生生活であり、それを回顧する時、追憶の中から懐かしい思い出が去来し哀歓彷彿として思い浮かぶ。固い友情に結ばれた出会いと別れという青春の讃歌が鮮やかに蘇る。しかし、学生諸君には学生時代の思い出は残っても、同窓会への意識は稀薄であろう。

しからば、同窓会とは何か。それは日頃同窓会に関心を示さない人でも、例えば村上英士郎君が昨年パリ五輪にウエイトリフティング選手として出場した時、多くの卒業生は素直にそれを喜び、友人、知人に誇らしげに話す。
それが同窓会であり、その時母校の存在を意識する。県外在住の県人が帰省し、青空の中に広がる立山連峰の雄姿を見た時、富山県人であることを再認識するという。
それが「故郷」の存在なんだろう。

このように「故郷」や「母校」の存在は人それぞれの心の拠り所として生き続けているものと思う。と話しました。

もう一点、今年は阪神淡路大震災から、30年の節目の年である。平成7年{1995}1月17日午前5時46分、M7,3、の巨大地震が発生し、死者6432名の大惨事となった。
この死者の中に神戸大学の学生39名がいた。その39名の顔写真とコメントをつけ追悼特集が2月1日付読売新聞全国版に掲載された。4年生で新聞社や銀行など既に就職が内定していた人、あるいは祖国の発展を願い留学生として来ていた人等の中に広島市出身で法学部2年生の加藤貴光君がいた。

新聞記事では「彼は西宮市のマンションで圧死、将来国連職員か国際ボランティアになるのが夢だった。丑年生まれで愛称は「ウシ」。荷物を持ったおばあさんを見つけると「飛んで行って手伝うような優しい子した」と母律子さん。大学に入る時、神戸まで送った母親のコートのポケットに、息子は手紙を忍ばせたという。{中略}。その全文を生徒に聞かせてあげました。

全文をここに記します。

親愛なる母上様
あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。
これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく、大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。

私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・。
この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。そして今、私は、この翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。

これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい旅をすることになるでしょう。疲れて休むこともあり、、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。
しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。
住む所は遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたは、ひとりではないのですから・・・・。

それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後にあなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。

翼のはえた「うし」より

この全文を生徒に聞かせて「生徒諸君と同年代の19歳の青年が将来に大きな夢を持ちながら、20歳の短い人生を終えた。私自身19歳の時、人を愛すること、自分戒めること、人に愛されることや、親への感謝や他人へのいたわりの心を持っただろうか。恥ずかしながら無かったと思う。この手紙を読んだ時、改めて命の尊さ、親や他者への感謝、そして人を愛することや人生とは?を考えるきっかけを与えてくれた」
と192名の生徒諸君に話し、加藤貴光君の手紙から何かを学んでほしいと話しました。

最後に生涯学ぶことの大切さを訴え、幕末の儒学者佐藤一斎の言葉で激励と入会歓迎の挨拶としました。

「少にして学べば壮にして為す 壮にして学べば老にして衰えず 老にして学べば死して朽ちず」

写真は、挨拶と代表者に記念品贈呈。

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乃木希典旧邸宅と乃木神社

2月19日午前中時間があったので、地下鉄千代田線乃木坂駅横の乃木旧邸宅と乃木神社を参拝しました。
旧乃木邸は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われ、明治35{1902}年に新築されたものです。乃木夫妻が大正元年{1912}9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って、日本人最後と言われる殉死するまでここに住んでいた。

邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られているという。
旧邸宅と馬小屋は、乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在港区が管理している。尚、馬小屋は旅順陥落後、敵将ステッセル将軍から贈られた名馬壽号の厩舎であったという。また、邸宅前には、水師営にあったナツメの木の孫が植樹されていた。

乃木神社はその名の通り、乃木将軍と静子夫人を祭神として祀っている。また入場無料の小さな資料館があり、しばし見学した。昨年9月下関の乃木神社や資料館, 夫妻や名馬壽号の銅像、ナツメの木などは9月のブログで書いたが、それを思い出し、日露戦争と太平洋戦争とを比較しながら戦争の引き際、日露戦争で得た教訓と財産。それを太平洋戦争ですべて失った。

時あたかも今年は日露戦争から120年、昭和になって100年、戦後80年の節目の年である。ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスの戦闘を見ても、戦争は権力者によって始められ、その被害は子供や何の罪もない庶民である。やっぱり戦争はやるべきでない。万物の霊長たる人類の最も愚かな行為が戦争である。そう思い乃木神社を後にした。
午後、全弓連理事会に出席し、19時過ぎ無事帰宅した。18日は1万8千歩余り、19日1万2千歩余り、我ながら良く歩いたと思う。

写真は、旧乃木邸と左手ナツメの木。乃木神社。

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経済産業省・総務省・文科省友人

官邸の後、経産省に藤木俊光経済産業政策局長、そのあと総務省に新田一郎審議官を訪ねた。藤木氏は富山県商工労働部長、新田氏は富山県経営管理部長などを務められた方で、その時からの知人です。お二人共、橘・佐藤氏同様国会開会中にもかかわらず時間を割いて頂き感謝です。

それにしても、局長や審議官ともなると個室が与えられ、10人程の会議ができるテーブルが配置してあり、応接セットがあり、専属の秘書がいるなど課長とは雲泥の差です。しかも感心したのは、約束した時間の2時間程前に秘書の方から私のケータイに会議が10分ずれたため、そのようにお越しください。との電話があることです。
私の感覚でいえば10分程度なら、私が行った時その旨話されれば良いと思うのだが、さすがと感心しました。お二人とは与党過半数割れした国会運営などの話しにも及びました。

写真は、官邸での反省から座って撮りました。藤木局長。新田審議官。

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文科省友人との懇談会
18日夕、文科省友人と懇談会を行いました。これは平成16年から滑川市が文科省の25歳前後の研修生を2週間から3週間ほど、昨年まで21年間受け入れていました。しかし、新型コロナで3年間、東日本大震災で1年派遣が中止になりましたが、今日まで引き継がれ計17名を受け入れました。

それが15年ほど前「文科省ナカヤ会」を作ったから私が上京の折、集まろうとなり、年に1-2回懇談会を開いています。
平成16年初めて受け入れた1期生は現在文科省より山梨県教育長に出向している人や、スポーツ庁の課長或は各都道府県の教育委員会の管理職として出向している人、パリへ赴任している人など多彩な顔ぶれの集まりです。
それ故、全員が揃うことはむずかしいですが、常時8人前後集まり当日は国会開会中で答弁書作成準備などで突然の欠席者が出ましたが、和気あいあいの集いでした。

しかし、この青年たちが明日の文部行政を背負っていくことを思うと、頼もしくもあり、心もとない様に感じたりもする。人生のささやかな先輩として「官僚としての矜持を忘るるなかれ」かって遣隋使や遣唐使は、命がけで荒海を渡り隋や唐の律令制度や仏教や新たな文化を吸収し、「国つくり」に務めた彼等の「志」に思いを馳、公務員になった時の初心を忘れてはならない。と激励しました。

各人の近況を語り合いながら話しに花を咲かせました。また、各省庁にもこのような制度があるが、この様に一堂に会する機会があるのは多分この会だけだろう。とのことでした。名残を惜しみつつ再会を約し散会しました。

写真は、メンバーとの懇談会

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総理官邸

皇居三の丸尚蔵館鑑賞の後、総理官邸に内閣官房副長官・衆議院議員橘慶一郎氏と同じく佐藤文俊氏をそれぞれの部屋へ訪ねました。副長官は衆参両院から各1名、事務方から1名計3名です。佐藤氏は、昭和50年代中沖知事当時に自治省から富山県財政課長に出向されて、最後は総務省事務次官を務められた方で、私とは総務省時代からの付き合いです。

3人の副長官のうち2名が富山県関係者と聞いただけで、なんとなく心強く、嬉しく感じます。昨年の石破政権誕生と共に就任されたのですが、橘氏は、就任後、石破首相の南米ペルー、最近の訪米でのトランプ大統領との会談に同行されるなど多忙を極めておられます。しかも国会開会中です。そんな中、面会の時間を割いて頂いたのにはただただ恐縮、感謝しかありません。

以前官房副長官は、安倍政権の野上浩太郎氏、小泉政権の長勢甚遠氏と事務方で大門出身の二橋正弘氏の時も訪問しましたが、与党過半数割れの政権運営ですから苦労もひとしをのものがあろうと思います。
しかし、日本国の政治の中枢にいることを実感し、政治家冥利に尽きると思うし、必ず重責を全うされることと思います。

それにしても、官邸のセキュリティーは日本一厳しいと改めて感じました。議員会館入館時には、金属探知機が反応しなかったネクタイピンが、官邸の探知機では反応するのである。さすがです。最後に国会で新年度の政府予算案が通過すれば、ゆっくり話の機会を持とうと別れました。

又、橘、佐藤両氏の背の高いのには驚きました。帰宅後写真を見て大人と子供の様な姿には啞然としました.両氏共180㎝以上はあると思います。

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「瑞祥のかたち」

降りつもる 深雪に耐えて色あせぬ
       松ぞ雄々しき 人もかくあれ (昭和天皇・昭和21年歌会始め)

2月18日、今冬2度目の寒波襲来の天気予報が出ている朝、一面銀世界の滑川を後にし、全弓連理事会出席のため上京した。さすが日本は狭いといっても広い。東京は快晴である。

さて、今回も皇居三の丸尚蔵館の企画展「吉祥のかたち」を鑑賞した。
尚蔵館には約2万点の作品が収蔵されており、その殆どが名品ばかりで、年数回企画展として公開されている。今回は1月4日―3月2日まで表題の企画展で、「新しい年の到来を喜び、人生の節目に幸福を願う気持ちは、古くからさまざまな造形に残されてきました。
中でも古代中国において不老不死の仙人が住むと考えられた蓬莱山は日本でも吉祥図として描かれ、長寿を象徴する鶴と亀が添えられた縁起物としても表されました。

やがて理想郷としての蓬莱山への憧れは、霊峰富士の姿に重ねられました。又、鳳凰は、優れた天子が世に現れる兆しとして古代中国で尊ばれた伝説の鳥です。
古くより鳳凰は高貴さの象徴として絵画や工芸に取り込まれ、皇室ゆかりの品々には数多く登場します。{瑞祥のかたち・図録より抜粋}
今回46点展示してありましたが、3点ご紹介します。

①日出処・日本 {234,3×448、6} 横山大観 {1868–1958}作
昭和15年に開催された「紀元二千六百年奉祝芸術展覧会」の出品作品です。
初代神武天皇の即位から2600年を記念する一大事業として企画された同展に出品するため、渾身の力をこめて製作したものです。生涯に二千点近い富士山の絵を描いたとされる大観ですが、その中でも最大級の作品で、出品後,大観本人の希望により昭和天皇へ献上されたものです。
本作は朝陽輝く霊峰の堂々たる姿を描いたものです。大観には富士山を描く際のこだわりがあり、江戸時代の大噴火でできた宝永山は決して描きませんでした。大観にとって日本の国土を象徴する富士山は、最も理想化された姿・形でこそ描かれる必要があったからです。

②国宝・動植綵絵・老松白鳳図 {141,8×79,7} 若冲{1716–1800}
松にとまった一羽の真っ白な鳳凰を描き、片足をあげて翼を広げたポーズで、うねるように流動する飾り羽などが、画面にダイナミックな動きを与え、細かく重ねられた羽毛の白い線が、神々しさを加えています。明治22年相国寺から献上。

③宝船「長崎丸」高さ・90・幅・100 奥行・59 台・木・蒔絵一点 江崎栄造 {1878ー-1965}
大正5年11月に大正天皇が福岡県下を行幸の折、長崎県から献上された鼈甲細工の宝船「長崎丸」。日輪に鶴が描かれた帆に風をはらみ、大海原を進むこの宝船には、農産物や水産加工物など、長崎県の重要な物産27種が積載されています。
作者の江崎栄造{1887–1965}は宝永6年から続いた鼈甲細工の製造販売業の老舗の6代目で皇室への献上品も複数手がけました。

①②③の解説はいづれも図録より抜粋

いづれにしても、二万点にも及ぶ名品が東京大空襲の難からも逃れ、今日まで保管されて来たことに驚きます。

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