なかや一博 ブログ

日別アーカイブ: 2025年7月5日

一休寺 {酬恩寺}

7月4日乃木神社見学後、今日の最後の拝観場所は京田辺市の一休寺である。
とんち話で有名な一休宗純和尚が晩年を過ごしたお寺ですが、鎌倉時代妙勝寺として創建。その後、戦火に遭ったが、一休和尚が康正年間{1455ー56}に再興。酬恩寺と号した。

苔に覆われしっとりとした風情のある境内には本堂、方丈の間、虎丘庵などとともに、禅宗独特の枯山水庭園もあった。そんなに広い庭ではないが、典型的な江戸時代の禅苑庭園で、江戸時代初期のものとしては第一級と言われている。作庭は石川丈山など3名の合作と言う。眺めているだけで、何となく心が落ち着くから不思議である。
また、方丈の間は江戸時代の慶安3年に加賀3代藩主前田利常の寄進により再建された。利常は天和元年{1615}大阪夏の陣で大阪に向かう途中当寺に参詣したという。
また、一休和尚の出身寺の京都紫野・大徳寺へ毎日通う時に使用した「輿」が展示してあった。一休寺から大徳寺まではかなりの距離である。輿に乗ってとは云え時間を要したと思う。

一休さんと言えば「とんち話」が有名である。これを聞いた殿様が「屛風の絵の虎を縛ってくれ」と頼みました。勿論、絵の虎が出てくる筈はありません。一休さんは「縄を用意して下さい」と言い「虎を屛風から追い出して下さい」と頼みます。殿様は、「虎は出せない」と言うと一休さんは、「出てこない虎を縛ることは出来ません」と答えました。これに殿様は感心したと言う。

また、境内にある橋の袂に表札があり「このはし、わたるべからず」とあり、私は橋の真ん中を渡りました。いずれも一休さんに関する有名な話です。記念館も見学したが、加賀藩が一休寺の再建に何故尽力したのかは、チケット売り場の人に聞いても分からなかった。

私の勝手な解釈ですが、加賀藩2代利長に子がなかった為、異母弟の利常に家督を譲った。その恩を利常は生涯忘れなかったという。利長は隠居後、高岡城で過ごしここで亡くなります。そのため利常は利長の立派な墓所を建て、その菩提寺として高岡山瑞龍寺を建立した。これが現在国宝に指定され、曹洞宗であり、禅宗である瑞龍寺である。

戦国の武将は徳川家康を初め宗派を問わず多くの寺院を庇護した。禅宗の一致点があるものの、この流れの中でのことでないだろうか。見学後夕闇迫る中、甥っ子の車で宿泊先の彼の家に向かった。
運転してくれた彼に感謝です。

写真は、虎の屛風。橋の真ん中を渡る私。枯山水の庭園。

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伏見乃木神社

桃山御陵参拝後、近くの乃木神社を参拝した。乃木神社は全国に7か所ある。
神社建設の理由はほぼ同じで、明治天皇への忠誠心や日本史上最後の殉死とも言える夫妻の死を悼み創建されている。伏見乃木神社は、明治天皇御大葬の明治45年9月13日の大葬に、京阪電車の代表として参列した村野山人取締役は、乃木大将の一周忌を期して京阪電車を退職し乃木神社の建立に残りの生涯と私財を奉じられた。

建設場所はやはり明治天皇の御傍ということでこの地が選ばれたのであろう。境内には乃木夫妻を合祀した乃木神社,大将が少年期を過ごした下関市長府の旧乃木邸を移築した建物。乃木大将の胸像。
また、日露戦争当時、中国東北区柳樹房で乃木大将が指揮を執り、第三軍司令部として使用された家屋を村野氏が現地に赴き、所有者と家屋の買付交渉を行い、譲渡許可を得て解体し資材一切をここに運び移築して記念館とされた。乃木大将寝室は当時のまま今に伝えている。
実に質素な寝室であった。外見は一瞬、水師営会見場と間違うほどよく似ていた。

当時の中国の農村によくある家屋の風景であろう。そして、「水師営の会見」の歌の歌詞にある「庭に一本棗{ひともとなつめ}の木」と歌われた棗が植樹してあった。
昨年、下関長府、そして東京の乃木神社。それ以前には西那須野乃木神社も参拝しましたが、それらも含め伏見乃木神社以外の他の6か所の乃木神社を簡単に紹介します。

函館乃木神社
大正元年{1912}に社団法人函館教育会が乃木将軍の百日祭を行ったことが始まりで、
その後、大正5年有志が相寄り乃木神社を創建し、乃木将軍と妻の静子を祀り、夫婦和合の神として信仰されているという。

室蘭乃木神社
正式名称は「御傘山神社」と言い乃木が函館の御傘山神社を崇敬していたということから、その末社として、乃木夫妻を祀る神社として建立された。

西那須野乃木神社
明治24年{1891}この地に農地を求め別邸を建てて滞在した。「農は国の大本なり」とし、自ら鍬を手に畑を耕し、農業を実践しました。乃木は別邸での生活を通じて地元住民と接して交流し、地域に溶け込んでいたという.夫妻の殉死後、その遺徳を偲び、地元の人々の要望により、農業を行った地に乃木神社が創建された。

東京乃木神社
港区赤坂8ー11-27に乃木の私邸があります。明治天皇に深く忠誠心を誓い、天皇崩御の際に夫妻が殉死した処でもあります。その忠誠心と武勲を称え、乃木邸を訪れる人が絶えなかったことがきっかけになり、中央乃木会が組織され,大正5年{1916}その武勲と忠誠心を称え邸内に祀られたのが乃木神社の始まりです。

善通寺市乃木神社
明治31年善通寺市に新設された陸軍第11師団の初代師団長として着任した縁があり、その忠誠心に感銘を受けた人々が夫妻を祀る神社として、護国神社内に創建した。

下関市長府乃木神社
乃木は幼少期を長府で過ごし彼の郷里とも言える場所です。夫妻の殉死を悼み大正5年{1916}乃木邸の敷地内に創建されました。
この様に、各地に乃木神社があるのは、忠誠心と夫妻の殉死が赤穂浪士討ち入りと重なり、日本人の心を揺さぶるのであろう。それ故、今日まで長く語り伝えられているのと思う。

写真は、乃木神社。柳樹房の旧第三軍司令部。乃木大将の胸像。移築された長府の乃木邸。

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京都伏見桃山御陵

よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ  明治天皇

みがかずば 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけれ 昭憲皇太后

7月4日{土} 8時16分富山発{つるぎ}で京都へ。奈良線に乗り換え、桃山駅11時下車。ここで迎えの甥っ子の車で桃山御陵を訪ねた。
桃山御陵とは、明治天皇の御陵で東西127m 南北155m、上円下方の形で、それぞれに3段に築成。下段の方形壇は1辺約60m。上段の円丘部の高さ6,3m、表面には、さざれ石が敷かれている。御陵の東に一回り小さい昭憲皇太后の東陵がある。
私は、今回初めて知ったのであるが、この他、桓武天皇柏原陵、後花園天皇陵の計4人の陵がある。

特に明治天皇は「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」という天皇の生前の意思でこの地が選ばれたという。第123代大正天皇と貞明皇后,第124代昭和天皇と香淳皇后は東京八王子市にある武蔵陵墓地であり、桃山御陵同様上円下方形である。

形状は、時代によって異なるが、古くは円墳や前方後円墳などの高塚式の広大なものが多く、中でも仁徳天皇陵は、三重濠を巡らす前方後円墳で、面積約46万4千㎡を有する最大規模である。仏教等の影響により火葬も行われたことから、陵墓の規模は小さくなり、平安時代末期からは方形堂、多宝塔、石塔などを用いて寺院に葬ることが多くなった。

孝明天皇が慶應3年{1867}に崩御すると、神仏分離の影響から、山陵の復活を望む運動が起きたという。陵は天智天皇陵の付近に造営する意見もあったが、皇室との関係が深く「御寺{みてら}」と呼ばれた「泉涌寺」が反対し、結局、境内に、後月輪東山陵{のちのつきのわのひがしのみささぎりょう}として円丘土葬で造営された。
これは江戸時代初期の光明天皇から昭和天皇まで埋葬方法は伝統的な土葬の形式を踏襲して来た。しかし、宮内庁は2013年に当時の天皇皇后両陛下の意向を受けて、将来の天皇の埋葬方法を火葬に変更する方針を発表しました。

さて、明治天皇は生涯9万3千首を超える和歌を詠んだという。冒頭の歌はその一つである。明治37年日露開戦を前に戦争を憂慮する心情である。
昭憲皇太后も3万首を超える和歌を詠んでいる。冒頭の一首は明治9年{1876}東京女子師範学校{御茶ノ水女子大学}に下賜された和歌である。

また、昭和天皇が太平洋戦争回避止むなしに至ったとき、明治天皇の「よもの海・・・・」を引用されたという。また、敗戦の翌年昭和21年{1946}1月の歌会始めで詠まれた「ふりつもる、深雪{みゆき}に耐えて色あせぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」この歌に、多くの国民が励まされたという。

昭和天皇が大正13年{1924}摂政宮当時、11月3日北陸地方における陸軍特別大演習御統裁のため金沢駅より石動駅へ行啓。
また、10日金沢駅より富山へ行啓.この時詠まれた有名な御製が「立山の 空にそびゆる雄々しさに ならえとぞ思う 御世の姿も」
県では御製碑建立を計画し、立山三ノ越に建立し、東京音楽学校教授・岡野貞一氏に作曲を依頼する。岡野氏は、文部省唱歌「故郷」や「朧月夜」など多数の名曲を作曲した人である。東京富山県人会では、今でもこれを「立山の賦」として出席者全員で合唱している。

私が訪れた7月4日は、気温30度を越す真夏日だあったが、暑さのせいか幸い観光客は殆どいなかった。御陵へ直行する約220の階段は余りにも急なため、迂回し東陵から御陵と回り階段を降りた。結果的にこれが幸いして、回り道は少し坂道とは言え、鬱蒼と生い茂った樹木を通り抜ける心地良い風と緑陰。静寂の中で、小鳥の鳴き声と砂利を踏みしめる音しかしない空間。これが神域というものなのかも知れない。

帰り階段を降りたところで、京都市内の大学生の空手部部員4人が階段を利用してトレーニングに励んでいた。出会ったのはこの程度の人だけであった。明治天皇は慶應3年{1867}1月9日14歳で即位し、以後、大政奉還から鳥羽伏見の戦いのあと、明治2年{1869}2月9日、後の昭憲皇太后になる一条美子{はるこ}と結婚。廃藩置県から西南戦争、日清・日露の戦争と、まさに激動の時代を生き抜き明治45年7月30日61歳で波乱の生涯を終えた。陵墓位置は旧伏見城本丸跡で墳丘は天守閣南にあたる。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の冒頭「誠に小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・・」
明治天皇の生涯もまたこのような時代であったことを重ね合わせ考えるひと時であった。

参考まで
明治天皇 嘉永5年{1852} 11月3日生まれーー明治45年{1912}7月30日 61歳崩御
昭憲皇太后 嘉永2年{1849}5月9日生まれ―ー大正3年{1914} 4月9日64歳崩御

写真は、御陵案内図。220段余りの急な階段。桃山御陵。

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