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広島ー長崎

昭和20年8月6日午前8時15分。8月9日午前11時2分、広島と長崎に原爆が投下され広島では約14万人、長崎では約7万5千人の尊い人命が一瞬にして失われた。
あれからもう75年が過ぎ去った。戦後生まれが全人口の大半を占め、戦争の惨禍が徐々に薄れていく中、今年も両市で平和祈念式典が開催された。
ただ、今年は新型コロナウイルスの影響で「密」を避けるため参列者が例年の一割ほどと大幅に削減されたり、イベントがオンライン化されるなどとなったという。広島の式典ではいつも平和のシンボル白い鳩を放っていたが、鳩の訓練が十分に行えず中止になった。
一方、長崎では,飛沫感染への懸念から被爆者の合唱も中止になるなど、異例の形になったと報道された。

松井広島市長や田上長崎市長は、それぞれ平和の尊さや、核兵器禁止条約について、日本政府に「締約国」になることを訴え、被爆者代表は、昨年11月ローマ教皇フランシスコの長崎訪問に触れ「長崎を最後の被爆地に」との思いを訴え続けると決意を示したという。
それにしても長崎は不幸であった。8月9日の原爆投下地点は、当初北九州小倉であったという。それが、雲量等の関係で長崎に変更された。
私も以前、広島市平和記念公園内の原爆ドームや原爆資料館を、また長崎では,北村西望作の巨大な平和の像や浦上天主堂などを見学した時のことをいつも思い出す。やはり、戦争は二度と起こしてはならない。しかし、ストックホルム国際平和研究所の推計では、世界の核弾頭数は1万3千発、その約9割を、米、口、が保持するが両国の核軍縮の枠組みは消滅の危機である。
昨年8月に中距離核戦力破棄条約が失効し、唯一残る新戦略兵器削減条約は来年2月が期限である。トランプ米政権内では、爆発を伴う核実験再開に向け検討を始めたとされている。被爆者の願い、被爆地・広島・長崎の願い、国民の願い、そして、人類の願いが遠のいていくようで残念である。

人間とは、万物の霊長である。その霊長が犯す最も愚かな行為が戦争である。それは誰しもが理解している筈であるが、未だ地球上のあちこちで局地的紛争が絶えない。誠に残念なことである。

話が代わるが村山首相当時、原爆被爆者援護法が成立し、多少なりとも国の支援が法制化された。そして、今回8月6日広島で被爆者団体の方々が安倍首相に面会し、いわゆる黒い雨を浴びた人たちが、被爆者健康手帳の交付を求めた。この件は、すでに広島地裁で原告側の全面勝訴の判決が出た。
これも大変重要なことである。しかし、忘れてはならないことの一つに空襲で亡くなった方々が多数いることである。

例えば富山空襲である。昭和20年8月2日午前0時36分~1時51分まで実に1時間15分にわたり、1万2千発の焼夷弾が投下された。
罹災所帯2万5千、罹災人口11万人、死者3千人を超し市中心部の90%以上が廃虚となり、残った建物は、大和百貨店、海電ビル{現電気ビル} NHK富山放送局、県庁、昭和会館、興銀富山支店と6か所だけだったという。
この日は、富山、長岡、八王子、水戸、川崎石油企業群の5か所であった。全国各地の数多くの都市が空襲の被害を受けたが、とりわけ富山市の被害が甚大だったという。
何の罪のない民間人の命が失われ、家屋が焼失したにもかかわらず国は何の補償もしていない。この現実も我々は忘れてはならない。

最後に、広島の原爆詩人の峠三吉さんが、昭和26年「原爆詩集」の中で発表された詩と長崎の爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった医師、永井隆博士が妻も原爆で失うなどの事実から出来上がったのが,有名なサトウハチロウ作詞‣古関裕而作曲の「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後の昭和26年43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだ一首を記す。

にんげんをかえせ  
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
(峠三吉)

新しき 朝の光のさしそむる
あれ野にひびけ 長崎の鐘 
(永井隆)



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