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久しぶりの上京

2月28日全日本弓道連盟第5回理事会出席の為、久しぶりに上京し、その機会に知人・友人と懇談した。理事会の場所はJapan sport olympic squareで、神宮野球場の向かいである。
会議終了後、近くの聖徳記念絵画館を見学した。この建物は、明治天皇・昭憲皇太后お二方ご一代の業績を後世に伝えるため大正8年3月5日着工、大正15年10月22日竣工と約8年の歳月をかけて建設し、日本画画題40点、洋画画題40点計80点の大作が当代一流の画家によって描かれた。展示されている壁画は、この輝かしい雄姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれたという。

私が特に関心を持ったのは
①明治38年日露講和条約により、樺太北緯50度以南が日本領土となり、その境界を標示する「樺太日露国境天測標」の壁画である。
これ以前、日本と当時のロシア帝国とは,安政2年{1855}2月7日日露通好条約{下田条約}を締結し、択捉島、国後島、歯舞、色丹島を日本領土と確認した。それが今日の北方領土返還の日になっている。

その後明治8年{1875}日本とロシアは千島樺太交換条約成立によって、択捉島の北、得撫島から最北端占守島まで全18島が日本領土になった。その後、昭和16年{1941}4月モスクワにおいて「日ソ中立条約」を締結した。その第一条には「両国の領土の保全と不可侵」第二条には「第三国への軍事的中立」が規定されている。
有効期間は昭和21年4月までの五年間であり、一方が期間満了一年前に、条約の破棄を通告しない限り、自動延長されることになっていた。つまり、中立と日本領土の保全、不可侵を守る義務があった。
それを、ソ連は昭和20年4月5日、条約不延長を通告8月8日日本に宣戦布告した。明らかに条約有効期間内の違反行為である。そして日本が原爆投下で終戦を決意したのを知った上で、慌てて参戦したのである。
目的は、戦利品つまり「領土」欲しさにあったのは明らかであろう。これによってシベリアに抑留された日本人は57万5千人、死者5万5千人と言われるが、一説には、抑留者70万人とも或は最高200万人との説もある。国と国との約束は条約である。

これを公然と破るのである。トルーマン米大統領は、かってこう語った。「米国は、ソ連と約40もの条約を結んだ。しかし、彼らが守った唯一の条約は、ソ連が日本との戦争に参加する、と約束したヤルタ協定だけだった」{1950年2月5日、ニューヨークタイムズ}これによって、ソ連が、日本と結んだ日ソ中立条約を破棄することになったのは皮肉である。
現在、ロシアのウクライナ侵攻が続いている。これを正当化しょうとするプーチン大統領の発言。ロシアの体質。樺太北緯50度に建てられた「樺太日露国境天測標」壁画を眺めながら感慨深い思いを持った。

②明治8年11月29日東京お茶の水女子師範学校に昭憲皇太后が行啓された壁画であった。この時の思いを「みがかずは 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけり」しばし足を止めて見入った。
正に近代日本のあけぼの期を壁画で見る幕末・明治の歴史であった。今、明治神宮外苑の再開発が話題になっている。この森は是非残しておくべきと思う。

28日夜は、昨年6月まで茨城県副知事であり7月に本省に戻り、現在国交省審議官{総合・政策}の小善真司氏、衆議院議員・上田英俊氏、砂原富山県首都圏本部長など関係者が出席し久しぶりに懇談した。
当日は令和5年度国の予算案が衆議院を通過した日であり、上田議員もホットした様子で話に花が咲き、アッという間の2時間半であった。

翌日の3月1日午前はかってNHK富山放送局に勤務し現在はNHK渋谷で活躍のお二人と渋谷で再会し懇談。昼は大宮で以前ヨーロッパ視察のメンバー5人と会食、夕方帰宅した。1泊2泊のハードスケジュールであったが意義ある2日間であった。

写真は、聖徳記念絵画館。小善審議官と共に。
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