今年のお正月は、元旦は能登半島地震と輪島市の大規模火災。2日羽田空港滑走路上での日航機と海保飛行機の衝突炎上事故。3日北九州市小倉での35棟の火災。記憶にも、記録にも、歴史にも残る3か日であった。
特に、地震はM7,6、最大震度7を観測し、お屠蘇気分を吹き飛ばす大惨事となった。
富山県内でも広範囲に激しい揺れに見舞われ、震源地に近い氷見市を始め小矢部市、高岡市、射水市、富山市などでは1922年観測以来、県内で初めて震度5強を観測した。
特に、氷見市や小矢部市では多数の建物被害や全市域での断水、停電、インフラに大きな被害が出た。高岡、射水、富山市では、液状化現象が各所で発生で。富山市では富山城址公園横を流れる桜の名所松川辺りの車道や歩道に地割れや亀裂が走りったり、陥没で段差が生じたりした。能登地方の被害状況は連日のテレビ放送や新聞などで報道されているので、割愛するが胸の痛むのを覚える。
そこで私の思いを述べる。
インフラの復旧や復興は、国、県、市町村、多くのボランティア活動、また義援金等もある。阪神淡路大震災や東日本大震災も、お金とある程度の時間があれば復旧、復興が可能なことを示した。しかし、能登地方は珠洲市の高齢化率52%を始めとし、他の市町村も同様過疎地域である。2次避難所は広範囲であり、復興までそれなりの時間がかかる事を考えると、果たして人々は元に帰るだろうか。より過疎化が進むのではないか。それが心配であり、それを危惧する。
是非とも国、県、市町村は知恵を絞って頑張ってもらいたい。「能登は やさしや 土までも」の為にも。
その中で、明るい兆しも出てきている。輪島塗の漆器店の店主や能登の酒造りの蔵元も珠洲の七輪造りの職人も「伝統の灯」は消せない、との力強い言葉に感動した.。取りあえず、前述した伝統産業と日本三大朝市の輪島朝市の復興と温泉などの観光産業の復活そしてインフラ整備に全力を挙げるべきと思う。「頑張れ 能登!」
戦後、日本海側で発生した主な地震と大震災の一部を記す。
福井地震
昭和23年{1948}6月28日、午後4時13分、M7,1 震度6
死者約4000人。
新潟地震
昭和39年{1964}6月16日、午後1時2分、M7,5 震度5
液状化 昭和大橋落橋 信濃川で津波確認。
日本海中部地震
昭和58年{1983}5月26日、午前11時59分、M7,7 震度5
地震発生後8分で男鹿半島に津波到達。
遠足に来ていた北秋田郡合川小学校の児童13名を含め津波で亡くなった人100人。
峰浜村で津波の高さ14mを観測。
北海道南西沖・奥尻島地震
平成5年{1993}7月12日、午後10時17分 M7,8 震度6
火災や津波で死者不明230人。
阪神淡路大震災
平成7年{1995}1月17日、午前5時46分、M7,6
国内初の震度7を記録。死者不明約6400人。
鳥取県西部地震
平成12年{2000}10月6日、午後1時30分、M7,3 震度6弱
液状化現象で港湾施設に大きな被害。
新潟県中越地震
平成16年{2004}10月23日、午後5時56分、M6,8
震源地に近い小千谷で約24㎝隆起。上越新幹線で脱線事故。
1996年の震度改正以降、震度計で震度7が始めて観測された。死者56人。
能登半島地震
平成19年{2007}3月25日、午前9時41分、M6,9、震度6強
總持寺祖院被害大。県内初の震度5弱を滑川市と高岡市で観測。
新潟県中越沖地震
平成19年{2007}7月16日、午前10時13分、M6,8 震度6強
死者15人。負傷者2345人、家屋全壊1319棟、
家屋半壊5621棟、一部破損3万5千棟。
東日本大震災
平成23年{2011}3月11日、午後2時46分、M9、最大震度7
津波の潮位9,3m以上。Mは1900年以降、1952年のカムチャツカ地震と同じでM9、
1960年のチリ地震M9,5が最大で世界で東日本大震災は4番目の巨大地震であった。
直接的被害は約16,9兆円、阪神淡路大震災の9,6兆円の1,7倍。
戦後最大の自然災害。住宅被害は全半壊一部損壊約115万5千棟、死者不明2万人以上。
熊本地震
平成28年{2016}4月14日、~16日、午後9時26分、M6,5
本震16日、午前1時35分、M7,3、震度7。家屋の全壊約8300棟。
家屋被害計約16万棟。死者55人。
令和6年能登半島地震
令和6年{2024}1月1日、午後4時10分、M7,6
震度7。県内では氷見市、小矢部市、高岡市、射水市、富山市などで震度
強を県内で始めて観測された。滑川市や黒部市等で震度5弱を観測。
尚、魚津市は震度4である。昨年、令和5年5月5日、、午後2時42分
M6,5、珠洲市で最大震度6強が観測され、家屋被害も出た。
これを令和5年奥能登地震と命名された。
平成19年にも能登半島地震が発生していることから、今回は正式名として、令和6年能登半島地震と命名さされた。
飛越地震
安政5年{1858}2月26日午前2時頃、推定震度6.立山、鳶山崩落。
さて、これを見ると戦後78年余の間に日本海側で発生した地震は9回である。つまり約9年に一度は震度5~7の地震が発生している。
これに地震が頻繁に発生している太平洋側を加えると、まさに日本列島は地震列島で、その上に住んでいる我々は何処に住んでいても地震から逃れることは出来ない。
いつどこで起こるかわからないことを認識すべきと思う。私自身、考えが甘かった点があった。能登でここ数年地震が多発していた。
しかし、かっての松代群発地震と同様何れ、収束すると思っていた。もう一つ富山湾では津波は発生しないと思っていた。これも違っていた。富岸運河では80㎝観測された。しかも、地震発生後、僅か5分位で到達したことや、山手に避難しょうとする車の大渋滞や、珠洲から輪島にかけて約80㎞の海岸が隆起するなど、まったく想定外の事ばかりであった。
この経験をやはり今後に生かさなければならない。また、国においては、地震や津波に関しては、太平洋側を中心に研究や調査などが行われてきたが、今後は日本海側も力を入れて、調査等行うべきと思う。災害は忘れぬうちにやってくる。
高杉晋作の辞世の詩に「面白き 事もなき世を面白く 棲みなすものは 心なりけり」
物事は ポジティブに 前向きに! 頑張れ能登!「能登はやさしや 土地までも」
地震の予知は難しいが、わが国で地震の観測が本格的に始まったのは明治18年{1885}で、それ以前の古い地震は歴史地震といわれ、日本書紀などの国書、貴族の日記,藩や寺社の記録、、幕府への訴状,個人の手紙などの記録を元に推定震度などを算出している。
日本で最初の地震記録は、日本書紀に允恭天皇5年{416}7月14日、とだけ記してあるが、天武天皇13年{684}10月白鳳南海地震で南海トラフを起源とするのが、最初の地震記録で、「国中の男女が叫び戸惑った。山が崩れ,河が溢れて官舎や寺社が数え切れないほど倒れた」とある。
わが国で、最初の天気予報が出たのは、明治17年{1884}6月1日の天気予報が第1号で、東京市の交番に貼り出され「全国一般風の向きは、定まりなし。天気変りやすし。但し、雨天勝手なり」当時の予報能力はこの程度だったのであろう。
写真は、県庁裏松川べりの間の道路に、地割れや亀裂が生じた車道と歩道。