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中尊寺金色堂

五月雨の 降のこしてや 光堂  芭蕉

わが家の小さな裏庭に春を告げる「フキノトウ」が芽吹き始めた。
2月14日~15日、全弓連理事会出席で上京した。その折、東京国立博物館本館で開催されている国宝・中尊寺金色堂特別展{1・23~4,14}を鑑賞した。
金色堂は誰もが一度は訪れたことがある所で、私も過去三度金色堂を含め周辺を見学した。今回は、藤原清衡公{1056~1128}よって建立され、東北地方現存最古の建造物で、天治元年{1124}の上棟から、今年が900年になるのを記念して開催された。

特に、今回は堂内中央の須弥壇に安置されている国宝の仏像11体が一堂に展示されたほか、きらびやかな堂内荘厳具の数々も展示されていた。
また、会場内には、大型ディスプレイ8KCGの原寸大に再現された金色堂の内部が迫力ある映像で見ることが出来た。

さて、金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で、数ある堂塔の中でも取り分け意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しょうとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約されたのが金色堂と言われる。
特に、内外に金箔の押された「皆金色」と称される御堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた「夜光貝」を用いた螺鈿細工や象牙によって飾られているのには驚く。
須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に勢至菩薩、観音菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従え、他に例のない仏像構成で、全仏像が展示してあった。

この中尊寺を造営した初代藤原清衡公をはじめとして、宇治平等院を模した毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を平泉に招き入れ、無量光院を造営した三代秀衡公、そして、四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇の中に今も安置されていると言う。

仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦い{前九年・後三年の役}で亡くなった生きとし生ける者の霊を敵味方なく慰め「みちのく」と言われ、辺境とされた東北地方に、仏国土{仏の教えによる平和な理想社会}を建設すると言うものだった。
その規模は、鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」によると寺塔が四十、禅坊が三百に及んだと記されているという。平泉はおよそ百年近くにわたって繁栄し、「みちのく」は戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし平家を倒した源義経が兄・頼朝と対立し平泉に落ちのびる。
だが、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込んだのはご存知の通りであるが、その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年{1189}奥州藤原氏は滅亡する。

その金色堂を風雪から守るため正応元年{1228}覆堂が作られる。その後、鎌倉時代以降、大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し、建武4年{1337}の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失する。
芭蕉が奥の細道紀行で訪ねた元禄2年{1689}頃は、かなり朽ち果てていたらしく、堂の四囲を板で囲んでいるだけだっらしいがそんな簡単な覆堂でも500年以上も風雨雪から守り続けた木造建築には驚かされる。まったくよく残ったもので多分芭蕉の句は、五月雨もここだけよけて降ったので、幸い光堂が残ったのかもしれない。と思って詠んだのかもしれない。

尚、現在の覆堂は、昭和38年{1963}の金色堂解体修理とともに建てられた。この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝え、その代表的な建物が金色堂であろう。平成23年{2011}に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録された。いずれにしても見ごたえのある企画展だった。

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