散る桜 残る桜も 散る桜 良寛
4月20日、北海道・松前のソメイヨシノが満開になり、札幌で開花宣言がでた。
30年ー40年前は4月末から5月の連休時期が、青森県弘前城の桜が満開で、桜まつりが開催され、夜桜を含め何度か花見に行った。これが終わると桜前線は津軽海峡を渡り、函館に上陸した。今年の桜の開花宣言は富山を含め全国的に、予想より遅くなった。しかし、北海道はこの様な状態だからやはり地球温暖化の影響だろうか。
さて、その当日、「日本海詩人」と大村正次{まさつぐ}キク夫妻の顕彰誌発行記念シンポジウムとパーティーが富山市の古志の国文学館研修室で開催された。正直言って、大村正次ご夫婦、或は「日本海詩人」と言っても、私は知らなかったし,多分多くの人も同様と思う。
それが縁とは不思議なもので、2015年夏頃、全く面識のない宝塚在住松原勝美氏より突然お電話頂いた。氏の先祖は滑川市荒俣出身で、曾祖父の妻が四ツ屋、中屋より嫁ぎ1900年{明治33}夫婦で北海道へ移住した。滑川に残った松原家を市役所で戸籍等調査したが解らない。せめて曾祖母の実家の中屋はどこか。これが氏の質問である。
私も多少は物好きであるが、明治の半ばに松原家に嫁いだ女性は。これには一服したが、多少四ツ屋部落に詳しいと思われる人の名前を挙げた。氏は氏で調べた結果、たどり着いたのは中屋家の総本家といわれ、当時19代中屋家当主中屋敏子宅を訪問予約をしたという。
10月24日わが家へ来宅したいと言う。そこで勝手ながら中屋家の菩提寺である禅宗の海恵寺{真田光道住職・上市町立山寺住職兼務}に質問事項を事前にお知らせし、最初に松原氏と二人で総本家の中屋家へ。次いで、中屋敏子さんと3人でお寺へ行った。
残念ながら中屋家の過去帳ではあくまで中屋家の人に限られていた。お寺の過去帳は、殆ど名前と戒名と没年月日しか記入してない。これでは探しようがない。お寺にはこれを機会に過去帳に俗名と生年月日位は記入すべきと申し上げた。当然我が家の過去帳にも。生年月日と没年齢{かぞえ}を追加し、この時我が家の家系図も作成した。
ということで残念ながら松原家に関しての調査は進展しなかった。それが数年前、今度は、富山市新庄町の金岡キクを知らないか。とのお電話である。新庄町で金岡と言えば金岡又坐衛門しか知らない。県民会館分館「金岡邸」である。金岡家の家系図が展示してあることをお伝えした。結果は岩瀬の金岡家であった。
その後、氏は大村正次の調査を開始する。松原氏が旭川東高等学校在学中の時、教員に大村正次がいた。当時東高校には校歌があり、加えて逍遥歌を昭和26年教員であった大村正次が作詞したという。現在の私では校歌以外にもう1曲あるとは理解できない。これを当日出席しておられた松原さん以外の東高校同窓生の方に尋ねたところ、かって校歌以外にも寮歌等があったように、戦後も数校に逍遥歌があったと言う。ここで大村正次・キク夫婦の略歴を記す。
大村正次
明治29年6月15日東岩瀬652番地に生まれる。
明治45年。富山師範学校卒業、本科4年制入学。
大正4年 室生犀星の「卓上噴水」に詩「金像」をペンネーム鳳太郎で投稿。掲載される。
大正5年 富山師範学校本科卒業。母校東岩瀬尋常高等小学校訓導{6年間}
大正10年 元同僚金岡キクと結婚。その後高岡や県外転勤のあと、妻キク石動高等女学校勤務が決まり石動町小矢部47に転居。
大正15年県立高岡中学校へ転任。2月「日本海詩人」石川県版が金沢で創刊。この頃「日本海詩人」同人となる。
大正4年2月 井上靖石動町の大村正次宅訪問。この頃より、妻キク大原菊子の筆名で休刊まで作品を発表。
大正7年「日本海詩人」休刊。
昭和2年5月「日本海詩人」富山・新潟版が富山で発刊
昭和3年10月詩集「春を呼ぶ朝」刊行
昭和20年7月旭川へ転居.。旭川中学校嘱託教師となる。妻キク道立旭川高等女学校勤務。旭川市7条11丁目左2号に居住。
昭和23年旭川中学校が道立旭川東高等学校に改称。同校教諭。
昭和26年 旭川東高等学校逍遥歌を作詞 新制高校初めてのものとして「蛍雪時代」に掲載される。
昭和27年 上京した正次は戦後初めて井上靖に会う。
昭和30年 旭川北海ホテルで井上靖と会う。
昭和35年 キクと離婚 旭川東高等学校退職。同校嘱託教師となる。
昭和38年10月旭川を離れ富山へ。東岩瀬新川町2区に住む。藤園女子学園富山女子高校に勤務。
昭和42年「大村清風」と号し北陸書道院月刊誌「臨池」に漢詩を発表。
昭和44年同校退職。
昭和49年6月77歳で逝去。金岡キク8月73歳で逝去。顕彰誌より抜粋。
この様な人生を歩まれた大村正次先生の77年の人生に興味を持たれた松原勝美氏が、何の縁もない富山で、大村家、金岡家の子孫はもとより郷土史家大村歌子氏{大村正次とは無関係}、木下晶氏などを始めとし、富山八雲会、県立図書館、古志の文学館など多くの方々のご協力が得られて、今回の発行になったのであろう。
これも松原勝美氏の誠実な人柄と、情熱と、行動力に心が動かされたからだと思う。当日は約40名程、パーティーには18名の参加でありました。私は3月始め松原勝美氏より,両方の出席と一言挨拶を要請されましたが、場違いであり再三お断わりしましたが、松原氏の情熱に押し切られる形でしたが最後は了承し出席しました。
人生は,良き出会いと良き感動、良き思い出の積み重ねと思う。実際新たな発見もあった。記念誌の中に、稗田菫平氏が平成3年10月24日、小矢部市総合会館で井上靖と詩誌「日本海詩人」と題した講演内容が掲載されていた。
その中に、詩人「北園克衛」の名が出てきた。実はこの人は、滑川高校の校歌作詞者であるが詳細は知らなかった。早速県立図書館で調べたところ詳細が判明し、コピーしたものを校長に渡した。
又、明治2年加賀藩よりロシア留学の命をうけ日本人として初めてシベリアを横断し明治7年帰国した嵯峨寿安の嵯峨家5代目を大村健一が健寿と改め嵯峨姓を名乗り、滑川栗山の石坂太郎左衛門の娘を妻として迎える。その子3男専之助が母の実家石坂家を継ぐ。この専之助が明治15年県議会議員となり、その後、第7代県議会議長となり、明治23年11月より同25年11月まで衆議院議員務めるのである。
又、令和元年12月私が制作した、CD「未来に伝えたい 薬都とやまの歌」の中で、昭和8年[越中富山の薬屋さん」の作曲は滑川出身の音楽家・高階哲夫。作詞が松原与四郎{松原勝美氏とは無縁}である。彼とも大村は親交があったことが分かった。
このように私にとっても新たな事実が判明したことは嬉しかった。当日、松原氏は東京や遠方からくる大村家、金岡家の遺族の方々と岩瀬の大村正次のお墓参りをしたという。教え子の恩師への思慕の念。80歳を超えた松原氏の原点がここにあり、それが何の縁もない富山で多くの人々の心を掴み発行に至ったのであろう。
又、当日、たまたま翌日の企画のため来館していた室井滋館長がいることを聞き、事務室に行き久しぶりにお会いし歓談した。別れ際、彼女の故郷滑川発展に尽力をお願いし、更なる活躍を期待し別れた。ここで旭川東高等学校逍遥歌を5題目まであるが2題目まで記す。
①うつろいかわる蝦夷の地に かわらぬ清流{流れ}石狩や
メノコの髪にかざしたる 鈴蘭の香を訪めもみん
②長堤はるかたどり来て 理想をかたる者なりし
今は東{あずま}のこいしきに アカシアの花散るしきり
最後に「ふだん記」運動の創始者橋本義夫氏の言葉を記す。
記録は 一と時の出来事を、永遠なものにする事が出来る。
記録は 世の片隅の出来事を、全体のものにする事が出来る。
記録は 名もなき人の行為を、人類に結びつける事も出来る。
記録のみが 消えゆくものを不死なものにする事が出来る。
その意味からすれば、今回の発行によって、「日本海詩人」や、大村正次ご夫妻を忘れかけていた人々に再びその足跡を思い出させてくれただろうし、私のように全く知らなかった者にとっても良い機会だったと思います。
改めて発行にご尽力された松原勝美氏や「大村研究会」の大村歌子氏、木下晶氏等関係各位に改めて感謝申し上げます。
写真は、顕彰誌と挨拶する松原氏。