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茶木屋・中田家の薬業

おしなべて 物を思わぬ人にさえ 
          心をつくる 秋の初風  西行

記録的な猛暑と線状降水帯による局地的集中豪雨が多発した今夏であったが、朝夕の涼しさをみるとようやく峠を越したような気がする。

さて、富山市売薬資料館で6月14日ー9月23日まで開催中の表題の企画展を見学した。16代当主の勇吉氏は、昭和24年北陸銀行頭取、31年に会長。父15代清兵衛の米寿を記念して、富山市民芸館となる建物を富山市に寄附され、今年が開館60年を迎えたことから密田家とも繋がりが深い中田家の薬関係の業績を示す資料が企画展として展示されました。
尚、15代当主の四男が、富山県知事{公選4代、任期1969ー80}を務められた中田幸吉氏です。

中田家は、茶木屋という屋号を持つ薬種商で、江戸時代初期にはすでに富山城下で商売を営んでいたと伝わります。中田家3代の三郎右衛門の時、元和元年{1867}万代常閑が正甫公に反魂丹を献上した際、中田家に反魂丹などの調製を許されたという。
その後、元禄年間の初めに、奇応丸、熊参丸、華香等の薬種を仕入、調製、販売し、売薬を諸国に広め業界に深く関わってきました。

明治時代14代当主の時、製薬工場を充実させ、引き続き薬種商と製薬業を主軸とし富山売薬の行商者の多くが薬を中田家から仕入れたという。また、明治21年{1988}薬店の東に書店を開きました。これが今日の中田書店の始まりである。また、明治9年の広貫堂や富山銀行、第12国立銀行等の設立に関わり、出資して取締役なども務めました。

この様に中田家は富山薬業界の中心となって活動し近代富山の薬学基盤の整備や経済発展に大きく貢献しました。中田家は元・富山西部に住んでいたころの地名に因んで茶木屋・中田と称したという。また、「丸の内に三ツ星」も茶に由来するという。
薬種商、茶木屋は富山町の東四十物町にあったという。現在の中央通り付近である。

最近では、昭和16年に茶木屋・中田清兵衛商店。同42年中田清兵衛薬品(株){47年に豊田町に移転}同51年ナカダ薬品(株)となり、医薬品卸売業・(株)ファイネスとなっています(以上パンフレット及び会場内説明書より一部抜粋)

私がかって秋田市を回商していた時、知人の商標が茶木屋であった。酒が入ると茶木屋の由来を自慢げに話されたのを思い出す。その人が亡くなってもう20年近くになる。その人の懸場帳はどうなっているのか。知る由もない。後継者不足によって由緒ある懸場帳といえども引き受けてがいないなど寂しい限りである。

いづれにしても、中田家と密田家の関係や貴重な資料を見る機会であった。

写真は、売薬資料館と企画展パンフレット。錦花香の看板{江戸ー明治期}。会場風景。

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