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渋沢栄一史料館

9月23日渋沢史料館を訪ねました。この資料館は1982年渋沢栄一の旧邸跡{現・東京都北区飛鳥山公園の一部}に設立された登録博物館です。

さて、渋沢栄一は、2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」でも放送され、1万円札の肖像画でもお馴染みですから、今更語る必要がないと思いますが簡単に紹介したのち、彼が1912年、72歳の時に語った話を記します。
また、邸内には、彼の喜壽{77歳}を祝って1917年清水組{現・清水建設{(株)}より贈られた洋風茶室があり、名称を栄一が「晩香」という中国の詩人の詩からインスピレーションで名付け、渋沢邸を訪れた賓客のおもてなしの場として活用した「晩香蘆」{ばんこうろ}があります。

隅々まで行き届いた洗練された意匠と丹念につくられた工芸品は当時新進気鋭の美術工芸家によって製作されました。また、栄一の傘寿{80歳}と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社{現・公財渋沢栄一記念財団}が栄一の雅号を冠し贈呈した「青淵文庫」があります。これは「論語」などの蔵書を収蔵する個人文庫として設計されたことから、全体的に堅牢な造りとなっています。

渋沢栄一について
1840年{天保11年}武蔵の国榛沢郡血洗島村{現・埼玉県深谷市}の農家に生まれました。
家業の畑作、藍玉の製造、販売、養蚕を手伝う一方、父・市郎衛門,従兄・尾高惇忠に読書や学問を教わりました。青年期に尊王攘夷思想に傾倒しましたが、知遇を得て一橋慶喜に仕えることになりました。

1867年{慶應3年},徳川慶喜の実弟・昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学したほか、欧州諸国の実情を見聞することができました。欧州から帰国後は、明治政府で新しい国づくりに深く関わります。1873年{明治6年},第一国立銀行の総監役に就任し、民間経済人として活動をはじめます。
株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、「道徳経済合一説」を説き、生涯に約500社もの企業に関わりました。また、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら1931年{昭和6年}11月11日、91歳の生涯を閉じました{パンプレットより}

次に、渋沢栄一語録より。
凡そ多忙という点に就いては、余は大抵の人に劣らぬであろう。朝は普通6時に起き、夜は12時頃に寝ることにしてあるけれでも、仕事の都合で12時過ぎになることも珍しくない。起床後は必ず直に湯に這いるが、入浴すれば精神爽快にして元気頓{とみ}に加はるの思いする。

次に庭園を散歩すれば、澄んだ空気を呼吸し、心身を養うことが出来て非常によいのであるが、殆どそれの出来ないのは遺憾である。新聞も一通り見ねばならぬ。朝飯も喰はねばならぬ。殊に毎朝来る手紙は如何に少ない日でも必ず三四通はあるので、それにも一々返書を認めねばならぬから、庭園の散歩などは仕事しても殆ど其の暇がない。

其の中に二三の来客が見える。来れば必ず逢うて語る。余の主義として時間の許す限り客を辞したことがない。病中とか精神不快の場合、人に逢ふのが辛いと感ずる時は仕方もないが、病中でも尚、客と語るを楽{たのしみ}として居る。併し金を強請されるなどは際限もないことであるし、また揮毫の催促などは余が面会しなくとも用が弁ぜられるか,其の他の人は貴賤貧富を問わず、必ず面会して、相手の意見なり、希望なりを聞き、応じ得ることなら相談にも与{あずか}り微力をも致して居る。毎日の用事の予約は塗板に認めてあるから、約束の時間がくれは外出する。

通常11時頃には兜町の事務所へ出る。事務所にも既に客が待って居る。又引き続いて来る者もあるといふ風で、独座して緩{ゆる}りと書物を読むやうなことは月に一回あるか無しである。
斯くして少し客が絶えた時は、日々接手する客が絶えた時は、日々接手する幾十通の手紙に返書を認めるが、手紙の返事は多く自分で認めるが、手紙の返事は多く自分で作って代筆させることは少ない。といふのは、一言一句不穏当の辞があっても先方の誤解を起こす基となるから、仮令{たとい}忙はしくとも、字句を丁寧に文章を優美に書くことを努めて居る。

夜は宴会、相談等の為に十時過ぎまでかかることが多く、一家団欒して食事を共にすることは、月の中に5-6日しかない。外の用事が済んで帰邸してからは、或は新聞雑誌を読んだり,或は人に読ませて傾聴したりする。これは一と通り社会の風潮を知って置かなければならぬからである。拙筆ではあるが揮毫を依頼されたものが常に3-400枚あって、時々催促を受けるのであるが、紙に臨めば精神も落ち着き、愉快を感ずるのであるけれども、其の時間さえない。こんな風で毎日暇もなく追い回されて居る。

以上、明治45年{1912}渋沢栄一談・青淵文庫。
これは渋沢栄一72歳の時の談話である。これが一日の過ごし方であり驚きで
ある。氷見市出身の実業家・浅野総一郎も浅野セメントや京浜工業地帯の立ち上げに渋沢の援助無くしてはありえなかった。
彼の91歳のの生涯をこのブログの僅かな字数で表すことは到底出来ない。幕末動乱の攘夷思想の時代からパリ万博での貴重な経験。維新では一度は政府に出仕するが、その後民間に身を置き、実業家として国策である富国強兵、産業の育成に携わり、近代日本経済の基礎を築いた人生ではあるが、「利益追求と社会貢献の両立」と言う公益の考え方を掲げ、それを実践し日本の近代化に大きく貢献したことであろう。

松下幸之助、本田宗一郎、YKK吉田忠雄を含め、素晴らしい実業家は多々いるが、渋沢は500を超える企業の経営に関与し、600を超す慈善事業に携わったことである。彼の葬儀の模様を映像で見ましたが、葬送の車列を見送る沿道を埋めた数万の人々の姿を見ると、如何にその人柄が愛されていたかが理解できる。

戦後国民は心を一つにする目標を持った。敗戦からの復旧復興である。幸か不幸か朝鮮動乱によって経済的に大きく飛躍する。昭和30年代に入り所得倍増論が掲げられる。そして昭和40年代に入り高度経済成長期になる。確かにこの時代、車,クーラー、冷蔵庫、カラーテレビなど生活が豊かになったという実感があった。

しかし、昭和40年代後半のオイルショック・ドルショック以降、不透明な時代に入る。以後、政治家も経済界も国民の心を一つにする夢も希望も描けないまま今日に来たような気がする。歴史に「もし」はないと知りつつ「もし、今、渋沢栄一がいたら」と思う。

いづれにしても、改めて「渋沢栄一」の凄さ、偉大さに感動した2時間余りであった。
写真は、渋沢栄一資料館。パンプレット.青淵文庫.晩香蘆。

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