2月6日(金)北陸新幹線開業記念試乗会に参加しました。
アイボリー地に青と銅色のラインを配した12両編成のW7系は、午前11時41分定刻富山駅を滑るように発進すると、5分で上市川を通過滑川に入ります。この時点で時速260㌔と思われます。富山駅から僅か12分で黒部、宇奈月温泉駅に到着。やっぱり速い。時刻表で速いことは頭で理解していても、体感するのとは実感が違います。
富山駅を出て、黒部、宇奈月温泉駅、糸魚川駅で試乗会参加者が乗り、長野駅で停車後大宮駅着13時42分。大宮発14時22分、富山着16時22分。片道約2時間余りの快適な試乗会でした。
ただ、残念ながら当日は曇り空であり、雄大な立山連峰や富山湾の絶景を見ることは出来ませんでした。しかし、晴天の日には素晴らしい景色が楽しめると思います。
私の好きな一首に富山市名誉市民であり、文化勲章受章者の山田孝雄氏の「国巡り、山々見れば故郷の、越の立山 類稀なり」があります。
また、今後おそらく乗れないだろうグランクラスやグリーン車が公開され一時座席に座りリッチな気分に浸りました。それにしても、この日を迎えるには約半世紀の長い道のりでした。
『北陸に新幹線を』の言葉が始めて出たのは、昭和41年9月、金沢市で開催された佐藤首相の一日内閣の折、地元経済界からの要望でありました。この2年前、昭和39年10月1日東京オリンピック開幕に合わせ東海道新幹線が開業。これによって東京から大阪が日帰り圏となり全国の関心事になりました。特に、産業発展の基盤である、土地、労働、水資源を備えた北陸地方は交通基盤の立ち遅れによって開発が阻害されていました。
加えて、均衡ある国土の開発と災害時における東海道新幹線の代替輸送機関としての「北回り新幹線」の必要性を訴えました。
これを機に北陸地方の政財界から新幹線建設運動が燃え上がり、翌、昭和42年12月沿線の国会議員が中心になって[北回り新幹線建設促進議員連盟]を結成。また、沿線自治体関係者によって期成同盟会が発足しました。
その後、[北回り」から[北陸]と名称は変わったが、これが現在まで新幹線建設推進運動の母体となってきました。そして、当時の県内35市町村すべてに新幹線建設促進の看板が設置され、滑川市においてもJR滑川駅前に建てられました。
これが全国各地の新幹線建設運動に発展し全国新幹線鉄道整備法が策定、それに機に昭和47年10月に基本計画、翌、48年11月整備計画が決定しました。
これによって多くの人々は直ぐにも着工されるものと思い狂喜しました。しかし、発表からⅠヵ月後の同年12月政府の昭和49年度予算編成大綱で公共投資の抑制策が打ち出され、整備新幹線五線の凍結が閣議決定されたのです。
これは、折からの第1次オイルショツクが引き金でした。次いで追い打ちをかけるように、昭和51年8月末、当時の国鉄監査委員会が新幹線建設中止を提言してきました。当時、国鉄の累積赤字は3兆1600億円、長期負債6兆7800億円で破産寸前の状態でしたので当時の運輸省も着工凍結を続けることを発表しました。
しかし、新幹線関係者の期待は膨れ上がる一方で、関係自治体、国会議員、地方議員、経済団体は、再三政府、与党自民党に凍結解除、工事着工の陳情を繰り返しました。
その結果昭和52年4月7日、当時自民党政調会長だった河本敏夫氏が経団連で[今後の自民党の政策課題]と題し講演。その中で「北陸新幹線など整備新幹線五線の凍結解除に踏み切る」との考えを明らかにしました。追って5日後の閣議で「整備五線の件等を含み徹底した調査に着工する」ことを決定しついに3年4ヵ月ぶりに凍結が解除されたのです。
しかし喜びもつかの間、、第2次オイルショツクである。行財政改革を錦の御旗に掲げる当時の大蔵省や臨調メンバーの抵抗にあい再び闇の中。これが、概ね昭和の時代までの動きです。平成に入ってからは、簡略化して述べます。
平成に入り長野オリンピック開催が決定。これを受け高崎~長野間を長野新幹線として先行開業。しかし、他の路線は財源の確保が常に問題になり、時として、スーパー特急方式ミニ新幹線方式、フリーゲージ方式など様々な議論が交わされる中、北陸より遥かに遅れて運動を展開した、山形、秋田両新幹線はミニ方式として開業しました。
これに多少の焦りはあったと思いますが、当時の中沖知事はあくまでフル規格にこだわり続けました。その後、紆余曲折を経て①新幹線開業時には在来線は廃止、②建設費の3割は地元負担。これを着工の条件として国が示しました。
東海道、山陽、上越、東北[東京-盛岡]の建設費はすべて国費。それが、北海道、東北[盛岡―新青森]九州、長崎、北陸は地元負担。これ程不合理な話しはないと思います。その後交付税措置によって、多少の軽減が図られましたが、受け入れざるを得ない苦渋の決断だったと思います。それ故、中沖豊氏がミスター新幹線と呼ばれた人だったから感概ひとしおであったと思う。
いずれにしても敦賀までの工期が3年前倒しになったが北陸新幹線の最終目的地は大阪です。私の眼の黒い内は無理であろうが、一日も早い完成が望まれます。
それにしても、確かに東京方面は便利になりました。しかし、関西、中京、そして、新潟から秋田方面は逆に不便になったし、在来線も第三セクターあいの風鉄道に引き継がれたが運賃が少し値上がりしました。今後の検討課題であろう。
約半世紀に亘る先人、先達のご尽力、ご努力の足跡を懐古しながら敬意と感謝を申し上げ北陸新幹線が地域の発展に繋がることを祈念するものです。