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加積雪嶋神社祭礼・獅子舞に参加して

今年は加島町二区が担当で獅子舞が奉納されました。私も、幼稚園から小学6年生までは踊り子として、社会人になってからは、獅子の中に入ったり、口上役として今日までほとんど参加しています。しかし、今年はもう年だし、お断りしましたが、是非との依頼で交通安全の誘導でもお役にたてればと参加しました。参加者は幼稚園児3名、田中小学校生15名の合計18名、加えて保護者や町内会関係者約30人が集まりました。

それにしても、朝、7時30分に町内会館前を出発し、午後8時30分に戻って来ました。
休憩があるとは言え、13時間に及ぶ徒歩での行進であり、子供達にとっては、しんどい一日だったと思います。しかし皆、疲れも見せず上手に踊っていました。子供達にとって良き思い出になったことでしょう。
ここで、滑川の獅子舞について、滑川市教育委員会が平成7年3月発行した滑川の民俗より抜粋して少し記したいと思います。

加島町の獅子舞の起源は明らかでないが、古老の話では、明治年間に能登通いの帆前船によって伝えられたという。獅子舞は胴幕に4人入るいわゆる百足獅子である。
獅子頭を高く掲げて持つ構え方は、高岡市牧野方面の獅子に似ている。射水系の流れを汲むと思われる。獅子は加島町2区、3区で各一頭有している。現在は、毎年交代で加積雪嶋神社祭礼に舞を奉納しているが、昭和20年代後半までは、二頭揃って奉納していた。2区は女〈雌〉獅子で優雅な舞を、3区は男{雄}獅子で勇壮な舞を披露する。獅子舞は5月21日「宵宮」に加積雪嶋神社の春季祭礼に披露される。
両町とも祭礼当日、まず加積雪嶋神社へ獅子舞を奉納し祓いをうける。この時は、ノッタ・ノッタ{2区だけは、この前に前踊りをする}の演目で着飾った幼児二名獅子の胴幕に乗せ、笛、太鼓に囃されて入場する。神社への入退場はノッタ・ノッタ・の演目で行う。

奉納が済むと町回りをする。特に、出演者や世話人などの家や祝い事のあった家では(花を打つ){金一封を出す}ことが慣例となっている。その際、口上が行われる。
町内一巡後、途中、河南神社で休憩後、神明町櫟原神社へ向かう。神社への入退場はすべてノッタ・ノッタ・の演目で行われる。両町とも獅子舞の一行は櫟原神社に渡御されている神輿の先触れをしながら帰ってくる。神社入り口からノッタ・ノッタ・の演目で獅子頭を先頭に幼児を胴幕の上に乗せて来る。歓声とともに拝殿へ飛び込んで鈴を鳴らす。これを(拝殿駆け上がり)と称している。拝殿前でもう一度全演目を披露し、最後はノッタ・ノッタ・の演目で退場となる。フィナーレを飾るにふさわしい幕切れである。
加島町二区で現在使われている獅子頭は井波町彫刻家で日展審査員の横山一夢が昭和25年製作したものである。両町の獅子舞の特色は、十種類以上の演目があり、演目ごとに踊り子が入れ替わり出て踊る。演目名や舞の順序、持ち物などには両町間に多少の違いがあるものの舞には共通点が多い。演目名はおよそ使用する道具の名前から名付けられている。3区の男獅子は軽快なリズムで、音色も高く男性的で、2区の女獅子はそれに比べて音色も低く、優雅な踊りと言われている。

以上が加島町に伝わる獅子舞の概要です。
その他滑川市に伝わる2町内の獅子舞についても少し触れておきます。

【蓑輪の獅子舞】
蓑輪の獅子舞は、村に入婿した利賀村百瀬出身者が伝えたという。今も利賀村の獅子舞の演目と類似したものが残されている。芸態や舞の構成からみても、加島町の獅子舞とは全く趣を異にしている。「注・筆者記す」昭和30年頃より途絶えている

【寺家町の獅子舞】
寺家八坂神社には、獅子頭雄雌二頭と胴幕や道具の一部が残されている。由来については詳らかではない。胴幕には持ち手の穴が三カ所開けられており、三人以上入る百足獅子であろうと推測される。この頭は幕末から(富山の獅子頭)を多く手掛けた田村一族によるもので、雄獅子には{明治37年富山市橋北今町、田村豊次郎製造}の銘が入っている。
雌獅子には{富山市神通町三丁目、獅子頭製造元祖田村六馬自造}の銘がある。これらのことから、寺家町の獅子舞はおそらく明治年間には行われていたのではないかと推定される。

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(加島町2区の獅子頭 横山一夢作)

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(獅子舞ノッタノッタ 雪嶋神社前にて)



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