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京都、清水寺貫主 森清範氏をお迎えして

6月7日(土)第20回市民文化講演会が滑川市民大ホールにおいて、午後3時30分より、森清範氏を講師に迎え演題『施しのこころ』と題し、開催されました。
これは滑川音羽の会(会長、不肖、私)が主催し、滑川市、北日本新聞社等の後援により今年が20回の節目の年となりました。

主催の会の名の通り、清水寺貫主森清範氏を招いての講演会であり今回で20年連続講師を務めて頂いています。森貫主によれば、20年連続同一地に行って講演することはまずないことだそうです。本当に有難いことです。
実は、森貫主とのご縁は、浜四ツ屋の元市議会議長石倉宗一氏との出会いが最初であります。氏は当時NHK早朝4時からのラジオ深夜宅急便「こころの時代」で森貫主の講演放送を聞き感動され、招聘されたのが第1回でありました。このご縁ともう1つ清水寺と滑川との切っても切れない縁が 滑川の民話【孝徳泉】です。

【孝徳泉】 (昭和61年12月10日 滑川市教育委員会発行 滑川の昔話より)
今から、約400年程前、美作(今の岡山県)に了安という人がいました。その奥さんが亡くなり、14歳の子供安正を連れて、ほうぼうのお寺にお経を納める旅にでました。
滑川にやって来たころにはとっぷり日が暮れたので、尾張屋という宿を見つけて、泊りました。 ところがその晩、了安は旅の疲れがでたのでじょうか、重い病気にかかり、起き上がることができなくなりました。子供の安正は、一心に看病しましたが、ますます重くなるばかりでした。高い熱にうなされながら了安は、「わしは、このままでは治る見込みがないだろう。せめて死ぬ前に京都の清水寺の音羽の滝の水がのみたい。」と、言いました。
その言葉を聞いた親思いの安正は「お父さん、私は今から音羽の滝の水をくみに行ってきます。それまでどうか元気をだして生きていてください。」といい、宿の主人に父を頼み、夜も寝ないで京都へ急ぎました。
京都に着いた安正は、さっそく清水寺の観音様に「どうか、父の病気をなおしてください。」と、一心にお祈りし、冷たい清水をくみとりました。父が生きていてくれることを祈りながら、安正は、大急ぎで滑川にもどりました。
しかし、安正はの願いもむなしく、父の了安はすでになくなっていました。安正は、父の墓にすがり涙のかれるほど泣きました。余りの悲しさと、長い旅の疲れが一度に出て、安正はその場にたおれてしまいました。
すると、安正の夢枕に、音羽の観音様が立たれ、「安正や、父の死はさぞ悲しかろう。しかし、やがてはあの世で会えるのだ。父があれほど待っていた音羽の滝の水だ。とっぷりと父の墓にかけてやりなさい。」と、お告げになりました。
われにかえった安正は、すっくと立ち「お父さん、音羽の清水だよ。さあ、腹いっぱいのんでくだされ。」と言いながらそそぎますと、不思議なことに墓のよこから清水がこんこんとわき出てきました。「お父さーん。」とよびかけると、いずみの底に父、了安の笑顔が写っていました。
人々は、きっとあの観音様が、安正の親思いの心をほめてわきださせてくださったに違いないと思いました。
それからのち、天保14年{1843}滑川町の五郎べえさんが、この清水をわかしお風呂を開きました。【孝徳泉】と名付けられたこのお風呂は、病気に良くきくと評判になり遠くの村からもたくさんの人が入りにきたと言うことです。

こんな縁もあり、森貫主さんがわざわざ20回も滑川にお出でになるのだろうと思います。
尚、了安の墓と言われる高さ60cm程のものが現在も厚生連滑川病院の中庭に自噴する泉があり、その横にあります。そこで、森貫主の手により京都から持参される音羽の滝の清水をかけ毎年供養の読経が唱えられています。
 
今回は、20回記念として、次の事業を行いました。
① 滑川市にふさわしい漢字一文字を募集し、選ばれた一字を森貫主に揮ごう頂き市へ寄贈する。(縦130㎝ 横120㎝)結果は、【蛍】でした。理由は、滑川市はほたるいかであり、ホタルの光を標榜している。とのことでした。
② 選ばれた方々に貫主直筆の色紙贈呈
③ 当日の来場者から抽選で貫主の著書(こころの幸)2015年2月28日第1刷発行
を10名様に贈呈。
④ 毎年12月12日漢字の日に、清水寺本堂で森貫主が揮ごうされる漢字一文字(公益財団法人 日本漢字能力検定協会所有)を第1回平成7年「震」から第20回平成26年「税」まで20点を会場で一堂に展示。講演会終了後、市博物館で6月9日(火)~15日(日)まで入場無料で展示。

以上

今回は、大西英玄執事補の前講に続き、森貫主から『施しのこころ』無財の布施と題し、ご講演を頂きました。
当日の来場者は約600人程でしたが、多くの方々に感動を与え、今後の人生の指針となる有意義なお話でした。また、会場に展示された20点の漢字一文字は圧巻でした。
 
さて、今年の清水寺は大きな行事が目白押しです。
① 清水中興の祖と言われる大西良慶和上が法相宗管長・奈良興福寺住職から清水寺住職を兼務して普山された大正3年{1914}の翌年、良慶和上が清水普門会、音羽婦人会を組織。盂蘭盆法話を暁天に開講。毎年8月1日―5日恒例とする。今年が記念すべき
100回を迎えます。一口に100回と言うのは簡単ですがなかなか続くものではないと思います。実は私も一昨年第98回暁天法話に講師として声を掛けて頂き8月3日
朝6時~7時まで(縁)と題し1時間話をさせていただきました。
② 大西良慶和上が昭和40年法相宗・興福寺より独立し、北法相宗・清水寺として立宗
今年で50年。
③ 大西良慶和上が昭和58年2月15日涅槃の日に数え109歳で示寂。今年が33回忌
④ 清水寺平成縁起絵巻、箱崎睦昌画伯筆、完成。10年の歳月かけ全9巻、{全長65mに及ぶ清水寺1200年の歴史絵巻物} これを記念して4月25日から5月13日まで清水寺成就院で特別公開されました。全国に1000年をこえる歴史を有する神社・仏閣・数あるけれど1200年の歴史絵巻物を持っているのは、多分清水寺だけでなかろうか、と思います。

数え上げればきりがありませんが、宝亀9年(778年)奈良・子島寺の賢心「延鎮」夢告により音羽の滝を訪ね、錬行中の行叡居士から霊木を授けられ、観音像を彫作、滝上の居士の旧草庵に奉祀し清水寺を開基。幾多の変遷へて、近年に入り、昭和27年(1952年)本堂が国宝に指定。平成6年(1994年)世界文化遺産に登録される。

最後に、清水寺中興の祖と言われる大西良慶和上は昭和51年(1976年)山下頼充氏夫妻の5っ子の名付け親として有名ですが、滑川にも度々お出でになり色紙や扁額も残っています。和上が滑川で詠んだ漢詩・七言絶句と6月7日森貫主が吟じた短歌を掲載します。

  我挿風残
大 亦苗吹雪 滑
西 欲未新連 川
良 耕了樹峰 行
慶 大忙景有
選 福人光別
集 田馬鮮天
第 
三 我挿風残
巻 も苗新雪
昭 まい樹の
和 たまに連
六 大だ吹峰
十 福了き別
年 田ら景天
刊 をず光あ
  耕人鮮り
  さ馬や
  んをか
  と忙な
  欲がり
  すす

  慈 孝 
  水縁徳
森 をにの
清 汲引 
範 みか
貫 てれ

・ 弥二
吟 栄十
  え年 
  まの
  せ

                
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(左:開会のあいさつをする私         右:森清範貫主の揮ごう「蛍」)

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(講演の森清範貫主)

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(会場に展示された第1回(平成7年)「震」~第20回(平成26年)「税」まで20枚)



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