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7月12日、談山(たんざん)神社へ

7月12日(日)早朝甥っ子の運転で奈良県桜井市の談山(たんざん)神社(ご祭神、藤原鎌足公)へ。神社由緒によれば、飛鳥法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って曰く。鞍作 蘇我入鹿 の暴逆をいかにせん、願わくば奇策を陳べよと。中臣連、皇子を蒋(ひき)いて、城東の倉橋山の峰に登り藤花の下に揆乱反正の謀り談ず」と記されています。

この談合により、皇極天皇4年(645年)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はその後、談峰、談い山・談所の森と呼ばれるようになり「大化改新談合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談合神社」もここからきています。

天智天皇8年(669年)10月、鎌足公の病が重いと知った天皇は、自ら病床を見舞い後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏はここから始まります。鎌足公の死後お墓は摂津の国安威山(現在の高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678年)唐より帰国した長男、定慧和尚が、鎌足公の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬し十三重塔と講堂を建立して明楽寺と称しました。さらに、大化元年(701年)方三丈の神殿を建て鎌足公の御神像を安置しました。これが、談山神社の始まりです。
以上が神社由緒のあらましですが、私達は、時々(談合)と言う言葉を耳にします。
しかし、それはこれに由来するとは正直知りませんでした。

多分、歴史上最初の談合の最たる事件であろうと思います。参考まで、辞書によれば「談=かたる。談話。談笑。相談。」、「合う=集まって一つになる。」
又、室町時代・享禄5年(1532年)再建された十三重塔(重要文化財)は十三重塔としては世界唯一の木造建築で実に見応えのある素晴らしい塔でした。次に、同じく桜井市内にある聖林寺を訪ねました。
寺の創建は古く、奈良時代・和銅5年(712年)談山明楽寺の別院として藤原鎌足の息子定慧が建てたとされています。特に、国宝十一面観音菩薩が有名で天平時代(760年代)の作と言われ、均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感ある上半身、微妙な変化を見せる指先等、ミロのビィーナスとも比較される仏像彫刻の優作でした。それにしても、無財の七施の一つに眼施があります。正に、観音菩薩を含め、仏様の眼差しを見ていると、どこか、心が癒される思いがいたします。中々見ることが出来ない所を駆け足でしたが充実した半日でした。

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<談合したといわれる所と世界唯一の木造十三重塔(重要文化財)談山神社>



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