9月10日(木)午後1時30分より3時まで富山市山田湯山田温泉元湯「玄猿楼」で臨床検査薬協会総会、及び管理者研修会が開催され、その講師を務めました。
演題は「富山のくすりの歴史と現状」でした。
久し振りに玄猿楼に行きましたが、以前と何ら変わることなく、閑静な山あいにある出湯であり、富山の奥座敷の風情を漂わせていました。
途中、みどりの一里塚駐車場に、富山藩第十代藩主、前田利保公の歌碑がありました。
「山田川、湯むらのさくら、咲にけり、ぬるる流れに、影をうつして」
平成8年3月、当時の山田村教育委員会が建立したものでありますが、利保公はよく湯治にこの地を訪れた藩主でしたが、特に薬草栽培に力を注いだ藩主で、薬業の祖、二代藩主正甫公と共に薬業発展に尽力された人物です。
さて、この会は昨年は福島県で開催されたそうですが、今年はやはり北陸新幹線が開業したこともあり、富山としたとのことでした。
参加者30名、診断薬メーカーで情報担当者教育の研修に関わっている方々です。
しかも、全員が県外の方々ばかりでした。当日は関東、東北の記録的な豪雨で心配されましたが予定道り開催されました。
そこで、県外の方々ばかりであり、本来の演題である「富山のくすりの歴史」等は事前に資料配布してありますので、約半分は富山のPRに時間をさきました。
例えば、越中立山を最初に日本中に発信したと思われるのは、越中の国守であり、万葉の歌人である大伴家持であること。万葉集に残した彼の歌は473首。うち越中国守時代に220首を詠み、多くが立山の雄大さや、神々しさを詠んでいる。
これらが、立山を国内に紹介した最初であろうと思う。また、その当時は日本海側が表日本であったのに、いつ頃から裏日本と呼ばれるようになったのか?私見を交えお話をしました。
万葉以後、越中の立山、加賀の白山、駿河の富士山が三霊山。信仰の山として国内に広く知られるようになってゆく。次いで幕末、駐日公使を務めた英国人アーネスト・サトウ(1843-1929)が幕末事情視察のため書記官時代の1867年(慶応3)年8月、軍艦で佐渡島から富山湾を通り、七尾へ向かう途中に立山を眺め、その折淡々とした表現で「約一万フイートの立山火山を中心とする越中の高い連峰がみえる」「一外交官の見た明治維新」と書いています。
立山、黒部アルペンルート、黒部峡谷の雄大なる大自然、世界遺産の合掌集落五箇山、ブリ、ほたるいか、白エビ等の多彩な食文化や蜃気楼など。
加えて、地方創生が叫ばれる昨今、YKKを始めとし、本社機能の一部を富山県に移す企業がでてくるなどを紹介しながら、それは単に税制上の恩典だけでなく、富山県ほど災害の少ない県はないことも大きな理由であることも力説しました
又、7世紀末、越前、越中、越後、を以って越の国が誕生しました。しかし、何故、越前と越中との間に加賀があるのか?
823年(弘仁14年)加賀の国誕生の経緯や越中の国成立過程の話などをしながら講演を終えました。
<日本臨床検査薬協会総会 管理者研修会講演会にて>