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役の行者(えんのぎょうじゃ)像、御開帳

11月7日曹洞宗、五智山、独勝寺{滑川市加島町}にて第10代長谷川喜十郎{明治10年1877年―昭和10年1935年}作役の行者像御開帳法要が執り行われました。越中の左甚五郎と称された第10代長谷川喜十郎を一躍有名にしたのは、日光東照宮模型製作です。

最初の製作は、明治45年{1923}富山市で開催される一府8県連合共進会への出展が目的で、八尾町の松本駒次郎氏からの依頼であった。初作の模型は、本殿、五重の塔、陽明門、の3点で製作は1年かけて行われました。展示は好評で展示後は全国各地を巡回したが大正7年5月博多で焼失しました。

2作目は大正4年2月24日開会のサンフランシスコ展覧会に日本政府の出陳として東照宮経由で製作が要請されました。この時、模型製造工10名と共に東照宮内の「赤倉」に泊りこんで、僅か3ヵ月程で製作したといわれています。その後、出品作品は、大正14年{1925}東京大学工学部へ寄贈されましたが、昭和35年{1960}日光東照宮に返還され、その模型は今日まで、日光東照宮宝物館に展示されています。ただ、博覧会に出品された20分の1の模型であるといいます。

3作目は仙台市の資産家、浜田長蔵氏の依頼によるもので、5年の歳月をかけ大正15年{1926}ようやく全容が完成しました。この作品は昭和2年{1927}東京の国技館での「日光博」に出品され80万人が見学に訪れました。展覧会は京都、大阪、奈良でも開催され、大好評を博しました。模型は、28棟、部品は五十万点からなり、眠り猫の実寸彫刻もありました。正に、当時の新聞は「越中の左甚五郎」と報じました。
しかし、この模型が完成した6年後には長蔵が10年後には喜十郎が相次いで亡くなり、巨大な模型はその後時代の荒波に翻弄されます。
昭和62年{1987}3月愛知県岡崎市で開催された、葵・博覧会の資料によると、戦後アメリカに渡ったのはこの模型です。アメリカでは昭和28年{1953}サンフランシスコ貿易博を皮切りに全米各地を回り、二ユ―ヨーク世界博{昭和39年―昭和40年}で展示されました。全米各地での人気は高く,譲渡を迫る米国人の手を逃れ、昭和49年には日系米国人の手によってハワイ、ホノルルで永らく大切に保存されていました。

昭和60年に市制70周年を迎え、徳川家康公の生誕地である岡崎市の目に留まり、いつの日か日本へ里帰りさせたいと願っていた日系米国人との思惑が一致し、晴れて日本の地を踏むことになります。
当初は、岡崎市で保管する計画であったが、諸般の事情で平成7年から高山市の桜山八幡宮が所蔵し現在展示されている。この模型が高山市にくるまでの間、9億円近くで売買されたという話も伝わっています。

一方、地元滑川市において、昭和5年{1930}4度目の模型製作が企画された。有志の手によって資金を調達しながら製作が進められ1年後に10点が完成したが、資金の調達が困難となり製作が中止され全容は完成しませんでした。
現在では、残念ながらその所在すら分からなくなっています。ただ、その日光東照宮の模型の一つが滑川市博物館にあります。それは、大正6年に製作に着手して10基製作したうちの一つであり、滑川市に現存する唯一のものです。

長谷川家の当主は、現在第13代目であるが作品は10代を含め近隣に結構残っています。
平成26年1月―3月滑川市制60周年記念事業として、長谷川喜十郎とその弟子たち展が開催された。しかし、今回独勝寺で御開帳された厨子の中の「役の行者」と前鬼、後鬼の3体は新発見のものでした。
ご住職の話によれば、今年に入りお寺の仏様を整理中に「役の行者」の背中に「大正時代喜十郎謹作」と記し又、赤字で寄進者の氏名が記されているのを見て、市博物館に調査を依頼したところ、第10代長谷川喜十郎の作品に間違いないことが分かり今回の御開帳に繋がったとのことでした。

尚、「役の行者」像は近隣ではほとんど見かけないとのことでした。法要が終わったあと、住職に質問したのは
①独勝寺に寄進された訳は
②何故「役の役者」なのか
③寄進月日を特定せず、漠然と大正時代としたのは何故か
④寄進者名から手掛りは
⑤像の材質は
等であったが残念ながら今後の調査に待たねばならないとのことでした。

そこで、私の推測だが、富山売薬のルーツは立山修験者と言われる。片や大和{奈良}売薬の始祖はやはり修験者である「役の行者」と言われています。彼は葛城山で修業し黄柏のエキスから製造したのが「陀羅尼助」{だらにすけ}で、これが大和売薬のルーツと言われています。
そこで、独勝寺の関係者である売薬さんが「役の行者」の由来を知った時、神農像なら珍しくないが、同じ薬業の始祖である「役の行者」像を長谷川喜十郎に製作を依頼したのではないかと思います。
参考まで歴代喜重郎作の神農像は何体も存在しています。
いずれにしても、「越中の左甚五郎」と謳われた第10代長谷川喜十郎の作品が今頃発見されるとは驚きです。こう考えると、まだまだお宝が眠っているような気がします。

住職の話では次回の御開帳は来年とのことであったが、出来るだけ多くの機会を作り、一人でも大勢の方々に見学できる機会があれば良いと思います。

第10代長谷川喜十郎に関する記述は「長谷川喜十郎とその弟子たち展図録より一部引用」

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     <御開帳法要 独勝寺にて>     <厨子の中の役の行者と鬼2体>



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