5月21日{月}第8回{一社}秋田県医薬品配置協会総会が秋田市山王4丁目2-12、「ルポールみずほ」で開催されました。私は協会の顧問であり、来賓挨拶と共に業界の現状について講演依頼があり出席しました。
それにしても富山から秋田までの交通機関の不便さにには、改めて驚きました。
まず、あいの風とやま鉄道で滑川発7時07分~泊着7時39分、ここで、えちごトキめき鉄道に乗り換え、泊発7時51分~直江津着9時2分、JR直江津発9時22分~長岡着10時25分 乗り換えで長岡発10時29分~新潟着、11時57分、ここでやっと特急「いなほ」秋田行き12時32分に乗り換え秋田着16時4分。
泊、直江津、長岡、新潟と4回乗り換え、実に9時間を要しました。
これを、北陸新幹線で富山発6時19分かがやきで大宮経由で秋田新幹線に乗り換え、秋田着12時30分。つまり午前10時の会議には間に合いません。
結局日本海ルートで前泊。かつては、大阪~青森間には寝台特急「日本海」が2本と特急「白鳥」や金沢~青森間の急行「しらゆき」などがありました。それを利用していた私としては今昔の感ひとしをです。
やはり、北陸新幹線開業の影響をまともに受けた区間です。しかし、この間、読書の時間が出来た事でよしとしました。
さて、私の講演内容は、最近の業界の諸問題。例えば、来年10月予定では消費税は10%に引き上げられます。そうなると、医薬品や医薬部外品は10%、しかし、軽減税率が同時に導入されるので、健康食品や栄養食品などは従来通り8%。精算が煩雑になることを指摘し、その準備をしておくことなどを話し、最後に今年は明治維新から150年の節目の年に当たり、当時の売薬の苦難を乗り越えた歴史を話しました。
例えば、幕末、緒方洪庵のもとで蘭学を学び、のちに渡米、渡欧を通じて西洋文明を吸収した福沢諭吉は明治に入り漢方薬より洋薬を礼賛。また明治4年11月岩倉具視を代表とし大久保利通、木戸孝充、伊藤博文などの遣欧使節が産業や憲法、軍事、法律、医学など視察、帰国後、医学薬学は西洋医学へと傾いてゆきます。しかし、越中売薬は、ただ手をこまねいていたわけではありません。すでに富山の売薬業界は、激動の時代の中で、自らの変革に取り組んでいました。個々の売薬業者がおのおの調剤を行っていた旧来のやり方を改めて、薬を安定した品質で製造できる製薬会社を共同で設立しました。
明治9年{1876}年に設立された調剤所廣貫堂はその先駆けであり、これが現在の廣貫堂に繋がっていきます。製薬会社では、共有した技術や知識をもとに、より良質の薬を提供しようと試みました。和漢薬のライバル、洋薬のノウハウ導入にもためらいはありませんでした。富山では、西洋医学に基づく化学成分を取り入れた薬を、全国でも早い時期から製造しています。
また、人材を育て、知識や技術を磨く場として明治27{1894}年、共立富山薬学校が設立されました。売薬業者の共同出資で誕生した同校は、やがて全国初の公立薬学専門学校となり、薬学教育の系譜は現在の富山大学薬学部へと受け継がれています。
海外市場の開拓にも積極的だった。明治19年{1886}年、ハワイへの進出を皮切りに、現在の朝鮮半島、中国大陸、台湾へ、或いは樺太へと売薬の販路を広げました。日本人がいる地域であればどこへでも、柳行李を背負って薬を届けました。県民の進取の気質の面目躍如たるものあろう。
昭和万葉集巻四{昭和12-14}の中に次の短歌があります。
「慌ただしく、土民の一家落ちのびし、土間に捨てあり富山の薬」
業界あげての取り組みの陰には、顧客との信頼関係を何よりも大切にし、顧客がひとたび災害や不幸に見舞われた時は、商いを離れて献身的に奉仕した多くの売薬商人がいたことも忘れてはなりません。
このように多くの試練や苦難を先人達たちは忍耐と進取の気性で乗り越えてきたことを話し、出席者を激励しました。
総会終了後、昨年秋多年にわたり秋田県民の保健衛生向上と業界発展に尽力され、厚生労働大臣表彰の栄に浴された佐々木隆氏の祝賀会が賑々しく行われました。
翌日、22日富山に帰る人の車に同乗し夕方安着しました。途中、秋田県と山形県の県境にある鳥海山{2236㍍}がとても綺麗でした。