7月28日~9月2日まで滑川市博物館で米騒動100年「滑川から全国へ」と題する企画展が開催されています。その中、8月5日シンポジウムが開催されました。
1918年{大正7年}8月5日は滑川で米騒動が起きた最初の日です。多分シンポジウムはこの日にあわせたものと思います。
それにしても、企画展は新資料や写真を含め500点に及ぶ多数の展示数でした。
第1章―社会背景と100年前の滑川「大正デモクラシーの時代」
第2章―滑川町と富山県内の米騒動
第3章―全国へ広がった米騒動
第4章―明治時代の米騒動
第5章―米騒動後から現代へ。
と分けられていました。
私の様な素人には、約2時間ほどかけて見て回りましたが、充分理解できないままに多少疲れました。しかし、初めて眼にする資料や私の思いとは違う資料などに触れた時などは新鮮な驚きでした。
例えば、当時、全国に130社以上の新聞社が存在したが、その内、紙面が現存し、富山県の米騒動を事件として報じたことが確認できた52紙から滑川の騒動を取り扱った記事89件、東西水橋町60件前後、富山市21件、魚津18件などの資料や、当時の富山県知事が8月7日から8月15日付まで、計60ページに上る報告書で、内務省に宛てたとみられる中の7日付文章は6日の2千人規模の騒動を「5日は漁師町の主婦が中心だったが状況が一変し、羽織姿の者や巻きたばこを吸う者のほか、学生や会社員ら「知識階級」が非常に多く参加した」と報告されています。
これは、騒動に加わる民衆が貧困層から中流層に拡大したことを認める内容であり、市博物館近藤学芸員は「中流層を含めて民衆が広く加わったことが騒動を拡大させた要因ではないか」と分析。
滑川では多くの男性が参加したことに触れ、「米騒動」を『女一揆』や下層社会の話に収れんしてはいけない。当時の社会情勢を含め、もっと広い視点で考え直さなければなれない。と指摘しておられます。同感です。
また、当時の外務省の「帝国二於ケル暴動関係雑件」や防衛省が所蔵する海軍省の「米価問題二付騒擾ノ件」など膨大な資料の中からや、全国紙の中から富山県の米騒動の記事だけを抜き出すなど、まさに根気強さと、その調査能力の凄さに驚くと同時に感心します。
次に、シンポジウムは
①「滑川の米騒動と中流社会」 近藤浩二{滑川市博物館学芸員}
②「米騒動の滑川町と周辺のくらし」 浦田正吉{元・富山県立博物館副館長}
③「米騒動にみる民衆文化とそのゆくえ」 藤野裕子{東京女子大学准教授}
④「滑川・水橋における1918年米騒動の社会史 能川泰治{金沢大学教授}
の4名が講師となり、それぞれ約30分上記の演題で講演後、会場の方々の質問に各講師が答えるものでした。
その詳細はここでは紙面の関係上全てを記せませんが、今日まで私が思っていた疑問が解消した点、解消されなかった点、新たな知識を得たことなどを含め、私見として述べてみたいと思います。
{一}従来、滑川の米騒動はほとんどが女性であったと思っていた。何故なら、当時の高岡新報{現・北日本新聞}や全国紙を含めほとんどの新聞は「女軍米屋にせまる」「滑川の女一揆」或いは「富山県の女一揆」などと報じていた。
また、米騒動に関する証言や資料を見てもやはり女性が中心である。そこで、素朴な疑問としてその時男達は歴史の傍観者であったのか?ある人は、売薬さん達は県外に出張中で留守だったから滑川に居なかった。と言う人もいた。しかし、これは、今回の知事の内務省への報告書や、その時代の中流層といえども生活難だったことを考えると理解出来る。しかし、新たな疑問として、しからば、何故、新聞は中流層の男性も騒動に参加していることを報道しなかったのか?この点が私には解らない。
{二}1918年の米騒動は魚津、滑川、東西水橋町、富山など殆どが呉東地域である。
騒動を報じた高岡新報は高岡を中心とした新聞社であるから、当然、購読者は呉東より呉西が多いはずである。これだけの騒動を報じているにも拘わらず何故呉西地域から米騒動がほとんど起きなかったのか?この点が私には解らない。
確かに、江戸時代にも農民一揆が発生しているし、明治に入っても「ばんどり騒動」や明治23年、30年、45年などの米騒動は呉西地域でも発生している。故に、米騒動の発祥の地はどこか?は私に言わせるとこれは問題でない。
今日の100年の節目を機会に、米騒動が発生した社会的背景。庶民の生活。米騒動がその後の社会に与えた影響などから何を学び、それを今後にどう生かすか?を考える機会であったと思います。
滑川で8月6日に起きた騒動は2千人と県下最大規模あった。それが、全国紙にセンセーショナルに報じられたことが、滑川と言う点から全国的な面となって広がっていったと思います。しかし、同じ米騒動と言っても都市や農村など地域によってその運動の動機や行動は全く違っていた。東京では焼き討ち事件も発生しています。
しかし、滑川の米騒動は8月5日浜町などの漁師の主婦約50人が口火を切る。町内の米穀{米肥}商、地主宅を巡り、米の積み出し{移出}停止と安売り{廉売}を哀願。回っている内に他の困窮者や夕涼みに出ていた町民も野次馬となって加わって約300人の集団になり、下小泉町の米肥商宅に行き着く。そして、路上に「土下座」や「端座」して窮状を訴え続けます。つまり、非暴力の哀願、懇願運動であったのである。藤野講師によれば江戸時代においては為政者や富裕者は民衆の生活が立ちゆくようにする責務があると考えられていたという。仁政です。
米騒動当時、この様な流れがあったんだと思います。滑川町役場は7日臨時会を開き、各町内会に10日から安売りを始めることを書いた貼り紙を出すなどし廉売を開始{9月16日まで}また、町民約100名から約4900円の寄付金が寄せられ廉売の一部に充てられた。これらによって、滑川の米騒動は10日過ぎから収束に向かって行ったという。
まさに、江戸時代の仁政の様なものである。最後に、何故滑川=米騒動となったか?
それは、やはり当時のマスコミ報道の影響と私は思う。事実、1922年8月12日付「北陸タイムズ」は次のような記事を掲載しました。
「所詮米騒動なる者があって、今年で5か年たった。米騒動と云えば滑川の女、滑川の女と云えば米騒動、両者は茲に離るることの出来ない腐り縁の業縁につながれた。」
5年経ってもこの様な報道である。まったく、けしからんと思いますが残念ながらこの様な報道がまかり通ってしまったことによって、米騒動=滑川の女というイメージが定着したような気がします。いずれにしても、色々なことを学び、考える良き機会でした。
歴史とは、時々に起こる事象を正確に公正に後世へ伝えてゆくもので、時の権力者や、勝ち負けの勝者によって事実が隠蔽され真実と違う形で伝えられるべきではないと思います。
その点今回の企画展やシンポジウムには新たな発見資料も加えられ、より事実に近づいた企画でありました。
それにしても、これだけ多くの資料の収集や調査された方々に感謝致します。特に米騒動の記事が不適切として発禁になった高岡新報の原本の展示も珍しい物でした。
参考まで【広辞苑】より
①騒動―多人数が乱れ騒ぐこと。非常の事態。事変。もめごと。
②一揆―中世の土一揆、近世の百姓一揆などのように、支配者層への抵抗・闘争などを目的とした農民の武装蜂起。
③暴動―徒党を組み騒動をおこすこと。多くの人が集まって騒ぎを起こし治安を乱すこと。
④デモ―デモンストレーションの略。特に、示威行進をいう。