なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2015年

一日も おろそかならず 古暦 虚子の句

月日の流れは実に早いもので、今年もわずかになりました。
私の家にも、新しい暦が届きました。そうなると、俳句の世界では今使っている暦は古い暦になるそうです。しかし、古い暦と言えど一日たりとも疎かにしてはいけない。そんな戒めの一句と思います。
さて、12月7日富山市の教育記念館で薬業従事者の研修が開催され、お話をさせていただきました。私の研修のテーマは『配置薬業の理念・倫理』です。

しかし、受講者は現役の従事者の方々であり、正に釈迦に説法の感があります。
だが、何故、配置薬業に理念、理性が求められるのか?を始めとし、配置薬業が社会的に存在している訳、社会に果たす役割、そして、服薬指導、情報の提供、健康相談、自らの健康は自らが守る、と言う、セルフメデケ―ションの啓蒙、配置薬業の果たす重要性など話しました。それにしても、皆さんの真面目な姿勢には感心いたしました。

研修は5日間、のべ30時間にわたり①一般用医薬品の適正使用と安全対策。②医薬品に共通する特性と基本的な知識。③薬事関係法規・制度。④人体の働きと医薬品。⑤配置販売に関する法律。⑥主な医薬品とその作用。⑦主な一般用医薬品とその作用。などをそれぞれの分野をより細分化した内容で行われます。そして、最終日に研修評価として試験・レポート提出が行われます。これは、県内在住の配置従事者全員が対象で年10数回に分けて実施されています。驚く位、内容の濃い研修です。
故に、安心し、かつ信頼できる方々が配置に従事しておられると私は思っています。

最後に、幕末の儒学者、佐藤一斎の言葉に「少にして学べば、壮にして成す。壮にして学べば、老にして衰えず。老にして学べば、死して朽ちず。」
改めて、そんな言葉を思い出しました。

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先祖に想いを馳せる

金色の、小さき鳥の形して、銀杏散るなり、夕日の丘に。(与謝野晶子の歌)

木枯らしが吹き、今年も1ヵ月余りとなりました。
さて、「私達は一人の例外もなく父と母があることによってこの世に生を得ました。その父と母にもそれぞれ両親がいます。それを遡っていけば、どうなるのか。十世代で1024人。二十世代で104万8576人。三十世代では10億7374万1824人。四十世代遡れば、1兆995億1162万7776人。
想像を絶する数になります。正に人類皆兄弟といわれるゆえんでしょう。そして、この祖先の命が1回も途切れずに今日に生きているのがあなたの命であり私の命です。

この命の連鎖がどこかで断ち切れていたら、あるいは別の人に代わっていたら、あなたも私もここに存在していません。そんな折、先般、北海道旭川出身で現在兵庫県宝塚市在住の方が私の家にお出でになった。氏の先祖の母方が明治の半ば滑川より北海道に移住され、中屋姓から嫁いでいるとのことでした。

ひょつとしたら我が家との縁戚も含め、父方、母方のルーツを調査中で私にも協力をお願いされていました。これも何かの縁と思い、私は私なりに調べましたがなかなか進まず、氏は氏でかなり調査されたようですが、最終的に滑川に一度訪問することとなり今回実現したものです。

当日は、氏が収集された「除籍簿」や「早月加積村史」、「四ッ屋村の由来書」など多くの資料の中から、古文書等は市博物館の職員に解読してもらったり、中屋家の菩提寺を訪ねご住職より寺の過去帳などから説明を受けたりしました。また、中屋家総本家でも過去帳を始め調査されましたが、結果は残念ながら多少は判明したものの充分とは言えなかったようです。
一日同行しましたが私の力不足をお詫びすると、氏は「せめて自分の先祖の生まれた地を訪ねることができただけでも満足です」との言葉には胸が熱くなりました。

私にとって先祖と言えば目に見える範囲、つまり祖父母あたりまでをそのように意識していました。それが今回の件で先祖とはそれよりはるか以前から多くの人々の縁によって今日の自分が居ることを再認識すると同時に、いつの日か我が家の家系図を作成しようと思う機会にもなりました。

氏は翌日、父方のルーツも調査されましたが、後日の手紙ではそれも難しかったそうです。それにしても、氏は宝塚にいながら「滑川市史」や「豊頃町史」を読破しておられるのには驚きました。誰にも生まれ育った故郷があり家があります。そして、先祖が居ます。それは、時として人それぞれの心の拠り所として生きています。改めてそう思った次第でありました。

平成27年11月21日記



射水市大島地区社会福祉協議会研修会

10月10日、上記研修会の講師としてお話をしました。
演題は「富山の売薬の歴史」です。その前に、10月10日と言えば、かつては「体育の日」で国民の祝日でありました。ご存知の通り昭和39年(1964年)のこの日東京オリンピツクの開会式が行われた日です。
当時のテレビ中継のアナウンサーの表現を借りれば、「世界中の秋晴れを東京に集めたような素晴らしい青空」とのことでした。これは明治以降の観測データに基づき、晴れる確率が最も高い日を選んだのです。平成32年(2020年)開会式は7月下旬です。

一説によれば、地球温暖化がより進み、この頃は真夏日、猛暑日などが続くことが予想されています。暑さ対策は当然行われると思いますが、10月でもよかったのではないかと思います。
さて、そのオリンピックを記念して、昭和41年(1966年)スポーツに親しみ、健康な心身をつちかう日。として国民の祝日に制定されました。

これが、平成12 年(2000年)ハッピーマンデー制度により10月第2月曜日とされました。
このようなことは、成人の日は、1月15日から1月第2月曜日。海の日は7月20日から7月第3月曜日。敬老の日は9月15日から9月第3月月曜日にいづれも変更になりました。
しかし、祝日になった時、その理由と意義がある訳です。それが、ハッピーマンデー導入により変更されましたが、私は疑問に思う一人です。

さて、当日は、大島地区24町内会長さんと役員。これに民生児童委員約40名程の参加でした。
最初に射水の地名について説明しました。645年大化の改新のあと、北陸一帯を含んだ越の国が置かれ、7世紀末、越の国が、越前、越中、越後の三国に分割されます。ここに越中の成立を見ます。所管は、射水郡、砺波郡、婦負郡、新川郡、これに今の新潟県の一部である頸城郡、魚沼郡、古志郡、蒲原郡を加え計8郡です。
しかし、大宝2年(702年)3月17日4郡が越後国所管に移されます。その後、養老2年(718年)越前から能登国が独立しますが、天平13 年(741年)12月10日能登国は越中国に併合されます。珠洲郡、能登郡、鳳至郡、羽咋郡を加え再び8郡となりました。

ですから、大伴家持が越中の国守として赴任した天平18 年(746年)には能登は越中の所管であります。
その後、天平宝字元年(757年)5月8日この4郡は越中から分割され、能登国の再置となったことなどを話しながら射水の地名の古さや歴史について多少説明しました。

本題に入りいわゆる富山売薬の起源といわれる元禄3年(1690年)12月江戸城内における三春藩主秋田河内守腹痛事件から始まり、享保18年(1733年)滑川売薬が始まり寛政元年(1789年)射水売薬、弘化4年(1847年)大門売薬。嘉永年間(1847-53年)高岡売薬の始まりなどを話しました。

明治維新の折、洋薬礼賛、漢方排斥、売薬印紙税の導入など苦難の歴史の中、電力や金融、印刷など様々な産業を起こし、教育機関の充実を図るなど、富山県の近代化に大きな貢献を果たしました。
そして、コンビニ、ドラックストア、診療所、医院、病院等これほど普及している現在ても、全国5500万世帯のうち、約860万世帯に置き薬が配置してあります。
また、売薬さんがそれぞれの家庭を訪問し、自らの健康は自ら守る、と言う自己治療。つまり、セルフ・メディケーションの啓蒙やそれぞれの家庭のヘルス・コンサルタントとして大きな役割を果たしていることを話しました。

与えられた1 時間15分はアッと言う間に過ぎました。嬉かったことは出席者の内、10数名の方が置き薬を置いているとのことでした。その方々には引き続き富山の薬をご利用頂くことと、薬箱を配置していない方々には是非ご利用頂きたいことをお願いし、講演を終えました。

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京都清水寺 森清範貫主揮毫 『蛍』 市へ寄贈

9月14日(月)午前11時より滑川市西地区コミ二ユテイーセンターロビ―で音羽の会会員、市関係者出席のもと贈呈式が行われました。
これは、去る6月7日市民大ホールで開催された、清水寺森貫主をお招きしての市民文化講演会(主催滑川音羽の会、会長、不肖小生)の席上揮毫頂いたものです。

森貫主さんもお話になっておられましたが、同一地区に20年、20回連続して講演するのは滑川位とのことでした。本当に有難いことです。
そんなことで、今回が節目の年であり、何か記念になることができないか?
会員の皆様と相談したところ、滑川にふさわしい漢字一文字を森貫主にご揮毫頂き市へ寄贈することとしました。幸い市のご理解とご協力のもと市広報を通じ募集したところ『蛍』が選ばれたました。
『蛍』を推薦した方々は、滑川は、「ほたるいか」の街であり、「ほたる」の街である。より、ひかり輝く滑川を願ってとのことでした。

縦150センチ、横140センチ、の大きな額入りで、設置場所も多くの方々が出入りされる西地区コミニユチーセンターロビーです。是非一人でも多くの人々にご覧いただきたいものです。また、講演会当日、過去20年間の、それぞれの一年間の世相を漢字一文字に表したパネル20枚を清水寺のご配慮と漢検のご厚意により展示させて頂き好評を博しました。

「新米の、その一粒に、光あり」俳人、高浜虚子の句です。

『蛍』この一文字が、新米の一粒の光のように、市民一人一人が光輝き、それが、滑川市全体の輝きに繋がることを念ずるものです。

尚、今回の寄贈に対し市より滑川音羽の会に感謝状が授与されました。

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              <森清範貫主揮毫 『蛍』贈呈式にて>



臨床検査薬協会講演

9月10日(木)午後1時30分より3時まで富山市山田湯山田温泉元湯「玄猿楼」で臨床検査薬協会総会、及び管理者研修会が開催され、その講師を務めました。
演題は「富山のくすりの歴史と現状」でした。
久し振りに玄猿楼に行きましたが、以前と何ら変わることなく、閑静な山あいにある出湯であり、富山の奥座敷の風情を漂わせていました。
途中、みどりの一里塚駐車場に、富山藩第十代藩主、前田利保公の歌碑がありました。

「山田川、湯むらのさくら、咲にけり、ぬるる流れに、影をうつして」

平成8年3月、当時の山田村教育委員会が建立したものでありますが、利保公はよく湯治にこの地を訪れた藩主でしたが、特に薬草栽培に力を注いだ藩主で、薬業の祖、二代藩主正甫公と共に薬業発展に尽力された人物です。

さて、この会は昨年は福島県で開催されたそうですが、今年はやはり北陸新幹線が開業したこともあり、富山としたとのことでした。
参加者30名、診断薬メーカーで情報担当者教育の研修に関わっている方々です。
しかも、全員が県外の方々ばかりでした。当日は関東、東北の記録的な豪雨で心配されましたが予定道り開催されました。

そこで、県外の方々ばかりであり、本来の演題である「富山のくすりの歴史」等は事前に資料配布してありますので、約半分は富山のPRに時間をさきました。
例えば、越中立山を最初に日本中に発信したと思われるのは、越中の国守であり、万葉の歌人である大伴家持であること。万葉集に残した彼の歌は473首。うち越中国守時代に220首を詠み、多くが立山の雄大さや、神々しさを詠んでいる。
これらが、立山を国内に紹介した最初であろうと思う。また、その当時は日本海側が表日本であったのに、いつ頃から裏日本と呼ばれるようになったのか?私見を交えお話をしました。

万葉以後、越中の立山、加賀の白山、駿河の富士山が三霊山。信仰の山として国内に広く知られるようになってゆく。次いで幕末、駐日公使を務めた英国人アーネスト・サトウ(1843-1929)が幕末事情視察のため書記官時代の1867年(慶応3)年8月、軍艦で佐渡島から富山湾を通り、七尾へ向かう途中に立山を眺め、その折淡々とした表現で「約一万フイートの立山火山を中心とする越中の高い連峰がみえる」「一外交官の見た明治維新」と書いています。

立山、黒部アルペンルート、黒部峡谷の雄大なる大自然、世界遺産の合掌集落五箇山、ブリ、ほたるいか、白エビ等の多彩な食文化や蜃気楼など。
加えて、地方創生が叫ばれる昨今、YKKを始めとし、本社機能の一部を富山県に移す企業がでてくるなどを紹介しながら、それは単に税制上の恩典だけでなく、富山県ほど災害の少ない県はないことも大きな理由であることも力説しました

又、7世紀末、越前、越中、越後、を以って越の国が誕生しました。しかし、何故、越前と越中との間に加賀があるのか?
823年(弘仁14年)加賀の国誕生の経緯や越中の国成立過程の話などをしながら講演を終えました。

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<日本臨床検査薬協会総会 管理者研修会講演会にて>