なかや一博 ブログ

年別アーカイブ: 2022年

白洲次郎・正子特別展

樹も草も しずかに梅雨 はじまりぬ  日野草丈

県立水墨美術館で開催中の白洲次郎生誕120年記念特別展ー武相荘折々のくらしーを鑑賞した。
白洲次郎{1902ー1985}は兵庫県芦屋で生まれ育った。綿貿易商「白洲商店」を興して巨額の富を築いた父の下、19歳で旧制神戸一中を卒業後、英国のケンブリッジ大学クレア・カレッジに留学した。
昭和恐慌によって白洲商店が倒産、大学院に在学中の次郎もやむなく日本に戻った。彼は、第二次大戦では開戦当初から日本の敗戦を見抜き、1942年鶴川{現・東京都町田市}に移住「武相荘」と名付けた茅葺きの日本家屋に住み、農業に従事する。

戦後吉田茂に請われてGHQとの折衝に当たるが、英国仕込みの流暢な英語で言うべきことは堂々と主張する姿から「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれたと言う。
又、洗練された身ごなしで「日本人で初めてジーンズをはいた男」とも呼ばれたと言う。特に、日本国憲法制定にも関わったり、1951年9月サンフランシスコ講和条約締結式にも、吉田茂側近として同行し活躍した。吉田の受託演説は当初英文で書かれていたのを白洲の主張で日本語で演説したと言う。

その演説の全文が奉書巻紙に書かれ展示してあった{複製}.これらのことから政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、吉田政権崩壊後、実業家として東北電力会長や軽井沢ゴルフ倶楽部理事長など務めた。旧制中学時代の同級生・今日出海は彼を「野人」と評している。
正子{1910ー1998}は樺山伯爵の次女として、東京に生まれる。

祖父は薩摩出身で海軍大臣等歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員、幼いころから能を習い、学習院女子部初等科卒業、同年米国のハートリッジスクール入学。帰国後互いに一目惚れして結婚。
古典芸能に親しみ、着物や骨董品を愛し、初の著書「お能」を皮切りに、「韋駄天お正」と命名された通り、自分の眼で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかったと言う。

今回の特別展では、武相荘での暮らしにスポットを当て、次郎の洋服や時計、道具類をはじめ、カントリー・ジェントルマンの志で戦後日本の復興に奔走した資料や正子が愛した着物や骨董品、自筆原稿など展示してあった。特に興味を引いたのは、次郎が英国留学中に購入した愛車の「ベントレー XT7471 1924年製{サワイミュージアム蔵}がエントランスホールに展示してあった。留学生でありながら、車を乗り回すとは、よほど裕福な生活を送っていたのだろう。

又、「武相荘」命名の由来は、武蔵と相模の境にあるこの地に因んだのと、彼独特の一捻りしたという気持ちから、無愛想をかけたと言う。私から言わせると、単に同音異句の駄洒落でなく、品の良いウイットと思う。近衛内閣の司法大臣を務めた風見章氏が「武相荘」と揮毫し額装にして居間に掛けてあると言う。彼の遺言は「葬式無用、戒名不用」であった。正子が亡くなって3年後、2001年10月遺族によって旧白洲邸武相荘として開館した。

それにしても、GHQとも対等に渡りあった気骨ある日本人がいたことは嬉しい限りである。昨今の社会を見ると、政治の世界も経済界もあらゆる分野でこの様な人物が居なくなっていることは淋しい限りである。

写真はパンプレットと1924年製・ベントレー XT7471

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「琉球」

6月1日{水}東京国立博物館平成館で、沖縄復帰50年記念特別展として開催されている「琉球」{5月3日ー6月26日}を鑑賞した。
入館料2100円。正直、高い方である。一瞬えぇと思ったが、最近物価は上がっているし、首里城再建の寄付金と勝手に納得し入館した。

沖縄県は、かって琉球王国という独立国でした。15世紀初頭から約450年以上にわたり海洋国家として独自の文化を繁栄させた。
王都である首里には首里城がそびえ、城内には各国からもたらされた絵画や陶磁器、国内で作られた漆芸品、染織品などで溢れていたという。
しかし、第2次世界大戦のさなか、沖縄は国内では唯一の激しい地上戦が展開され、その結果、首里城を始め、建造物や芸術品など多くが失われた。

そこで、沖縄県では、平成27年度より琉球王国文化遺産集積・再興事業として失われた文化遺産の復元等に取り組みました。
ただ残念ながら令和元年{2019}10月31日未明大規模な火災によって「正殿」など重要な建造物が全焼した。
中でも約450年にわたり、政治、外交、文化の中心的存在であり、さらに王国の祭り、儀式や祈りを行う聖地でもあった首里城は県民の心の拠り所であったことから、政府も令和2年{2020}3月27日関係閣僚会議において「首里城正殿等復元に向けた工程表」が決定され、本殿は令和8年{2026}を復元完成を目途に新しい歩みを始めた。

処で、琉球王国は明治政府によって、明治5年琉球藩を創設。明治12年{1879}4月4日、琉球処分の名の下に沖縄県とした。私は、処分という言い方が理解出来ない。琉球が日本に対し、何か悪いことでもしたのだろうか。
確かに琉球王国時代、清国と薩摩や徳川幕府と二股外交を行っていた。しかし、それは理由にならない。

かって、私は歴史教科書で神功皇后時代、新羅を含め南朝鮮半島一帯を「三韓征伐」と称して攻め入った。或は、豊臣秀吉の時代、朝鮮征伐と称して「文禄の役」、「慶長の役」を起こす。また、明治6年{1873}西郷隆盛の征韓論が台頭する。いづれも相手国は日本に対し侵略でもしただろうか。日本に攻めてきたのは蒙古来襲ぐらいである。明治政府の富国強兵政策に依って教科書も政府に都合のいいように作られた一例であろう。

そう考えると、沖縄県民の米軍基地反対運動の根底にあるのは、或は、琉球処分まで遡るのかも知れない。昭和47年{1972}5月15日沖縄は本土に復帰し50年が経過した。
しかし、未だに本土とは県民所得では格差があると言う。これらを含め一日も早く本土と同等になる事を願うものである。

さて、展示品であるが余りにも多くあり、書きようがないが首里城正殿に掛けられていたという鐘で、琉球の象徴ともいえる宝であり重要文化財指定で天順2年{1458}藤原善作の「万国津梁{ばんこくしんりょう}の鐘」や王権のシンボル、国王の冠{国宝}など見どころ満載であり、「百聞は一見に如かず」である。特に私の興味を引いたのは、沖縄県うるま市勝連城址から出土した「ローマ帝国貨幣」や「オスマン帝国」貨幣である。
琉球王国はアジア各地はもとより、いかに幅広く交易があったかが分かる。何度も沖縄へは行ったが、やはり日本とは芸術、文化、建造物どれを見ても違う異国情緒溢れた所である。

当日は、公益財団法人・日本弓道連盟理事会が久し振りに対面会議として開催され、上京した折、鑑賞したものです。

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「蜃気楼」

みつけしは 非番の厨夫 蜃気楼  山口誓子

5月25日{水}午後1時頃魚津で蜃気楼を見た。友人5人で昼食後、友人の1人が今日の蜃気楼情報では、出現率が40%と高いから見に行くか。との声で昼食場の近くにある「蜃気楼スポット」と言われる「海の駅」に行った。「道の駅」はよくあるが、ここは海辺に面しているので「海の駅蜃気楼」と言われている。

駐車場の道路沿いの堤防には、大勢の人々が、望遠レンズのカメラや双眼鏡、或は、望遠鏡等を構え観測していた。ボランティアガイドの方は,私達に肉眼でも見えるという。
しかし、元の原形が無いから、これが蜃気楼か、一瞬戸惑う。でも景色が大きく伸びているので、やはりこれが蜃気楼か、と納得する。残念ながら私達は観測機材は何もなく、仕方なく他人の双眼鏡をお借りして覗いたら、はっきりとした風景であった。

双眼鏡はカメラで使う三脚の上にセットされブレる心配はない。なるほど、こんな観測の仕方もあるのか、と感心した。私が見たのは、富山・射水方面であったが、富山新港の新湊大橋がローマ字の[X]を描くように変形しているのが、はっきりと確認出来たし橋脚が上部に反転したように見え、虚像の方が大きくなっていたし、富山の岩瀬ドームがロケットのように伸びている姿や、富山市内のビル郡もみな伸びているなど蜃気楼の特徴がすべて現れていたように思った。ガイドさんの話では、蜃気楼のランクはA–Eまで5ランクあるが、当日はcランクと言う。ランク付けの基準は「観測時間の長さ」「蜃気楼の長さ」「鮮明度」等総合的に判断するとのことでした。

また、当日の魚津は風も少しあり、波立っていたので最初は駄目かと思っていましたが、ガイドさんの話では、富山・射水地方は波も風もないからで、観測地点の天候より出現地域の天候が大事とのこと。この様子は翌26日の北日本新聞でも報道され、今季25回目の上位{春型}蜃気楼であったことや、午前中には黒部方面にEランク、そして同11時50分頃から私が見た富山・射水方面も観測されたと報じていた。
北日本新聞では、毎日の気象情報の中で「今日の蜃気楼・魚津市付近」として予報が出される。帰宅後25日の予報を見ると、魚津では、午前中を中心に晴れて、北寄りの微風、蜃気楼の出現する可能性ある。確率40%と報じていた。

さて、蜃気楼と言えば魚津だが、実は滑川でも観測することが出来る。私の家から海岸まで200m位である。高校生の時までよく蜃気楼が出た、との情報で海岸へ見に言ったことを憶えている。しかし、昭和39年海岸浸食の為に堤防が6m嵩上げ工事が行われ、あたかも、刑務所の塀のような高さになり、出現していても中々見る事が出来なくなった。
しかし、明治・大正・昭和20年代までの観光パンフレットは「滑川の二大奇観」と称し「ほたるいか」と「蜃気楼」を取り上げている。片や魚津でも「ほたるいか」の漁獲量は滑川ほどないが結構ある。

そんな中、滑川では「ほたるいか」の海上遊覧を行っていたので,両市がすみ分けし「ほたるいか」の滑川、「蜃気楼」の魚津になったと言う。私も数十年ぶりの蜃気楼との出会いであった。しかもCランクで見ごたえのある自然現象の短いドラマを堪能した。

今回は残念ながらカメラに収めることはできなかったが、パンフレットには「蜃気楼は見れないと諦めていませんか。実は「魚津の蜃気楼は誰にも見る事が出来るんです」との見出しで、出現4条件が書いてありました。詳細は記しませんが、興味のある方は下記へ。
魚津市埋没林博物館 電話番号 0765ー22ー1049

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第65回東京滑川会総会

塵にまみれし街路樹に いと麗しき小雨降りけり

5月21日{土}11時ー13時30分まで、東京大手町サンケイプラザ3階にて総会・懇親会が開催されました。会場に入った10時30分頃より雨が降り出しましたが、会場を後にした午後2時頃には晴れ上がり、木々の塵が洗い流され、新緑の緑が一層鮮やかに輝いていました。

さて、例年なら100名前後の出席者でしたが、今回はやはり新型コロナの影響で出席者は約60名と少なかったですが、やむを得ないことと思います。
それでも、3年ぶりの開催とあって、開会前からあちこちで再会を喜び合う輪が出来ました。
総会は上田会長の挨拶のあと、会長を議長にして進められ、物故会員に対しての黙祷、令和3年事業及び会計報告、令和4年事業計画及び予算案がいづれも承認され、次いで、役員改選に入り上田芳夫会長が退任、新たに土肥正明氏{清水町出身が}就任、それぞれ挨拶がありました。

上田氏には、8年間の長きにわたり会長として会報「ほたるいかだより」を発行されるなど、会の運営に新風を送るなど、今日までのご尽力に敬意を表するものです。
尚、上田氏と関西滑川会会長千先氏と私は滑川高校の同級生と言う縁もあり大変親しくさせて頂きました。本当にご苦労様でした。
また、土肥新会長には、会の更なる発展の為にご活躍を祈念するものです。

次いで、来賓紹介のあと、滑川会副会長の平山紀夫氏が「ワクチンのことを知ろう」と題しミニ講演がありました。
演題が身近な話題であり、かつ、判りやすく解説され出席者は真剣に聞き入っていました。平山氏は農水省時代主に動物ワクチンを担当し、現在は岡山理科大学獣医学部非常勤講師として活躍されておられます。会員には多彩なメンバーがおられることに改めて感心しました。

懇親会に移り、まず、来賓祝辞は市長代理で柿沢昌宏副市長が市政の現状とふるさと納税に理解と協力を求める言葉がありました。
次いで、富山県首都圏本部本部長の砂原賢司氏は氏の父親が警察官だったので滑川赴任時、田中小学校当時の思い出も含めて話され、次いで東京富山県人会連合会専務理事・伊東靖史氏の3名で、乾杯は千先久矩関西滑川会会長の発声によって懇親会に入りました。

余興は、会員による新川古代神踊りや越中おわら節などが披露され、懇親会が盛り上がりました。和やかな雰囲気で時間は流れ、最後に滑川市と滑川会双方のエールの交換があり3年ぶりの再会ゆえ名残りは尽きませんでしたが、滞りなく終了しました。

いつも思うことですが、遠く故郷滑川を離れても、いつも故郷を忘れることなく、ふるさとの発展を願っておられる方がいることは、本市にとっても本当に心強い限りです。

写真は、土肥正明新会長の就任挨拶。

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令和4年薬神神社春季例大祭

今日 何も彼も なにもかも 春らしく  稲畑汀子

5月8日{日}午前9時より恒例の例大祭{主催・薬神神社奉賛会・石倉雅俊会長}が加積雪島神社境内にある薬神神社において、横川宮司によって厳粛に執り行われた。
今年のGWは4月29日から5月8日まで、最長10日間であり、その最終日であったが当日は、雲一つなく抜けるような空の青さ、黄色味がかった若葉がキラキラと輝き、青葉の新緑が色鮮やかな最高の日和でした。

宮司による祝詞奏上、石倉会長はじめ薬業関係者、来賓、出席者等順次玉串奉奠を行い、商売繁盛、交通安全、コロナ禍の早期終息等を祈願しました。
今回は、2月の市長選挙で初当選された水野達夫市長も参列されました。
また、昨年6月に75歳で急逝された故石崎則紀氏の奥さんと息子さんが参列され玉串奉奠を行い、先人同様薬神神社に合祀されました。石崎氏は今から40年前、私の後、第7代滑川市薬業青年部部長を始めとし、旧富山県薬業配置部会連合会・栃木県部会長など多くの要職を歴任し、業界の発展に寄与されました。私個人としても大変お世話になった方で、ご遺族と在りし日の氏を偲び、しばし、思い出にふけりました。終了後、石倉会長より挨拶があり、市長の参列に謝意を表し、市に対し引き続き業界の振興に理解を求められました。

石崎氏のご遺族には故人の功績を称えた。そして新型コロナは社会に大きな変化を与えた。我々もその変化に対応する必要性を述べ、自主回収や、市内の製薬会社の最近の動向などにも触れ、多くの困難があるが力を合わせ乗り越えてゆかねばならないと決意が述べられた。

次いで、来賓挨拶で水野市長は自身の父が14年前亡くなったが、それまで配置業者として島根県を回商していたこと。その懸場帳は父と共に回商していた自身の弟さんが、10数年前より現地居住し大田市周辺を回商し、現在家族と一緒に松江市に住んでいることなど、薬業と自身の関わりを話、業界の発展に尽力する旨述べられました。

また、大門良輔県議会議員は自分の健康は自らが守ること、すなわちセルフメディケーションの重要性を述べ、幸福も健康であって始めて成り立つ。そこに置き薬の果たす役割がある事を述べ、激励された。

例大祭の後始末を終えた後、社務所に集まり、故石崎氏の思い出や、業界の諸問題について語り合い散会した。

写真は、玉串奉奠する私。挨拶する石倉会長。水野市長。

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