なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2024年7月

パリ五輪出場村上選手壮行会

7月15日パリ五輪ウエイトリフティング男子102キロ超級代表村上英士郎選手{滑川高校出身}の壮行会が、ANAクラウンプラザホテル富山で、富山県ウエイトリフティング協会主催で午前11時30分より開催されました。

来賓には、新田知事、山本県議会議長、藤井富山市長、水野滑川市長、三宅日本ウエイトリフティング協会名誉会長・いちご(株)ウエイトリフティング監督、新井パリ五輪男子日本監督など多数の来賓が出席されました。不肖私も滑川高校同窓会会長として出席し、来賓紹介とともに、鏡割りにもご指名を受け恐縮至極でした。

最初に大門県協会長より挨拶があり、新田知事、山本県議会議長等から祝辞と激励、次いで三宅氏より裏話として、「コロナ前、佐藤滑川高校教諭より、村上選手を地方で練習するより、指導者や施設にも恵まれている中央で練習させたいと相談されたが、重量級の選手の育成は難しく一度は断った。しかし、熱心な要望に練習は一か月の内10日間は富山で、10日間はいちご(株)で、10日間はナショナルトレーニングセンターで行うことで引き受けた。

しかし、東京に来た頃よりコロナ感染症が拡大し、結局今日まで東京で練習を続けてきたことが結果的には良かった」など話されました。次いで、本人より挨拶があり「今日まで応援をして頂いた方々への感謝と、五輪での活躍を期す力強い決意表明」がありました。

次いで、2か所のこも樽の鏡割りが行われ、私も参加させて頂きました。その後、藤井市長の乾杯で懇談会に入りました。私の隣に荒井監督がいて、村上選手と3人で話し中、パリへ行く飛行機の座席は村上選手が大きすぎてエコノミークラスの座席では座れずビジネスクラス、監督がエコノミークラスです。と笑いを誘った後、村上選手は新幹線は、グリーン車は肘掛け邪魔で座れず、普通車は肘掛けが上下するから普通車を利用していることなど,しばしなごやかに懇談した。

又、懇談中に2023-2024の直近の海外での試合の模様がスクリーンに映し出されました。会場での笑顔と対照的に、試合でのバーベルを持ち上げる真剣かつ闘志に満ちた顔は想像も出来ないものでした。
村上選手は14日は富山市の地元熊野地区での壮行会。15日は富山で私の出席した壮行会。16日は母校滑川高校で壮行会。その後東京に戻り練習に励み、27日の開会式は欠席し、31日パリへ向かうそうです。

最後に万歳を三唱した水野市長より、村上選手が競技するのは、日本時間8月11日午前3時30分で、その時西地区コミュニティーセンターで、パブリックビューイングが行われることの発表がありました。

尚、滑川高校出身で夏季五輪に出場したのは、昭和39年{1964}の東京五輪にレスリング競技で銅メダルを獲得した堀内岩雄さん以来実に60年ぶりです。又、富山県内でウエイトリフティング競技で五輪出場は初の快挙です。

兎に角、村上!パリで頑張れ!頑張れ!村上!母校と富山と日本に勇気、元気を!

写真は、新田知事と村上選手。挨拶する村上選手。鏡割りの私。

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国宝・興福寺三重塔

7月7日午前、旧・奈良県知事公舎に引き続き興福寺を訪ねた。
興福寺と言えば五重塔や阿修羅像が有名であるが、今回は国宝・三重塔である。実はこの塔、年に一度特別開扉がある。それが7月7日です。この塔は康治2年{1143}に竣工したが、治承4年{1180}焼失し鎌倉時代初期に再建され現在に至る興福寺に残る最も古い建物である。全高19mに及び、上層に比べて初層が大きく作られており、安定感に満ちている。

又、木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し、平安時代の建築様式を伝える重要な建物です。内部には千体仏が彩色されているなど、さすが国宝である。ただ今回の目的は、年に一度の特別開扉があり、弁財天の御開帳の日が、7月7日であるので拝観する良きタイミングであった。

弁財天は元の名をサラスヴァティと称し、川の女神でした。やがて学問・智慧・音楽を司る女神となり、中国で美音天・妙音天などと訳されました。日本では吉祥天と混同されたため、福徳・財宝の神とされ室町時代中期頃より七福神の一つに数えられるようになりました。そのため、通常「弁財天」と言われている。

当日は塔の前にテントが張られ、イスが配置され10時から信者さんたちが集まり法要が営まれるという。その前であったが既に開扉され、中が見えたので扉の前で、じっくりと弁財天を拝み、多少彩色が落ちていたが千体仏も見ることができた。三重塔をゆっくりと回り、東大寺に向かった。この頃になると人、人、人の波と猛暑である。東大寺もそこそこにして、昼食後帰途についた。関西滑川会を中心に、二泊三日の駆け足の旅であったが充実した日々であった。

写真は、国宝・三重塔。開扉され御開帳された弁財天。

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旧・奈良県知事公舎

関西滑川会の翌日、7月7日現地に住んでいる甥っ子の車で、早朝8時半頃から、旧・奈良県知事公舎を見学した。この建物は築100年余りの純木造和風建築で、現在は建物は県所有で、民間業者によりホテルとして活用されている。それゆえ、恐る恐るフロントで見学をお願いしたところ、意外にも簡単に許可が出た。廊下を歩くと窓越しに朝食中の宿泊客が目に入る。実は此処を訪ねたのは目的があった。

1951年{昭和26}11月18日、参議院本会議では、衆議院に続いて2条約が承認され、当時首相であった、吉田茂は会議後に批准書に署名を行いました。憲法の規定で天皇の署名も条約締結には必要のため、当時の官房副長官 剱木亨弘{けんのきとしひろ}が奈良に行幸中であった昭和天皇の元へ赴きました。翌19日、昭和天皇が滞在中であった奈良県知事公舎にて、ご帰還を待ち、

昭和天皇がお戻りになった夕刻時に、天皇は侍従長だけを伴って部屋に入り
「裕仁」と署名をしました。その部屋が「御認証の間」として、当時のまま保存されており、ここを見学するのが目的でした。広さは10畳程度とさほど大きくはありません。洋室ですが格天井と格式の高い造りでした。

部屋の入口に
「日米安全保障条約・サンフランシスコ講和条約 批准書御認証の間」

と書かれた案内板があり、歴史を追体験したような感じでした。

隣の部屋はもう少し広く、やはり格天井でした。中庭も散策しましたが、手入れの行き届いた日本庭園として整備されていました。富山県知事公舎は中沖知事時代に廃止され、その跡地に、現在の「古志の文学館」が建設されました。フロントで宿泊料金を尋ねたところ、最低一泊10万円位からでした。

写真は、旧・奈良県知事公舎前、批准書御認証の間。

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醍醐寺国宝展

関西滑川会の前日、7月5日午後大阪中之島美術館で開催中の醍醐寺{京都市}国宝展を鑑賞した。ご存知醍醐寺は、真言密教の拠点寺院として平安前期、貞観16年{874}理源大師聖宝によって創建され、開創1150年を記念し今回大阪で開催された。

醍醐寺は豊臣秀吉が晩年に行った「醍醐の花見」でも有名な名刹で、そこに伝わる国宝14件、重要文化財47件を含む寺宝約90点が公開された。
創建時から伝わる重要文化財「大威徳明王像」などを通して寺の歴史をたどる、第一章「山の寺 醍醐寺」、密教寺院として代々の僧侶たちの研究成果に注目した第二章「密教修法のセンター」、美の殿堂としての文化的側面を打ち出した第三章「桃山文化の担い手」で構成される。

秀吉は五重塔を残して焼けた醍醐寺の復興に尽力した。その死後も豊臣家や徳川家による保護が続き、屏風絵など近世の名画が今に伝わっており、実に見応えのある国宝展でした。中之島美術館は初めて訪れましたが、近代的な建物で、会場は4階でした。しかし、エスカレーターが凄い。天まで昇るかのような長さで、徳島の大塚美術館を思い出させました。

写真は、パンプレットとエスカレーター

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第57回関西滑川会

 「ふるさとは 遠きにありて思ふもの・・・・」室生犀星が郷里金沢に帰郷した折に作られた詩という。詳細は割愛するが大阪も東京同様2時間半前後で結ばれるようになった。

しかし、「ふるさと」に寄せる人の思い、つまり、過去のものや遠い昔などに惹かれる気持ちは、距離や時間の長短に関係なく、異郷にいて故郷を懐かしく思う気持ちとして、昔も今も変わることなく人々の心の拠り所として生きているのであろう。それにしても、故郷のことを、いつも気にかけ、故郷の発展を願っている方々がおられることは本当に有難いことである。

さて、静岡で40度を記録する猛暑となった7月6日{土}恒例の関西滑川会{千先久矩会長}の総会と懇親会が会員約60名が参加し、ホテルグランビィア大阪で盛会裏に開催された。
総会では、滑川市の歌、滑川高校校歌を唱和。次いで、会長は一年ぶりの再会を喜び、滑川の地酒を味わい、ふるさとの言葉で語り合い、楽しいひと時にしたい。と挨拶。水野達夫市長は、久々の大漁だったホタルイカ漁や能登半島地震の本市の被害など滑川市の近況報告。古城紀夫近畿富山県人会会長。大門良輔県議会議員。金田幸徳滑川高校校長。土肥正明東京滑川会会長。最後に滑川高校同窓会会長の私である。

いつものことだが、6番目で最後の挨拶は前者5人の挨拶と重複しないで云わねばならないからやりずらい。私の挨拶は、間もなく開幕するパリ五輪に、ウエイトリフティング102キロ超級クラスで出場する滑川高校出身の村上英司郎選手と5月18日東京で会った折、私は、彼に「メダルに向かって頑張れ。金メダルが駄目でも銅メダルでも良いから頑張れ」と発言したところ、隣にいた元・日本レスリング協会会長の福田富昭氏{滑川高校出身}が、それはダメだ。一流のアスリートはプレッシャーをはねのけてこそ一流のアスリートになれる。故に私の様な激励はダメだと言われた。

私は思わず銅は漢字で書くと、金と同じと書く。と言ったところ、「どうでもいい」と話されたことや、今年のホタルイカ漁が豊漁であったことに関して、人間が陸から水中に身を投じることを「身投げ」と言う。しかし、「ほたるいか」は海中から波打ち際に来ることを「身投げ」と言う。日本語の面白さを多少ユ―モア―を交え話しました。

又、5月18日東京滑川会で最後に全員で合唱したのが「ふるさと」であった。その時同じテーブルにいた関西滑川会会長の千先さんに関西滑川会も合唱するのだから、独自の歌詞を考えたら、と提案したところ、、私に書いたら、とのことで、つい酒に任せメモしたものを渡しました。しかし、これはあくまで私案であり、関西滑川の皆さんで考えたら良いと申し上げました。

だが、当日配布された資料の中に、私の「ふるさと」の歌詞が4題目に、{後記}中屋一博作と記してあり驚きました。これが最後に全員で4題目まで合唱したから尚更です。まさに汗顔の至りでした。尾崎照夫市議会議長の乾杯で懇親会に入りましたが、アトラクションでは、千先会長が松健に扮装し、役員一同のマツケンサンバには会場は大爆笑、大いに盛り上がりました。

又、東京滑川会副会長・勝又敦子さんのプロ並みのマジックショーには会場は騒然となったり、近畿県人会副会長・石田千治さんの歌謡ショーがあったり、近畿県人会「おわら教室」の皆さんによる「越中おわら踊り」など、盛り沢山の内容ででした。11時から15時まで当初長いと思われていた4時間も、アッという間の時間でした。

最後に滑川市議会副議長・青山幸生氏、関西滑川会副会長・近堂収氏によって、エールの交換があり閉会となりましたが会場のあちこちで別れを惜しみ,再会を約す姿が見られました。それにしても、千先会長のアイデアにはいつも感服します。誰にも生まれ育った「ふるさと」があり、青春のひと時を過ごした母校がある。

「ふるさと」を離れ、久しぶりに富山へ帰省し、立山連峰の雄姿を眺めた時、富山県人であることを実感すると言う。日頃は意識していなくともやはり人々の心の中では「ふるさと」生き続けているのだろう。改めてそう思った。

国巡り 山々見ればふるさとの 
        越の立山 たぐい希なり  山田孝雄

「故郷」
 兎追いし  かの山       稲穂ゆれし かづみ野
 小鮒釣りし かの川       清き流れ  はやつき
 夢は 今もめぐりて       有磯の海に ほたるいか
 忘れがたき ふるさと      忘れがたき ふるさと

写真は、千先会長。私の挨拶。マッケンサンバを踊る千先会長、水野市長、尾崎議長、勝又さんのマジックショー。

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