なかや一博 ブログ

月別アーカイブ: 2024年8月

薬業人バーベキュー

8月16日{金}午後2時から、猛暑が連日続く中、我が家の小さな中庭で、猛暑に負けるな「薬進」をテーマに「薬業人バーベキュー」を20名の参加者で行った。

当日は、台風7号が関東地方に接近中と天候が心配される中での開催でしたが、影響は殆どなく、曇り空に心地良い風が吹くまずまずの天候であった。そしてスマホによるウエザー情報もあり、便利な世の中になったものである。それにしても開催日を決めるのはなかなか難しい。
7月初旬には決定したのだが、その時点では1か月半先の台風や猛暑或は雨天などは予想出来ない。しかも、お盆明けには出張する人もいることも考慮して決定しているのだが、今回は結果良しあった。

また、飛び入りで県庁の課長も参加された。参加した人の営業地は、北は北海道から、南は鹿児島、宮崎、熊本などを始めとして全国各地に及び、それゆえ話題も豊富で話に花が咲きました。また、同一地域を営業する者同士であれば、商品の販売テクニックなど、腹を割っての話は中々出来ない。しかし、今回の参加者は営業地が違うことから本音で商売のことを話せる機会でもあった。

また、参加者の中の売薬さんで薬剤師の免許をを持った方もいて、課長とは話が合ったようだった。それにしても「焼きそば」や「焼肉」を手際よく調理する人もいるなど、さすが売薬さんは多種多芸であり改めて感心した。
参加者から、玉ねぎ、ジャガイモ、なす、酒など多数の差し入れがあった。

約3時間半和やかな雰囲気の中、名残を惜しみつつ再会を楽しみに散会した。

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パリ五輪と滑川高校同窓会

たたまれて いても涼しき 日傘かな

誰の句か知りませんが、たたまれている日傘を見ただけでも一服の涼を感ずる位の連日の猛暑である。

さて、8月10日{土}午後6時恒例の滑川高校同窓会{会長・中屋一博}の総会及び懇親会が約70名の参加を得て、西地区コミュニティセンターで開催されました。
総会は毎年曜日に関係なく、8月10日と定められています。同窓生は約3万7千人と県下最大規模を誇る同窓会として発展し、各界、各層に有為な人材を多数輩出し、各分野で活躍しておられることは私達の誇りとするものです。

今年の総会は役員改選の年でしたが、不肖私が再選されました。ただ今回は新たに富山{水橋}、,滑川、魚津担当の副会長を設けたことと,幹事も若手を多く起用し組織の強化を図りました。将来これに上市が加われば更に良いかと思います。
いつも思うことですが、誰にでも生まれ育った「ふるさと」があるように、誰にでも青春の一時を過ごした母校があります。特に今回思ったのは、たまたま総会当日はパリ五輪の開催中で、連日、日本選手ののメダルラッシュに湧いていました。

その中で日本選手が金メダルを取り表彰台に上がり、国歌が流れ、国旗が掲揚され選手が金メダルを高らかに持ち上げるシーンや日の丸を背にして会場を回ったり、ガッツポーズの姿を見ると、どこか胸が熱くなる。
日頃、君が代や日の丸に関心のない人でも、あの映像をテレビで見るとどこかジーンとくる。これが日本人なんだろうと思う。富山県人が帰省した時、立山連峰の雄姿を見て自身が富山県人である事を自覚するという。

パリ五輪には滑川高校出身つまり同窓生である村上英士郎さんがウエイトリフティング競技で出場し、総会会場はその話題で大いに盛り上がった。母校の存在も前述同様、日頃滑川高校の存在を全く意識していない人でも何かの機会に母校の名が出るとやはり意識する。母校とはその様な存在だが、人それぞれの心の中で生き続けているのであろう。

さて、その村上選手{平成25年度卒、29歳}は本校出身者として夏季五輪にレスリング競技で出場し,昭和39年東京五輪で銅メダルに輝いた堀内岩雄氏が唱和43年メキシコ五輪に出場以来ですから、実に56年ぶりの快挙です。しかも富山県でもウエイトリフティング競技での五輪出場は初めてです。特に彼の102㎏超級クラスは日本人でも出場は難しく3年ぶりです。

ウエイトリフティング競技は、日本時間8月11日{日}午前3時30分より開始され、西地区公民館で、「拳魂」と村上選手がバーベルを持ち上げる姿を描いたTシャツを着た滑川高校ウエイトリフティング部部員に、保護者、OB、OGなど関係者約70名が集まり、手作りの「うちわ」やステック・バルーンを打ち鳴らし大型モニターで観戦、応援するという。
私も前夜の懇親会で多少疲れもありましたが、同窓会長として観戦し精一杯の応援をしました。
結果はスナッチ180K、ジャーク220Kトータル400Kで12人中10位でした。

しかし、五輪に出場するだけでも大変なことに加え、両足首を痛め万全でない中での成績で、しかも五輪で10位ですから立派なものです。午前3時半にも拘わらず、多数集まった人々から村上選手の勇姿に盛大な拍手が送られました。
後に続く後輩たちにも、大きな励みになったと思います。事実8月12日付、北日本新聞で、先の全国総体女子76K級を制した本校3年の眞田明花李さんが「世界で戦う姿を見せてもらったので、自分も高い目標を目指したい」との意気込みが掲載された。部員のみならず学校全体が活気つき、我々にも、元気、勇気を与えてくれた。いづれ帰国後、学校での報告会が楽しみである。

写真は、総会で挨拶する私。西地区公民館のモニター画面で、スナッチ220Kを成功した村上選手。「拳魂」と村上選手のイラストされたTシャツ。閉会式での村上選手{北日本新聞より}

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「原爆の日」

新しき 朝の光の さしそむる
      あれ野にひびけ 長崎の鐘  永井隆

8月6日広島に、9日長崎に米軍による原爆投下から、79年となる「原爆の日」を迎えた。
日本の総人口の8割以上が戦後生まれとなり、戦争や原爆の悲惨さを語れる人が年々減少し、悲劇の記憶が遠のきつつあることは残念である。

1945年8月6日午前1時45分{日本時間}B29爆撃機エノラ・ゲイは濃縮ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を搭載し、西太平洋マリアナ諸島・テニアン島の飛行場を離陸した.機長だった、ポール・ティベック氏の自伝によれば、第一目標は広島だったが、この時点では決定していなかった。

有視界での爆弾投下が命令で、3機の天候観測機がエノラ・ゲイに先行。広島、小倉、長崎に飛んでいた。午前7時半、広島上空の天候観測機から「雲量はどの高度でも3割以下」と連絡が入った。「目標は広島」ティベック機長が乗組員に伝えた。午前8時15分、世界で初の原子爆弾が広島に投下され,街は一瞬で廃墟と化し、14万人が犠牲になった

8月6日広島での「平和記念式典」の中で、こどもを代表して、小学6年生の児童2名が「平和への誓い」を朗読した。その中の一部であるが、「・・中略・・今なお、世界では戦争が続いています・・中略・・本当にこのままでよいのでしょうか。願うだけでは、平和はおとずれません・・中略・・家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語りあいましょう。世界を変える平和への一歩を今、踏み出します。」この誓いの言葉には胸を打たれた。

そして、8月9日長崎である。2発目の原爆を投下するためB29爆撃機「ボックスカー」がテニアンを飛び立った。積み込まれたのはリトルボーイの1,5倍の威力があるプルトニウム型爆弾「ファツトマン」である。第一の目標の小倉は視界不良などで断念。午前11時02分、第二の目標だった長崎に投下され7万人の命を奪った。歴史に「もし」はないと知りつつも「もし」長崎も視界不良だったらと思ったりする。

米国は1942年原爆を開発する「マンハッタン計画」を始める。これを主導し「原爆の父」として知られる、理論的理学者オッペンハイマーを主役にした映画が昨年7月米国で、また、日本でも公開され話題を呼んだ。
彼はその後、原爆の開発を後悔し「我は死なり、世界の破壊者なり」と言い、水爆の開発にも反対したという。

私は、1978年{昭和53年}1月富山県洋上セミナーで、グアム・サイパンを訪れた折、飛行機は住民の生活物資の積み下ろしのためテニアン空港に着陸した。当時の空港の滑走路は未舗装で、着陸時には砂塵濛々としたのを記憶している。離陸まで約1時間程あり,機外に出るのが自由で、ターミナルを見学に行った。そして、この滑走路から、広島へ、長崎へと原爆を搭載したB29爆撃機が飛び立ったことに思いを馳せ複雑な気持ちになったことを覚えている。

ロシアの文豪トルストイは、、日露戦争当時の明治37年{1904}6月、ロンドンタイムズに寄稿し、「日本は殺生をしない仏教国である。ロシアは人類皆兄弟であり、人間は愛である」と説くキリスト教である。その国がなぜ戦うのか。戦争は止めるべきと寄稿した。ロシアとウクライナにも言えることである。

また、かって京都大学教授であり、優れた国際政治学者であった高坂正堯氏{1934-1996}が、人間にとって戦争は「おそらく不治の病であるかもしれない」と的確に洞察され、一方で「我々はそれを治療するために努力し続けなくてはならない」とも述べて「我々は懐疑的にならざるを得ないか、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間の務めなのである」著書「国際政治・恐怖と希望」より。

しかし、現実は厳しい。国連安保理常任理事国であるロシアがウクライナに一方的に侵略し、核の使用をちらつかせ、拒否権を発動する。北朝鮮の行為にも国連は機能不全に陥っている。戦争とは、その国の最高責任者が決断し、その犠牲者はいつも何の罪もない弱者である。

太平洋戦争での日本人犠牲者しかり、ウクライナやイスラエル・ガザ地区の犠牲者を見ても一目瞭然である。私は、広島平和記念公園内の資料館や原爆ドーム、また、長崎では北村西望作の巨大な「平和の像」や浦上天主堂を訪ねた時を思い出す。やはり戦争はしてはならない。広島での、こども代表の「平和への誓い」を噛み締めるべきと思う。

最後に、昭和20年8月9日、長崎の爆心地に近い医科大学で被爆しながら治療に当たった、医師の永井隆博士が、原爆で妻を失うなどの事実から、昭和24年出来上がった歌が、サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲「長崎の鐘」である。この曲がヒットした2年後、昭和26年永井隆博士は43歳で亡くなった。博士がこの曲を聴いたのち詠んだのが、冒頭記した1首です。
改めてここに記します。

新しき 朝の光の さしそむる
      あれ野にひびけ 長崎の鐘  永井隆

写真は、8月6日、広島での平和記念式典{北日本新聞より}

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ネブタ流し

散れば咲き 散れば咲きして 百日紅  加賀千代女

猛暑 炎暑の中で 散っても 散っても咲いてくる百日紅のパワーには驚くと同時に、なんとなく元気を貰うような気がする。

さて、滑川の伝統行事であり、国の重要無形民俗文化財である「ネブタ流し」が7月31日夕方、滑川市の中川原海岸{和田の浜}で行われ、多数の見物客が炎を眺めながら無病息災を祈った。
ネブタと言えば、竹や木を使って紙貼りや、武者人形、鬼、鳥獣などを作り、中に灯をともして屋台や車に乗せて練り歩く青森や弘前{ネプタと称す}を思い出す。

しかし、滑川の場合は、藁などを材料にして7mー8mの円柱状に製作されたた大たいまつを、「筏」に乗せて、火をつけて海に流し、眠気やけがれ、病気をネブタに託し,火と水で消し去ろうと云う願いが込められていると云う。
中川原、吾妻町、常磐町、滑川青年会議所、滑川商工会青年部など10団体のネブタ11基のネブタの頂上に次々と火が付けられ、海に入った住民がネブタを乗せた筏を沖へ流す壮観な行事である。

沈む夕日と燃え上がるネブタ。一幅の絵になる風景である。
「滑川の民俗」上78頁によれば、「かって神家町、加島町、高月町でもあった。また、明治前期の頃までは、6月30日に行なわれていた.この他、7月31日には水遊びをしたり、女性が洗髪すると風邪をひかないとか、この日以降、昼寝をすることをとがめられたと云う伝承もあった」と記してある。

全国的にみると、この行事は東日本に多く、滑川はその南限と言われている。いずれにしてもネブタの形態は違っても、その目的は、人々の、体についた汚れを流し身を清め、無病息災を祈願する「禊払い」であろう。

写真は、滑川の「ネブタ流し」
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