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「先用後利」と「先義而後利者栄」

◆五輪、震災復興から見る「利他の精神」
 リオオリンピック・パラリンピックが盛会裡に終了、閉幕した。当初心配されたテロ対策、施設の完成日時、交通事情など多少の問題点があったとしても、概ね成功に終わり、関心は4年後の東京オリンピック・パラリンピックに移った。
 それにしてもリオオリンピック・パラリンピックでの日本勢の活躍は素晴らしかった。オリンピックでは金メダル12個、銀メダル8個、銅メダル21個、パラリンピックは金こそなかったが、銀10個、銅14個である。特に金12個のうち、富山県から2人の金メダリストが出た。レスリング女子48㎏級の登坂絵莉選手と、柔道女子70㎏級の田知本遥選手だ。2人揃っての金は県のスポーツ史上初の快挙であった。
 とりわけ我々が感動したのは、メダリストのほぼ全員が口にした「感謝」という言葉である。これが日本人選手の活躍を一層、美しく感じさせる要因になったように思う。
 「支えてくれた人に」「応援してくれた人に」「一緒に戦ったチームメイトに」「テレビの向こうにいる人たちに」感謝しているとの発言は、日本人独特のものであり、これこそが日本人の美徳であると指摘する人もいる。陸上競技100m走等で金メダリストになったボルト選手のガッツポーズとは対照的である。
 また東日本大震災から5年以上経過した今日でも、警察官や消防団員による遺体捜索が行われている。果たして世界中で、こんな国があるだろうか。それはどんな仕事も、あるいは目標も1人では成し遂げられない。常に周囲と協力し感謝する。この精神こそ日本人の誇りであり、正に「利他の精神」である。すなわち、「先用後利」の精神でもある。

◆先用後利の商売哲学 売薬の専売特許に非ず
 さて、この「先用後利」の商法を論じる時、芦峅寺衆徒の話が出る。以下、北日本新聞社刊「先用後利」(1979年発刊、1997年8月20日改訂版発刊)より抜粋。
 衆徒らは功徳を絵にした立山曼荼羅を掲げ、お礼を配った。同時に経帷子やくすりを信者に預けた。山岳密教、立山信仰の布教活動として中世から全国的に行われていた。
 宗徒らが与えたくすりは熊胆である。ヨモギの煮汁に芦峅寺地区にある樹皮、キハダを加えて煮て作ったものである。このほか高山植物のミヤマリンドウを三効薬と称して気付けぐすりに使ったという。
 衆徒はこれらを携えて布教に歩いた。そして檀那帳を作って住所、氏名、品物を書き留めておいた。翌年、また同じ信者の家を訪れて信仰を説く。村人たちが「あの越中立山の修験者が来られた」と続々集まってきた。
 この時、経帷子はもちろん、針の代金ももらった。「初穂ハ壱年送り二御座候」。総て代金は1年送りであった。また、越中売薬の「先用後利」との類似点はもう1つある。
 「檀那帳」は衆徒の活動基盤でもあった。各坊家の配札場は代々その坊家に世襲独占されていたが、江戸時代には檀那帳として売買の対象にもなった。(北日本新聞社発刊「先用後利」より)
 つまり、配札場とは売薬で言う回商地域であり、檀那帳は懸場帳で、「初穂ハ壱年送り二御座候」は使用した分のみ集金する「先用後利」の商法である。
 このように「先用後利」の商業哲学は、単に売薬の専売特許ではなく、中世から売薬以外にも存在した商法であり、それらと関連性があると以前から指摘されていた通りである。
 そこで今回私が提起するのは「先用後利」の4文字が誰によって、いつ頃語られるようになったのか? それは造語なのか? あるいは出典は? また富山売薬の祖である富山藩2代目藩主・前田正甫公の言葉なのか? これらは、ほとんど語られたことはなかったと思う。
 私自身、いろいろな薬業に関する書籍を読んでもよく分からなかった。そこで利他の精神と先用後利と重ね合せて考え、この点について私見を述べてみたいと思う。

◆荀子の〝七言〟をヒントに誕生か
 江戸時代、商才に長けた者が大きくなり、豪商となった人々で、現代でもその名が残る三井、住友、鴻池などがいる。例えば豪商三井が商いの心得として記した中に「女、童、盲人も買に参候ても」の言葉がある。つまり、誰でも客ですぞ、と言うこと。そして「現金、そらねなしに商売致し始」とある。これが三井の前身である呉服商・越後屋が大成功を収めた商法の「現金掛け値なし」の看板文句なのである。
 このように豪商たちは競って商業哲学を標榜し始めた。その中に現在の東京、京都などにある大丸の創始者・下村彦右衛門(元禄元年〈1688年〉~寛延元年〈1748年〉、京都・伏見生まれ)がいる。享保2年(1717年)に29歳で伏見に大丸の前身呉服店「大文字屋」を開店。創業20年の元文2年(1737年)を節目に京都、名古屋、大阪の全店で座右の銘とする言葉を発し、これを掛け軸にして掲げさせ、以後、事業の理念とした。
 「先義而後利者栄」である。中国・戦国時代の荀子の栄辱編からの七言で「義を先に、利を後にする者は栄える」という意味である。
 
 結論から言うと、この荀子の七言にヒントを得て「先用後利」の言葉が生まれたのではないかと思う。
 では、誰がいつ頃言ったのか? 正甫公か? 正甫公は宝永3年(1706年)に亡くなっている。下村彦右衛門の言葉は元文2年(1737年)であるから、正甫公はすでにいない。
 ズバリ、富山藩5代目藩主・前田利幸公(享保14年〈1728年〉~宝暦12年〈1762年〉、三十四歳没)と思う。17歳で藩主となった彼は藩主就任早
々、藩財政の再建に思いをめぐらしていた。以下、遠藤和子著「薬売り成功の知恵」(1994年12月発刊)より。
 利幸にはよき理解者がいた。叔父・前田利寛である。彼は富山売薬発祥のきっかけを作った2代目藩主・正甫公の8男である。父がこの世を去った時は3歳であった。しかし、利幸にすれば頼りになる叔父であり、尊敬できる指導者であった。藩政のことを相談しては指導助言を受けていたと考えられる。利幸は幾つもの売薬施策を出した中で反対意見もあったが、「反魂丹役金の取り立てを当年より停止することを申し渡す」(宝暦3年〈1753年〉)。これも利寛のアドバイスと言う。
 この触れに売薬商人たちは躍り上がって喜んだ。仕事に勢いがついた。売薬仕事に従事する者が増えた。また農村部でも宝暦4年、5年と2年続きの凶作、飢饉が重なると、農閑期に売薬商人の連れ人となって働き者が増えた。
 一方、利幸は参勤で江戸に出ると、売薬商人受け入れ工作に励んだ。登城すれば諸大名の詰間を回る。また、江戸家老を諸藩の屋敷に派遣して頼み込ん だ。このようにして新しく許可を得た藩は、商人たちの働きも含めて32藩。振り売り行商圏も合わせると全国一円に広がった。販路は大きく躍進した。これによって売薬に従事する商人の数は一挙に1,000人を超えた。
 
 ついで宝暦9年(1759年)に反魂丹取締役として、長(おさ)町人又七郎を任命。反魂丹商売切手の発行権を与える。宝暦10年(1760年)2月に「反魂丹商人心得方」について申し渡す。反魂丹切手とは、富山藩から旅先藩に宛てた売薬許可状で、身分証明書に当たる。旅先藩でこれを示せば、容易に信用してもらえる。それだけ富山藩では「反魂丹売薬の名を汚さぬようにと旅先での行いを戒める心得状を出したのであろう。(以上遠藤和子著より抜粋引用)
 また、宝暦6年(1756年)3月に富山藩は「反魂丹役所」の名において富山売薬商人の上縮(うわしまり)元締役に旅先における触留を出すなど、藩が全面的に乗り出し、信用の維持に努める権威の格付けに一役買っている。これと同時に、この頃に当然、反魂丹売薬の商売哲学を考えたと思う。
 下村彦右衛門の七言が京都、名古屋、大阪の全店で掛け軸に掲げられたのは元文2年(1737年)である。宝暦10年(1760年)は、この七言が世に出て20年以上過ぎている。この頃、売薬行商圏も全国一円に広がり、従事者1,400人~1,500人とある。当然、それなりの人々の目に入ったであろうし、帰藩した折、この七言が上司に伝えられたと思う。
 「先義而後利者栄」。やはり、この言葉にヒントを得て「先用後利」が生まれたのではないかと思う。残念ながら利幸は宝暦12年(1762年)に34歳の若さで亡くなった。藩の財政再建にはならなかったが、領内は安定し、富山城下は繁栄し「さても見事よ、富山の町は、二階造りの白壁よ」と、信濃路のひな歌まで歌われたと言う。利幸以降、代々の藩主も保護奨励し文久年間には2,200人の売薬行商人を数え、年間売上20万両、藩財政の一翼を担ったと言う。
 参考までに売薬行商人数は宝暦年間(1751年~1763年)1,400人~1,500人で、この頃、全国的販売網が出来上がったと言われる。文久年間(1861年~1863年)2,200人、慶応元年(1865年)2,221人、明治4年(1871年)8,000人。明治4年の人数は、廃藩置県等々で武士が失業したためだと考えられる。

◆正直律義で慈愛深く
 ここで下村彦右衛門の遺訓を記しておく。
 「人は正直で慈愛に富むのが第一。衣服や食事のおごりもいけないが、心のおごりがもっともいけない。いかに才知にすぐれていても、不義理な人間は役立たない。ましてや主人たるものは、正直律義で、慈愛深くなければ多くの人の上に立てない」
 この言葉が飾り物でなかったことを証明したのが、創業から120年後、天保8年の大塩平八郎の乱である。
 「大丸は義商なり」天保の大飢饉の時、平八郎はこの飢饉を見かねて救済策を奉行所に進言するが受け入れられず、ついに決起する。豪商達多数が襲われるが、その中で大丸が難を逃れる。「大丸は義商なり、犯すことなかれ」と叫んだと言われる。

 ※なお、この文は、10月に家庭薬新聞および薬日新聞に寄稿したものです。



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