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出雲と大和

春風や まりを投げたき 草の原 正岡子規

2月12日全弓連理事会出席のため、上京しました。その機会に上野にある東京国立博物館平成館で開催されている「出雲と大和」特別展を拝観しました。当日は、3月下旬から4月初旬と言われるポカポカ陽気の中、公園内にある小グランドの横にある正岡子規の冒頭の句碑と野球を楽しむ人々の姿を見ながら入館。

さて、「令和2年{2020}は我が国最古の正史「日本書紀」が編纂された養老4年{720}から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祠の世界を司るとされています。
一方で天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」、を象徴する場所として、重要な役割を担っていた。」パンフレットより引用。

国宝や重要文化財など170点もの作品が出品されていましたが、圧巻は、定説を覆した圧倒的な数の青銅器。特に、国宝・銅剣・銅矛‣銅鉾・{島根県出雲市、荒神谷遺蹟出土、弥生時代・前2-前1世紀}や国宝・金銅装鞍金具{後輪}奈良県斑鳩町、藤ノ木古墳出土・古墳時代・6世紀。
また、権威の象徴、王権の鏡、重要文化財の画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡、{奈良県天理市、黒塚古墳出土、古墳時代・3世紀}その中でも景初3年{239}と記された三角縁神獣鏡は、いわゆる魏の国から倭の卑弥呼に贈られたものではないか?と言われるものです。暫し立ち止まり興味深く見てきました。

また、長年実在したか、論争があった巨大本殿、重要文化財,宇豆柱で、これは、平成12年{2000}に出雲大社の境内から出土した巨大な柱で「心御柱」と「宇豆柱」のことである。{出雲大社境内遺蹟出土・鎌倉時代宝治2年{1248}。これらの巨大な柱は、出雲大社の本殿が、かっては高層建築であったことを示すもので本殿は48mだったとする資料が残るほか、鎌倉―室町時代の平面図では本殿の階段が長さ109mだったことも記されている。

これらのことは「日本書紀」や「古事紀」で触れられている「国譲り神話」で、出雲大社の祭神、大国主命が高天原からの使者に対し、支配権を譲る代わりに、巨大神殿を建ててもらったとされる話とも一致する。その特徴的な往時の本殿の10分の1の大きさの模型も展示され圧巻でした。

また、百済から献上されたと「日本書紀」に記載のある{七枝刀」と目される奈良県天理市の石上神宮に伝わる国宝・「七支刀」古墳時代・4世紀も出品されていた。いづれにしても滅多に見れない逸品ばかりであり、まさに、出雲と大和の名宝が一堂に集まった特別展であった。

参考まで「日本書紀」について
神代から持統天皇11年{697}までを記した歴史書。舎人親王{676-735}が中心となって編纂し、養老4年{720}元正天皇へ奏上された。全30巻で、巻1、巻2は神代、巻3の神武天皇から巻30の持統天皇までは編年体でまとめられているという。「日本書紀」の写本は、古本系統と、卜部{うらべ}家本系統に分類されているという。和銅5年{712}太安万侶編纂の歴史書「古事紀」よりも沢山の記事が収めらているところから「古事紀」より「日本書紀」が脚光を浴び、いつの間にか「古事紀」が忘れ去られてきた。
しかし、江戸時代に入り国学者・加茂真淵や本居宣長によって再び光が当てられた。そして双方とも、現代まで様々な視点から研究が続けられている。処で、日本のホテルの中には、各部屋に聖書が置いてあります。
むしろ、「日本書紀」を置けばどうでしょうか。

会議の都合上2時間余りの拝観でしたが、はるかいにしえに思いをはせ充実した時間でした。

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