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第74回滑高体育大会

こほろぎの 鳴くやいづこの 畳にて   山口誓子

朝夕虫の声が聞こえ、あちこちでコンバインの音が響き、稲刈りの風景が展開される9月6日{火}午前8時40分から滑川高校の体育大会が開催された。当日は白雲たなびく中、青空も広がり、殆ど雪が消えた立山連峰の雄姿もはっきりと見えるお天気であった。
しかし、開始早々はまだ良かったものの、6日は県内に台風11号が最接近し、次第に強風が吹き、砂ぼこりが舞い、各団のテントも張れず、しかも最高気温が昼頃では37℃に近く、まさに強風と猛暑での体育大会となった。

加えて、生徒の通学の足である「あいの風とやま鉄道」は昼前に午後2時頃より計画運休すると発表した。これを受けて、学校側は総合的に判断した結果、午後1時再開後応援合戦を以て中止と決定された。生徒諸君には、この日の為に努力してきたことが如何なく発揮されることなく消化不良の形で終わったのは残念なことだったと思う。
しかし、止むを得ない決断だった。それでも生徒諸君の精一杯青春を謳歌頑張っている姿は、やはり感動する。青春って素晴らしい。若いって羨ましい。つくづくそう思う。

処で、私の時代は「体育大会」でなく「秋季大運動会」と称した。いつ頃名称が代わったのかは分からないが、私は戦後のベビーブーム、いわゆる団塊の世代である。それ故、1学年600人。3学年で1800人。これに定時制があった。運動会の団編成も、白虎、青龍、朱雀、黄鶴、玄武の5団である。これが、綱引き、棒倒し、リレー、応援合戦、どの種目も迫力があったし、全員興奮した記憶が懐かしい。それに比べると・・・・と言ったら愚痴になる。
少子化で現在全校生徒数600人。これを考えると、これも時代の流れと理解せざるを得ない。今昔の感ひとしおである。

さて、ご存知の通り高松塚古墳の壁画が発見されたのは昭和47年{1972}である。その壁画に極彩色の美人画と共に四神図が描かれていた。その四神図が団の名称になっている。私の学生時代は古墳発見以前だったとは言え、その由来について正直考えても見なかった。いつ頃、誰がこの名称を付けたのか。又、校歌の歌詞に「思え車胤を青春の」とある。中国の故事「蛍雪の功」の車胤である。先人の智慧の深さ、重さに驚かざるを得ない。砂ぼこりの舞うグランドを後に帰宅した。

写真は、プログラム。応援合戦。グランドから見た立山連峰

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