塵にまみれし街路樹に いと麗しき 小雨降りけり
6月2日{日}午後3時30分より、恒例の清水寺貫主・森清範氏をお迎えしての市民文化講演会{主催・滑川音羽の会・会長中屋一博}が西地区コミュニティーセンターで300余名の多数の来場者のもと開催されました。
昨年は、講演会の直前、突然の体調不良で大西英玄執事に代理を務めて頂き、心配しました。
しかし、今年はいつもの通りの元気なお姿を見て一同安堵しました・当日は午前中は、小雨模様でしたが午後からは曇り空となり、雨上がりの青葉、若葉はやはり色鮮やかな景色です。
さて、清水寺と滑川とのご縁は、平成9年{1997}1月鳥取県沖でロシア船籍ナホトカ号が沈没し、大量の重油が流失し日本海側沿岸に大きな被害がでました。この時、当時市議会議員であった石倉宗一氏が重油処理にボランティアで能登半島に向かって入る途中、車中で聞いたNHKラジオ深夜宅急便から流れていたのが、清水寺森清範氏の講演であった。
これに感動した石倉氏は、後日、清水寺に行き森清範氏に直に滑川での講演を依頼されたところ、その情熱に心を動かされ平成10年{1998}第一回市民文化講演会が実現したのが始まりです。
しかし、平成16年{2004}石倉氏が突然お亡くなりになり、一時はどうなるか心配しましたが、氏の意志を引き継ぎ森貫主に引き続きお願いしたところ快くお引き受け頂だき、以来今年で26年になります。、昨年とコロナで2回中止になりましたので、ご本人のご講演は23回になります。それにしても、23回も同一地でのご講演は滑川だけだそうで本当にありがたいことです。
もう一点、清水寺と滑川との縁があります。それは「孝徳泉」の民話です。
大正2年8月発行の滑川町誌によれば、「文禄2年{1593}美作の国の了安、安静親子が了安の亡き妻の菩提を弔う為、行基菩薩彫刻の弥陀尊像を厨子に納め、それを背負い全国を行脚の途中滑川に宿泊したが病に倒れる。病状は悪化。
了安は息子安静に、末期の水に、京都清水寺・音羽の滝の水を飲みたい。これを聞いた息子は直ちに清水寺へ行き、沢山の竹筒に水を入れ持ち帰ったが、残念ながら了安は既に亡くなっていた。
嘆き悲しむ安静に旅籠尾張屋の主人の勧めにより安静が了安埋葬の地に音羽の水を掛けたところ、そこからコンコンと水が湧き出てきたという。いつしか人々はこれを「孝徳泉」と呼び、了安と安静親子の絆を偲び、そこに了安の墓石も建立した。{抜粋}
こんな話が江戸時代から今日まで伝承として伝えられているから、町誌や市史にも記されているのだろう。事実、その泉は現在も厚生連滑川病院中庭にありその脇に墓石もある。この話を知った森貫主はいたく感銘されたことも23年も続いている一因と思う。
講演会の後、毎回「孝徳泉」に行き、京都から持参された音羽の水を墓石にかけ読経をあげ供養されるのである。
今年で431年、了安親子も草葉の陰できっと喜んでいると思う。森貫主は、全国色々な所で講演するが、病院の中で読経するのはここだけです。と雰囲気を和ませてくれます。
さて、講演内容は、全国清水寺ネットワークの亡くなったメンバーの思い出での中で、病気の回復を祈ることは、「願い」と共に「感謝」の二通りがあること。明日の思いを現実にするには、今日の心構えが大切など、ユーモアを交えての1時間余りでした。
又、講演に先立ち同寺の大西英玄執事の有意義な前講もあました。
講演後、森貫主より「滑川音羽の会」に能登半島地震で被害のあった滑川市民等に対し、多額の寄付の申し出があり、活用は会に一任されましたので、そのまま市へ寄付することにしました。
壇上で森貫主から私へ、私から水野市長へ渡しました。水野市長から清水寺・森貫主へ感謝状が贈呈されました。
翌日、我が家で暫し懇談後来年の再会を約し元気でお帰りになられました。
写真は、講演の森貫主。私の主催者挨拶。厚生連病院中庭の孝徳泉。わが家での懇談会。