よもの海 みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ 明治天皇
みがかずば 玉も鏡もなにかせむ 学びの道も かくこそありけれ 昭憲皇太后
7月4日{土} 8時16分富山発{つるぎ}で京都へ。奈良線に乗り換え、桃山駅11時下車。ここで迎えの甥っ子の車で桃山御陵を訪ねた。
桃山御陵とは、明治天皇の御陵で東西127m 南北155m、上円下方の形で、それぞれに3段に築成。下段の方形壇は1辺約60m。上段の円丘部の高さ6,3m、表面には、さざれ石が敷かれている。御陵の東に一回り小さい昭憲皇太后の東陵がある。
私は、今回初めて知ったのであるが、この他、桓武天皇柏原陵、後花園天皇陵の計4人の陵がある。
特に明治天皇は「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」という天皇の生前の意思でこの地が選ばれたという。第123代大正天皇と貞明皇后,第124代昭和天皇と香淳皇后は東京八王子市にある武蔵陵墓地であり、桃山御陵同様上円下方形である。
形状は、時代によって異なるが、古くは円墳や前方後円墳などの高塚式の広大なものが多く、中でも仁徳天皇陵は、三重濠を巡らす前方後円墳で、面積約46万4千㎡を有する最大規模である。仏教等の影響により火葬も行われたことから、陵墓の規模は小さくなり、平安時代末期からは方形堂、多宝塔、石塔などを用いて寺院に葬ることが多くなった。
孝明天皇が慶應3年{1867}に崩御すると、神仏分離の影響から、山陵の復活を望む運動が起きたという。陵は天智天皇陵の付近に造営する意見もあったが、皇室との関係が深く「御寺{みてら}」と呼ばれた「泉涌寺」が反対し、結局、境内に、後月輪東山陵{のちのつきのわのひがしのみささぎりょう}として円丘土葬で造営された。
これは江戸時代初期の光明天皇から昭和天皇まで埋葬方法は伝統的な土葬の形式を踏襲して来た。しかし、宮内庁は2013年に当時の天皇皇后両陛下の意向を受けて、将来の天皇の埋葬方法を火葬に変更する方針を発表しました。
さて、明治天皇は生涯9万3千首を超える和歌を詠んだという。冒頭の歌はその一つである。明治37年日露開戦を前に戦争を憂慮する心情である。
昭憲皇太后も3万首を超える和歌を詠んでいる。冒頭の一首は明治9年{1876}東京女子師範学校{御茶ノ水女子大学}に下賜された和歌である。
また、昭和天皇が太平洋戦争回避止むなしに至ったとき、明治天皇の「よもの海・・・・」を引用されたという。また、敗戦の翌年昭和21年{1946}1月の歌会始めで詠まれた「ふりつもる、深雪{みゆき}に耐えて色あせぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ」この歌に、多くの国民が励まされたという。
昭和天皇が大正13年{1924}摂政宮当時、11月3日北陸地方における陸軍特別大演習御統裁のため金沢駅より石動駅へ行啓。
また、10日金沢駅より富山へ行啓.この時詠まれた有名な御製が「立山の 空にそびゆる雄々しさに ならえとぞ思う 御世の姿も」
県では御製碑建立を計画し、立山三ノ越に建立し、東京音楽学校教授・岡野貞一氏に作曲を依頼する。岡野氏は、文部省唱歌「故郷」や「朧月夜」など多数の名曲を作曲した人である。東京富山県人会では、今でもこれを「立山の賦」として出席者全員で合唱している。
私が訪れた7月4日は、気温30度を越す真夏日だあったが、暑さのせいか幸い観光客は殆どいなかった。御陵へ直行する約220の階段は余りにも急なため、迂回し東陵から御陵と回り階段を降りた。結果的にこれが幸いして、回り道は少し坂道とは言え、鬱蒼と生い茂った樹木を通り抜ける心地良い風と緑陰。静寂の中で、小鳥の鳴き声と砂利を踏みしめる音しかしない空間。これが神域というものなのかも知れない。
帰り階段を降りたところで、京都市内の大学生の空手部部員4人が階段を利用してトレーニングに励んでいた。出会ったのはこの程度の人だけであった。明治天皇は慶應3年{1867}1月9日14歳で即位し、以後、大政奉還から鳥羽伏見の戦いのあと、明治2年{1869}2月9日、後の昭憲皇太后になる一条美子{はるこ}と結婚。廃藩置県から西南戦争、日清・日露の戦争と、まさに激動の時代を生き抜き明治45年7月30日61歳で波乱の生涯を終えた。陵墓位置は旧伏見城本丸跡で墳丘は天守閣南にあたる。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」の冒頭「誠に小さな国が、開花期を迎えようとしている・・・・」
明治天皇の生涯もまたこのような時代であったことを重ね合わせ考えるひと時であった。
参考まで
明治天皇 嘉永5年{1852} 11月3日生まれーー明治45年{1912}7月30日 61歳崩御
昭憲皇太后 嘉永2年{1849}5月9日生まれ―ー大正3年{1914} 4月9日64歳崩御
写真は、御陵案内図。220段余りの急な階段。桃山御陵。